大阪陸軍砲兵工廠 (大阪陸軍造兵廠)
所在 中央区大阪城 ほか
収録遺構 (14) 建物 2, 門柱 2, 軍用地境界標 3, 軍用地境界塀 2, その他 5
実地調査 2007年 12月 |
大阪城公園内にあるので 大阪城への観光ついでに 回ってみませんか?? 所要は約 3時間程です。
「ピースおおさか」にも ぜひ寄ってくださいね★ | |
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大阪陸軍砲兵工廠は、大砲や爆弾などの兵器を製造する工場として、政府が1870年(明治 3)にこれの前身にあたる造兵司を設置したことから始まり、大砲製造所、砲兵第二方面砲兵支廠と名称を変更しながら変遷し、1878年(明治11)に開設された陸軍管轄の兵器生産工場です。その規模は東洋一を誇るもので、大阪城とその周辺一帯に広がっていました。
開設当初は、主に大砲などの重兵器や、砲弾・爆弾を製造していましたが、1940年(昭和15)に大阪陸軍造兵廠と改称されてからは、航空機の部品や風船爆弾の製造が中心となりました。
戦争の拡大に伴って、敷地拡張と工員の増員が行われてきましたが、終戦前日にあたる1945年(昭和20) 8月14日、空襲により壊滅しました。
現在、跡地は大阪城公園や大阪城ホールなどとなっていますが、大阪城公園内を中心に遺構が残っています。 |
陸軍第四師団 師団司令部 (陸軍中部軍管区 司令部)
所在 中央区大阪城 ほか
収録遺構 (3) 建物 1, 地下壕 2
実地調査 2007年 12月 |
| 司令部庁舎は、大阪城の すぐ隣です。休憩場所も 近くにあるので、売店の たこ焼きでも食べながら 見ていってくださいね★ |
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第四師団は師団編成の前身である大阪鎮台より改編をうけ1888年(明治21)に発足した最も古い陸軍師団のうちの 1つです。
当初は、大阪城周辺に分散して庁舎がおかれていましたが、1931年(昭和 6)に落雷で焼失した大阪城の天守閣の復興にあわせて庁舎を新築し師団司令部がおかれました。
しかし、1940年(昭和15)になると、近畿地方・中部地方に展開する各部隊を統括していた中部軍管区がこの場所に移って司令部をおいたため第四師団司令部は現在の豊国神社付近に移されました。
現在、師団跡地は大阪城公園となっていますが園内に現在も司令部庁舎や地下壕が残っており外側から見ることが可能です。
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大阪陸軍兵器本廠 (大阪陸軍兵器支廠, 大阪陸軍兵器補給廠)
所在 中央区大阪城
収録遺構 (3) 門柱 1, 軍用地境界塀 1, その他 1
実地調査 2007年 12月
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大阪城の西側に位置する西の丸庭園周辺には、大阪砲兵工廠の付帯部署であった大阪陸軍兵器本廠がおかれていました。
ここでは、兵器やその材料となる資材の保管や兵器の修理が行われ、敷地一帯に沢山の倉庫を保有しており、終戦まで機能が存続しました。また、存続している間には隷属先の組織改編で数度の改称がありましたが、最終的に大阪兵器補給廠となり、多くの付帯部署をもちました。
現在、倉庫群は解体されて痕跡がありませんが大阪城公園内の城内詰所付近に、当時の遺構がわずかに残っています。
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大阪陸軍偕行社
所在 中央区大手前 1
収録遺構 (3) 軍用地境界塀 1, 軍用地境界標 1, 門柱 1
実地調査 2007年 12月
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「偕行社(かいこうしゃ)」とは、研修や親睦を目的として設立された陸軍将校のクラブのことです。
偕行社は、1877年(明治10)に東京で最初に設置されたのを皮切りにし、続いて設置されたのがこの大阪陸軍偕行社です。
現在、偕行社の跡地に追手門学院が建てられていますが、わずかに当時の遺構が残っており、その中には追手門学院で現在も活用されているものがあります。 |
大阪陸軍衛戍病院 (大阪陸軍病院, 大阪第一陸軍病院)
所在 中央区大手前 1
収録遺構 (1) その他 1
実地調査 2013年 11月
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大阪衛戍病院は、大阪市内に第四師団の施設が設置されたことに伴い1888年(明治21)に前身の大阪鎮台病院からの改称により開院しました。
昭和に入ると大阪陸軍病院に改称されますが、戦病兵の増加に伴い収容しきれなくなったため周辺にも分院が設置されるようになり大阪第一病院の大手前分院に改称され、終戦まで機能が存続しました。
現在、敷地の跡地は大手前病院となっており、当時の建物などは消失しているものの、病院の入口付近に当時の石垣が残っています。 |
陸軍大阪師管区 大阪連隊区司令部
所在 中央区大手前 3
収録遺構 (4) 門柱 2, 軍用地境界塀 2
実地調査 2013年 11月
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連隊区は、区域内の徴兵や召集に関連する兵事事務を行うための部署で、歩兵連隊の所在地に連隊区司令部が設置されました。大阪連隊区は大阪府内の兵事事務を取り扱う目的で設置され数度の移転を経て現在の大手前 3丁目に施設がおかれました。
現在、敷地跡地は大阪府庁分館となっており、当時の建物などは消失しているものの、当時の門柱や軍用地境界塀が残っています。 |
陸軍第四師団 歩兵第八連隊
所在 中央区法円坂 1
収録遺構 (3) 門柱 1, 軍用地境界塀 1, 軍用地境界標 1
実地調査 2013年 11月
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歩兵第八連隊は第四師団に隷属する基幹部隊で1874年(明治 7)に師団編成の前身にあたる大阪鎮台の隷属部隊として編成されました。
戦歴も古く、西南戦争をはじめ日清戦争や日露戦争では主要な作戦に参加し戦果を出しており第一次世界大戦では青島攻略に参加しました。
昭和に入ると満州へ駐屯して日中戦争に参戦し太平洋戦争ではフィリピン方面の作戦に参加後インドシナ半島からタイへ転進して終戦となりました。
現在、兵営跡は難波宮跡公園となっていますが外周部分に当時の遺構が残っています。 |
陸軍被服廠 大阪支廠 (大阪陸軍被服支廠)
所在 中央区法円坂 1
収録遺構 (2) 軍用地境界塀 2
実地調査 2013年 11月
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被服廠は、軍服や軍靴などの装備品を製造した工場で1886年(明治19)に開設し、東京の本所に本廠がおかれました。
その後、被服品の生産拡大を目的として各地に支廠が設置され、1903年(明治36)に大阪支廠が開設し、大阪被服支廠への改称を経て終戦まで存続しますが、太平洋戦争の末期に大阪市内を狙った空襲で施設は壊滅状態となっています。
現在、跡地はコーシャハイツ法円坂などに変遷しており、再開発で面影がなくなりましたが、敷地南側付近に当時の塀が少し残っています。 |
陸軍第四師団 歩兵第三十七連隊
所在 中央区法円坂 2
収録遺構 (3) 軍用地境界塀 2, その他 1
実地調査 2007年 12月
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歩兵第三十七連隊は第四師団に隷属する部隊で1896年(明治29)に編成されました。
その後は日露戦争で出征して主要作戦に参加し凱旋帰還の途につきますが、昭和に入り満州へ再び出征して日中戦争の主要作戦にも参加し、太平洋戦争ではフィリピン方面の作戦に参加後インドネシアの守備を経てタイへ転進し終戦となりました。
現在、兵営跡は国立大阪医療センターとなっていますが、敷地の外周部分に当時の遺構が少し残っています。 |
真田山陸軍埋葬地
所在 天王寺区玉造本町
収録遺構 (6) 門柱 1, 軍用地境界塀 1, 軍用地境界標 3, 墓標様
実地調査 2014年 12月
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真田山陸軍埋葬地は、日本で最初となる陸軍の墓地として、陸軍省の前身であった兵部省が、1871年(明治 4)に定めたものです。
当初の敷地面積は28,040uに及んでいましたが1928年(昭和 3)に真田山小学校を建設するためその規模を縮小し、15,077uの敷地面積となり現在に至っています。
墓地には戦没者・戦病没者・戦中捕虜となった外国人病没者の方々が埋葬されており、墓標は 4,875基(正確ではないかもしれません)を数え現存する陸軍墓地の中では最大の規模を誇っています。
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陸軍第四師団 騎兵第四連隊
所在 天王寺区 真田山町 ほか
収録遺構 (5) 軍用地境界塀 3, 軍用地境界標 2
実地調査 2007年 12月
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騎兵第四連隊は第四師団に隷属する部隊として1889年(明治22)に兵営が設置されました。
その後、日清戦争・日露戦争に参戦して戦果をあげましたが、昭和に入り敷地が手狭であったため、堺市に兵営を移しました。
現在、敷地跡地は真田山公園となっていますが敷地の境界部にあたる箇所に当時の遺構が少し残っています。 |
陸軍高射第三師団 師団司令部 (接収建物)
所在 天王寺区茶臼山町 1
収録遺構 (1) 建物 1
実地調査 2019年 12月 |
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高射第三師団は、阪神地区の防衛を目的としてこの前身である中部高射砲集団からの再編制によって、1945年(昭和20)に新設され、大阪市立美術館の建物を接収し司令部がおかれました。
主な防衛範囲は阪神地区でしたが敦賀や宇部・京都などの都市の防衛に部隊を展開したほか、それまで空襲を受けていなかった広島の防備にあたる予定でしたが到着した直後に原爆投下が行われたようです。
終戦後、建物は再び大阪市立美術館として使用されており現在にいたっています。 |
陸軍高射第三師団 東淀川高射砲台
所在 東淀川区西淡路 5
収録遺構 (4) 砲座兼弾薬庫 4
実地調査 2007年 8月 |
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東淀川高射砲台は、柴島 (くにじま) 浄水場と当時軍需工場に指定されていた延原兵器工場を防衛するために構築されたもので、完成時期は明らかではないですが、1935年(昭和10)頃だといわれています。
砲台の構造は、鉄筋コンクリート製の12角形を呈する砲座と弾薬庫が階層で一体化されている特異なもので、非常に珍しい形をしています。
砲台は全部で 6門構築されたようですが、宅地開発によって一部が消滅しています。しかし、 4基の砲座と高架通路の一部は現存しており、階下の弾薬庫は住居に活用されています。
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大阪海軍警備府 司令部
所在 北区 中之島 5 ほか
収録遺構 (1) 軍用地境界塀 1
実地調査 2014年 12月
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海軍警備府は鎮守府に準ずる海軍組織で、戦時体制に備えて要港や海峡を防衛するために設置されていた要港部や海軍部の改編により1940年(昭和15)に設置されました。
この中で大阪警備府は大阪都市圏の防備を執り仕切る目的で前身の阪神海軍部の昇格によって発足し終戦まで存続しました。
現在、施設跡は中之島のリーガロイヤルホテル一帯となり、当時の遺構は消失していますが、阿倍野区の北畠に設置されていた司令長官舎の塀の一部が現存しています。 |
海軍艦政本部 大阪倉庫
所在 大正区南恩加島 1
収録遺構 (6) 門柱 2, 建物 2, 軍用地境界塀 2
実地調査 2018年 4月
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艦政本部は、艦船を製作して供給を行うための事務を掌る海軍省の外局にあたる組織として、1900年(明治33)に開設されました。
大正時代に入ると大阪市内をながれる木津川・尻無川沿いに藤永田造船所をはじめとした海軍指定工場が多く設置されたことにより、原料や完成品などの保管を目的として現在の大正区に倉庫が設置されていたようです。
現在、跡地は大阪製鐵の恩加島工場に変遷していますが、当時の遺構が残っています。 |
藤永田造船所 敷津工場
所在 住之江区柴谷 1
収録遺構 (3) 建物 2, その他 1
実地調査 2018年 4月
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藤永田造船所は造船や鋳鉄管・鉄道車両などの製造を目的に、この前身の兵庫屋からの改称で1874年(明治 7)に設立されました。
大正時代に入ると規模が拡大されて敷津工場が新設されると海軍の指定工場となり、駆逐艦の建造に携わります。その後、ロンドン海軍軍縮会議によって駆逐艦の建造が制限されたことで会社は低迷しますが、日中戦争への突入過程で艦艇や船舶の需要が再び増えて業績が回復し、「駆逐艦の藤永田」とも称されました。
現在は敷地規模を縮小して三井造船に吸収合併されていますが、当時の建物や護岸が残存しています。
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加賀谷家 防空壕 (民間用防空壕)
所在 住之江区 南加賀屋 4-16
収録遺構 (1) 地下施設 1
実地調査 2009年 6月
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この防空壕は、周辺住民の方々も含め空襲時に避難が出来るようにと、当時軍需工場に勤めておられた加賀谷保一さん(故人)が資材を集めて所有地に建築したもので、1945年(昭和20) 8月14日に完成しました。
防空壕は半地下式で、幅 2.5m・奥行き 5mを測り、全面鉄筋コンクリート製の頑丈な造りとなっています。
完成が敗戦の前日であったということもあって実際に使用されることはありませんでしたが、壊すには惜しいとのことで戦後は物置に転用し現在に至っているとのことです。
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