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 滋賀県大津市の軍事遺跡一覧 (作成中ですっ★) 収録遺構数:58 


 陸軍第四師団
 歩兵第九連隊

 (臨時大津陸軍病院,
  東京陸軍航空学校
  大津教育隊,
  大津陸軍少年飛行兵学校)


 所在
  大津市
  御陵町 2 ほか

 収録遺構 (13)
  建物基礎 2,
  地下施設 1,
  軍用地境界標 4,
  その他 6

 実地調査
  2016年 11月

  2016年時点の詳細をご紹介します







歩兵第九連隊は、第四師団に隷属した基幹部隊で、師団の前身である大阪鎮台からの改編により、1875年(明治 8)に新設された大津市内の兵営に移駐しました。

戦歴も古く、西南戦争をはじめ日清戦争日露戦争にも出征して戦果をあげましたが1925年(大正14)の軍縮第十六師団所属に変更され京都に移駐しました。

昭和に入ると、兵営は臨時大津陸軍病院を経て東京陸軍航空学校の大津教育隊が使い同教育隊は1943年(昭和18)に大津陸軍少年飛行兵学校に昇格となり独立し、終戦まで機能しました。

戦後、敷地はアメリカ軍に接収されますが後に返還され、現在は県立大津商業高校や市民文化会館などに変遷し、敷地の外周を中心に当時の遺構が現存しています。


さつき:大津はウチの住まいやっ★大津市には、多くの
軍事施設の遺構群が
残っていますっ♪

アクセスも良いため
簡単に見れますよ★

 陸軍第四師団
 大谷射的場


 所在
  大津市大谷町

 収録遺構 (22)
  軍用地境界標 22

 実地調査
  2014年 12月

  2014年時点の詳細をご紹介します





大谷射的場は第四師団の射撃演習場として隷下部隊の歩兵第九連隊が大津へ衛戍地を移したことで設置されました。

その後、1925年(大正14)の軍縮により歩兵第九連隊が第十六師団へと所属変更されて京都に移駐しますが、射的場の敷地自体は太平洋戦争の終戦まで存続しました。

終戦後は、アメリカ軍に接収されましたが現在は返還されており、住宅地に変遷しているものの、敷地の境界に軍用地境界標が現存しています。

 陸軍第四師団
 大津射的場


 所在
  大津市山上町 ほか

 収録遺構 (15)
  建物 4,
  軍用地境界標 9,
  その他 2

 実地調査
  2016年 11月

  2014年時点の詳細をご紹介します





大津射的場は第四師団の兵科演習場としてそれまで使われた大谷射的場が各兵営より遠方で不便であったため、この代替として1885年(明治18)に設置され終戦まで敷地が存続しました。

戦後、敷地はアメリカ軍に接収され住宅が建てられましたが、現在は返還されており皇子が丘公園や住宅などとなっています。

現存する遺構として、敷地の西端を中心に火薬庫の建物や軍用地境界標などがあり、見学することが可能です。

 大津陸軍埋葬地

 (大津陸軍墓地)


 所在
  大津市皇子が丘 1

 収録遺構 (2)
  軍用地境界標 1,
  墓標様

 実地調査
  2014年 12月

  2014年時点の詳細をご紹介します





大津陸軍埋葬地は、大津市に展開していた陸軍部隊の戦没者や戦病没者の方々が埋葬されている陸軍墓地で、1906年(明治39)に設置され終戦まで存続しました。

終戦直後は、墓地周辺一帯が進駐軍に接収されたため、立ち入りが制限された時期があったようですが、現在は返還されており国道のバイパス建設によって敷地の規模を縮小しながらも、引き続き大津市で丁寧に管理されており、墓標様や軍用地境界標を見ることが出来ます。

 三重海軍航空隊
 滋賀分遣隊

 (滋賀海軍航空隊)


 所在
  大津市滋賀里 1

 収録遺構 (5)
  その他 5

 実地調査
  2016年 11月

  2016年時点の詳細をご紹介します





滋賀分遣隊は、三重海軍航空隊の派生隊で海軍航空兵を養成する制度の 1つであった予科練への教育を目的として 1944年(昭和19)に開隊しました。

その後、奈良分遣隊から約 3,000名の予科練習生が転隊して滋賀海軍航空隊に昇格し横須賀海軍鎭守府に隷属する練習航空隊に指定され、引き続き予科練への教育を担当しました。

現在、跡地は住宅地や田畑などに変遷して面影がありませんが、配水施設の跡や防空施設に関係する遺構が残っています。

 三菱重工業
 京都発動機製作所
 逢坂山地下軍需工場


 所在
  大津市逢坂 1

 収録遺構 (1)
  トンネル 1

 実地調査
  2018年 6月






京都発動機製作所は日本を代表する民間の兵器製造会社である三菱重工業がかかえた工場の 1つで主に海軍が使用する航空機のエンジンを製造するため1944年(昭和19)に京都市内に開設されました。

太平洋戦争の末期は、工場の生産ラインを維持するため、大丸百貨店や阪急嵐山線の高架下を疎開工場としたほか、大津市内をはしる東海道線の廃トンネルを地下工場に転用し、この一部が実際に稼働しました。

現在、トンネルの一部は地震観測所になり入口が塞がれていますがJR西日本の鉄道記念物に指定されて一部見学が可能です。


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