陸軍第十六師団 師団司令部
所在 伏見区 深草田谷町
収録遺構 (8) 建物 2, 門柱 2, 軍用地境界塀 1, 軍用地境界標 1, その他 2
実地調査 2007年 12月
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聖母学院の守衛さんに お願いすれば、事前の アポがなくても外から 建物の撮影はOKです。
また、資料のコピーも いただけました★
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陸軍第十六師団は、日露戦争の開戦によって、新設された 4師団の 1つで、1905年(明治38)に開設されました。
日露戦争の苦戦によって、日本は既成の師団を全て戦地へ投入したため、日本国内に駐留する師団を創設する必要があり、その候補に京都が挙がりました。その後、自治体の誘致もあって伏見地区を中心に展開することが決まります。
深草に師団司令部がおかれたことを皮切りに、師団の隷下部隊である歩兵第十九旅団・野砲兵第二十二連隊・騎兵第二十連隊・輜重兵第十六大隊・工兵第十六大隊など、師団関連の施設が続々と展開し、伏見は軍の町となりました。
現在、跡地は聖母学院となっていますが、入口周辺に当時の遺構が現在も残っています。なお聖母学院内に残る遺構は、事前に見学の申請が必要です。 |
陸軍第十六師団 軍用道路
所在 伏見区深草 ほか
収録遺構 (7) 橋梁 3, その他 4
実地調査 2007年 7月
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伏見に陸軍第十六師団を誘致する際、駐屯する要件として、隷下部隊を設置するための広大な敷地の他に、大量の物資・人員などの輸送や、輸送の安全性、軍事機密の確保などが挙がり、これらの要件を解決させるために、師団街道をはじめとした軍道が4つ新設されました。
軍道は、幅が10mを超えており、当時としてはかなり広い道路と位置付け出来るものでした。
現在、軍道の全てが生活道路として活用され、街道名も引き継がれています。
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陸軍京都憲兵隊
所在 伏見区 深草鑓屋町
収録遺構 (1) 軍用地境界標 1
実地調査 2007年 7月 |
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京阪電車の墨染駅の南西に、陸軍京都憲兵隊がおかれていました。
憲兵とは軍事警察のことで、陸軍大臣の隷下におかれ、軍の内部情報や情勢などが外部に漏洩しないように取り締まる役割を持ち、著作物の検閲をはじめ、国民の言動や思想などにも目を光らせていたため、周辺からは恐れられていた存在でした。
憲兵隊の跡地には伏見税務署が建てられており当時の面影がありませんが、税務署の南西側に軍用地境界標が 1本だけ残存しています。この標柱は花崗岩製で、表面部分に「陸軍用地」と明朝体で刻まれています。
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陸軍第十六師団 騎兵第二十連隊 (陸軍第十六師団 捜索第十六連隊)
所在 伏見区 深草西伊達町 ほか
収録遺構 (1) その他 1
実地調査 2007年 7月 |
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騎兵第二十連隊は第十六師団に隷属する部隊で1905年(明治38)に兵庫県の姫路市において編成され、京都市に兵営がおかれました。
戦歴も古く、日露戦争を皮切りに満州の守備につき、シベリア出兵・満州事変・日中戦争にも参戦しますが、騎馬に代わる兵器として戦車や自動車などが近代戦の主力になると捜索連隊に改編され、太平洋戦争に突入するとフィリピン方面の作戦に従事し終戦となりました。
現在、跡地は市立深草中学校や市営住宅などに変遷して当時の面影がありませんが、名神高速道路下の一角に連隊の碑とともに馬繋柱が 1つ保存されています。 |
京都陸軍偕行社
所在 伏見区 深草田谷町
収録遺構 (3) 門柱 1, 建物 1, 軍用地境界塀 1
実地調査 2018年 6月 |
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京都偕行社は、将校の研修や親睦を目的として第十六師団司令部の北側の敷地を確保し1909年(明治43)に設置され、終戦まで存続しました。
現在、跡地はカトリックヌヴェール愛徳修道会本部修道院に変遷し、本館や門柱などの遺構が残っています。
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京都陸軍糧秣廠
所在 伏見区 深草キトロ町
収録遺構 (1) 軍用地境界標 1
実地調査 2007年 12月 |
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第十六師団司令部の西側に、兵馬の食糧を供給することを目的として、糧秣類を扱う糧秣廠がおかれていました。
現在は、ダイエーやマンションなどが建ち並び当時の面影が全くない状態ですが、京阪電車の藤森駅の西側を流れる用水路の壁面に埋まった状態で軍用地境界標が 1本残存しています。
標柱は花崗岩製で、表面部分に「陸軍用地」と明朝体で刻まれています。
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陸軍第十六師団 野砲兵第二十二連隊
所在 伏見区 深草飯食町 ほか
収録遺構 (3) 軍用地境界塀 2, 軍用地境界標 1
実地調査 2007年 12月
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野砲兵第二十二連隊は、第十六師団に隷属する部隊として1905年(明治38)に熊本県の熊本市で編成され、日露戦争を皮切りに満州へ出征し、帰還後は京都に新設した兵営に駐屯しました。
昭和に入ると中国との関係が悪化し日中戦争に突入すると出征して各戦闘に参加しましたが、太平洋戦争に入ると、フィリピン方面の作戦に従事し、激戦の中で終戦となりました。
現在、跡地は青少年科学センターや藤ノ森合同宿舎・市立藤森中学校などに変遷し建物などは消失していますが、南限部分に軍用地境界標や塀の支柱部分が残っています。 |
陸軍第十六師団 輜重兵第十六大隊 (陸軍第十六師団 輜重兵第十六連隊)
所在 伏見区 深草越後屋敷町
収録遺構 (8) 建物 1, 歩哨 1, 門柱 1, 軍用地境界標 3, その他 2
実地調査 2013年 11月 |
| | 市内は軍事施設が多く 1日で巡りきることは ほぼ不可能です・・・ (内容にもよりますが) 探訪する方は、緻密な 事前計画が必要です★ |
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輜重兵第十六大隊は、前線に弾薬や食料などを運搬し補給する役割を持つ、第十六師団の隷下部隊の 1つで、1905年(明治38)に編成され日露戦争を皮切りに満州へ出征し、帰還後は京都に新設した兵営に駐屯しました。
昭和に入ると大隊から連隊に昇格し、その後に勃発した日中戦争によって再び満州へ出征して北支那方面軍の傘下に入り、華北方面における主要の戦闘に参加し帰還しますが太平洋戦争に突入すると再びフィリピンへ出征して、主要な戦闘に参加後、レイテ島の警備につきました。しかし、その後の連合軍の逆襲により大損害を受けてしまい第十六師団とともに連隊は玉砕し壮絶な最期を遂げました。
現在、兵営の跡地は消防学校や深草市営住宅・京都教育大付属高校などに変遷していますが、当時の遺構として京都教育大学付属高校付近に軍用地境界標や門柱・歩哨が残存しています。
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陸軍第十六師団 歩兵第十九旅団 旅団司令部
所在 伏見区 深草藤森町
収録遺構 (2) 建物 1
実地調査 2007年 12月 (継続調査中)
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当日は軍道踏査で予想 以上に時間を取られて ここに着いたのは日没 寸前でした・・・▲
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歩兵第十九旅団は、第十六師団の基幹といえる 2つの歩兵連隊を率いた上級部隊であり1898年(明治31)に開設され、滋賀県大津市におかれた歩兵第九連隊と旅団に隣接して設置されていた歩兵第三十八連隊を傘下としました。
大正に入ると、歩兵第三十八連隊は歩兵第三十旅団の傘下となり奈良市に移駐すると、跡地に歩兵第九連隊が移り、福知山市におかれた歩兵第二十連隊を傘下としました。
現在、敷地は京都教育大学となっており、構内南側に司令部として使用された建物が残存しています。なお、構内には地下壕も残存しているようですが、今のところ確認出来ていません。(調査を継続中です★)
| | 日を改めて、もう一度 調査を行う予定です★
今度は、大学へ事前に 見学申請をしますっ!
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陸軍第十六師団 伏見射撃場
所在 伏見区 深草大亀谷大山町
収録遺構 (1) 軍用地境界標 1
実地調査 2018年 6月
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伏見射撃場は、第十六師団の射撃演習場としてこの前身の歩兵第三十八連隊の作業場を改修し1906年(明治40)に設置され敷地は終戦まで存続しました。
現在、跡地は京都教育大附特別支援学校や近畿農政局土地改良技術事務所などに変遷しており面影がない状態ですが、敷地南端を示す軍用地境界標が 1つだけ残っています。 |
陸軍第十六師団 万帖敷演習場
所在 伏見区 深草大亀谷万帖敷町
収録遺構 (1) 軍用地境界標 1
実地調査 2007年 12月
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JR奈良線の藤森駅南東には、陸軍第十六師団の練兵場として使用された万帖敷演習場がおかれ実戦に備えて各兵科の演習が行われました。
現在、敷地は万帖敷住宅に変遷し、整地されているために当時の面影が全くない状態ですが、深草大亀谷万帖敷町89番地付近に、敷地北限を示していると思われる軍用地境界標が 1本だけ残っています。この標柱は花崗岩製で、風化が進んでいるものの、何とか「陸軍省」の文字が読み取れます。また、下部は埋もれていますが「陸軍省」の文字に続き「所」の文字の上部がかろうじて読めることから「陸軍省所轄地」と刻まれているものと思われます。
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深草陸軍埋葬地 (京都陸軍墓地)
所在 伏見区 深草石峰寺山町
収録遺構 (6) 軍用地境界標 5, 墓標様
実地調査 2013年 11月
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深草陸軍埋葬地は、陸軍第十六師団の戦没者や戦病没者が埋葬されている陸軍墓地です。
墓標は、将校・下士官・兵卒などの階級に応じ区画が分けられ、花崗岩製で頂上部が四角錐のものが多く見られます。
現在は深草霊園となっており、軍人以外の方もここに埋葬されています。
墓標以外の遺構として、霊園の裏山一帯に敷地境界を示す軍用地境界標が数本残っています。
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陸軍第十六師団 工兵第十六大隊
所在 伏見区 西奉行町 ほか
収録遺構 (28) 軍用地境界標 22, 軍用地境界塀 2, その他 4
実地調査 2013年 11月
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工兵第十六大隊は、戦地で道路や橋梁・塹壕・飛行場などを構築する役割を持つ、陸軍第十六師団の隷下部隊の 1つで、観月橋付近に部隊が配置されていました。工兵第十六大隊だけが、他の部隊とは少し離れた南側の地域に展開していますが、これは宇治川の急な流れを利用して架橋や渡河の訓練を行うために対応されたものです。
現在、敷地には市営桃陵団地や裁判所・観月橋団地などが建てられており整地されていますが軍用地境界標を中心とした当時の遺構が残っています。 |
陸軍京都憲兵隊 伏見憲兵分隊
所在 伏見区新町 3 ほか
収録遺構 (1) 軍用地境界標 1
実地調査 2018年 6月 |
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伏見憲兵分隊は、歩兵第三十八連隊が大津から京都へ移駐したことによって1898年(明治31)に発足し、大阪憲兵隊に隷属しました。
その後、日露戦争の開戦によって市内に第十六師団の兵営が新設され京都憲兵隊が発足するとその隷下となり、最終的な憲兵令の改正で京都地区憲兵隊に隷属し、終戦まで存続しました。
現在、跡地は住宅地に変遷していますが、敷地南端を示す軍用地境界標が 1つ残っています。
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三菱重工業 京都発動機製作所 (三菱重工業 第八製作所)
所在 南区 久世高田町 ほか
収録遺構 (8) 建物 6, 地下施設 2
実地調査 2018年 6月
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三菱重工業は、航空機部門の三菱航空機と造船部門の三菱造船との合併によって 1934年(昭和 9)に設立された日本を代表する民間の兵器製造会社で全国に多くの工場をかかえていました。その中で京都発動機製作所は、海軍より航空機エンジンの増産要請を受けて1944年(昭和19)に開設されました。
ここでは主に「一式陸上攻撃機」や「雷電」に組みつけるためのエンジンが製造されたほか、中島や川西などの航空機メーカーにエンジンを納入していました。
1945年(昭和20)に入ると、防諜上の理由により第八製作所に改称され、空襲に備えて各工場の分散疎開がはじまり阪急嵐山線の高架線の下や大津市の逢坂山などを地下工場として転用したところで終戦を迎えました。
戦後、第八製作所は第十四製作所と統合し京都機器製作所に改称され貨物自動車の製造が開始されましたが、業績が悪く太秦工場へ集約され工場は閉鎖されました。
現在、跡地は陸上自衛隊桂分屯地となっておりわずかに当時の建物が残っています。このほか地下工場に転用された阪急嵐山線のガード下や工員宿舎の建物などが現存しています。
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三菱重工業 京都機器製作所 (三菱重工業 第十四製作所)
所在 右京区 太秦巽町 1 ほか
収録遺構 (3) 建物 2, トンネル 1
実地調査 2018年 6月
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京都機器製作所は、日本を代表する民間の兵器製造会社である三菱重工業がかかえた工場群の 1つで、航空機のエンジン部品の生産を目的に1944年(昭和19)に開設されました。
工場の敷地面積は約 121,000平方メートルありここに約 2,000台の工作機械が設置され、主に排気弁・吸入弁が製造されました。
1945年(昭和20)に入ると第十四製作所に改称しその後は空襲に備え工場の分散疎開がはじまり周辺の学校や愛宕山鉄道の廃止トンネルなどを工場に転用したところで終戦となりました。
現在、跡地は三菱自動車の京都製作所に変遷し敷地内に当時の建物が少し残っています。
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