戦争遺跡詳細 |
司令部庁舎
【所在】 中央区大阪城 (大阪城公園内)
【分類】 建物
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大阪城の南側に残存しています。
この建物は、1931年(昭和 6)に落雷によって焼失した大阪城の天守閣の復興にあわせて、市民の寄付金で建築されたもので、完成後に陸軍が接収し、第四師団の司令部庁舎として使用しました。なお、1940年(昭和15)以降は中部軍管区が司令部として使用しています。
戦後は、大阪府警や市立博物館などの施設に活用されましたが、2001年以降は使用されず現在も放置状態が続いています。
建物内部には入れませんが、大阪城公園内にあるため簡単に外観を見ることが可能です。
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中部軍管区 地下壕
【所在】 中央区大阪城 (大阪城公園内)
【分類】 地下壕
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司令部庁舎の下には、空襲に備え構築された陸軍中部軍管区の地下壕が残存しています。
残念ながら、全ての入口が塞がれているため地下壕の詳細は解っていませんが、司令部の地下 1階部分に入口の痕跡と思われる箇所を見ることが出来ます。
地下壕は、1945年(昭和20)の 1月頃に掘削が始まり、庁舎の正面から南側の空濠にかけて掘られ、庭園南におかれていた航空情報隊の半地下施設に接続されていたそうです。
坑道は、全面にコンクリートが捲かれており総延長は約 200m程であったそうです。
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第四師団 地下壕
 【所在】  天王寺区生玉町
 【分類】 地下壕 |
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「いくたまさん」の名で知られている生国魂神社の南側に位置する生玉(いくたま)公園の地下に全面コンクリート製の地下壕が残っています。
この地下壕の具体的な構築経緯は不明ですが当時、大阪城周辺におかれていた第四師団の司令部を、空襲に備えてこの地下壕へ移し、通信業務を行う予定だったという証言があります。
現在は、危険であるために入口が全て塞がれ周辺も整地されているため、地下壕の位置が判りづらくなっていますが、説明が書かれた看板が立てられているため、ほんの少しだけ景観が判るようになっています。この他に、公園の南側に位置するテニスコート付近に、地下より伸びているコンクリート製通気口が露出しています。
終戦直後に封鎖された地下壕ですが、実態を調査するために、大阪市が 1度だけ開削して関係者達に公開したことが過去にあります。この調査で、幅が約 9m・高さが約 6.5m・奥行き約25mの大きな空間や 2つの棲息部・トイレ跡などの残存を明らかにしました。 |