クリックするとTOP画面に戻ります
 千葉県四街道市の戦争遺跡一覧 収録遺構数:15 


陸軍砲兵射的学校
 (陸軍野戦砲兵射撃学校,
  陸軍野戦砲兵学校)


 所在
  四街道市鹿渡 ほか

 収録遺構 (1)
  その他 1

 実地調査
  2006 8

 智子:見ていってねっ★
 射の上は、広場となり
 上ることが出来ますよ★
 また、広場入口付近には
 「砲兵射の跡」の碑と
 説明版がありますよ♪

 この他、周辺に野戦砲兵
 学校碑と砲弾、説明版も
 ありますよ★





砲撃の演習が行われた
下志津演習場の調査は
完全に出来てません▼
特定が難しいのですが
調査を継続してます★

⇒調査完了しました★
和泉:調べるので少々お待ちを★
富貴:総攻撃は辛勝だったわっ★
下志津演習場については
当ページの下部に記載を
しましたっ★

かなり大変でしたよっ!
とにかく歩いたっ・・・

砲兵射的学校は、1886(明治19)に設立した砲兵戦術や射撃の研究を行う教育機関です。学校設立の背景には、1873(明治 6)に明治政府が、フランス陸軍のジョルジュ・ルボン大尉を招聘して、旧佐倉藩の大砲の試射場がおかれていた下志津原で、砲術の伝習教育が行われたことにあります。

1897(明治30)に入ると、施設の拡大に伴い現在の鹿渡地区に施設を移し、野戦砲兵射撃学校に改称されます。また、砲術が進歩したことにより、隣接しておかれた砲撃の演習場
(下志津演習場)が拡張されて、他の部隊でも使用されるようになりました。

1922(大正11)には、演習科目も増えて野戦砲兵学校に改称され、射撃戦術や着弾観測・通信技術などの他に高射砲を使用した訓練も行われるようになり (高射砲関連の教育は、後に防空学校として独立し、千葉市の稲毛に施設がおかれます) 終戦までに多くの学生が卒業しました。

現在、学校跡地は四街道市役所や中央公園・イトーヨーカドーなどとなっており、当時の面影がありませんが、砲撃の的に使用された射朶(砲弾の的)が残っています。


下志津陸軍埋葬地

 (下志津陸軍墓地)


 所在
  四街道市栗山

 収録遺構 (5)
  軍用地境界標 4,
  墓標様

 実地調査
  2007 5
  2009年時点の詳細をご紹介します


下志津陸軍埋葬地は、砲兵射的学校の東側の土地を所有していた地主が、土地の一部分を陸軍に寄贈したことにより1897(明治30)に設立された陸軍墓地です。

ここには、戦闘で殉職した13名の兵隊さんの墓標がありましたが、終戦後は自治体に払い下げられ、各遺族の方々が遺骨を引き取って公園と地区住民の墓地となりました。しかし
 8名の遺骨は引き取りがなかったため現在も無縁仏として眠っており、地区住民によって供養が続けられています。

陸軍墓地当時の遺構としては、敷地の四隅に軍用地境界標が現存しています。


陸軍近衛師団
野戦重砲兵第四連隊


 所在
  四街道市四街道 ほか

 収録遺構 (6)
  門柱 3,
  軍用地境界標 2,
  その他 1

 実地調査
  2007 5
  
2007年時点の詳細をご紹介します





周辺は踏査しまくって
いるけど愛国学園内は
調べていません▲

何か残ってたりして▲
聞いてみようかなっ★
智子:何か残ってるといいけど・・・

野戦重砲兵第四連隊は、近衛師団に隷属する部隊として広島県で編成され、四街道に駐屯した野砲兵第十八連隊が、1922(大正11)軍縮で廃止となったことを機に四街道へ移り野戦砲兵学校の西側に隣接して兵営がおかれました。のち、1939(昭和14)ノモンハン事件の応援部隊として満州に出征、牡丹江に駐留しますが、太平洋戦争に突入し南方での戦闘激化に伴って、ブーゲンビル島ガダルカナル島に派遣され、連合軍と戦って多数の死傷者を出して終戦となりました。

現在、兵営跡地は愛国学園や千葉敬愛高校・住宅地などになっていますが、当時の遺構が残っています。

優子:松根油の採取跡よっ★ 連隊に関係ないのですが
代替の燃料に使用された
松根油の採取跡もここに
掲載しています★

陸軍鉄道連隊
演習線

 (陸軍鉄道第一連隊
  演習線)


 所在
  四街道市四街道

 収録遺構 (2)
  軍用地境界標 2

 実地調査
  2009 3
  2009年時点の詳細をご紹介します



優子:狭いから敷設出来ないでしょう?今でも迷っているのですが
野戦重砲兵第四連隊として
紹介してる軍用地境界標は
鉄道連隊が正解なのかも▲
標柱の位置から線路を敷設
出来ないと判断して前者の
遺構と判断しましたが・・

鉄道連隊の演習線は、兵科演習の一環として工事速度や敷設技術を高める目的で建設され1911(明治44)に千葉の演習場より津田沼の第三大隊へ至る区間が開通しました。この他千葉市の作草部町から分岐し下志津演習場へ至る区間も同時期に開通しているようです。1920(大正10)に入ると、下志津演習場内に航空学校下志津分校が新設され、この部分にかかる線路は撤去されますが、その後に野戦砲兵学校へ向かうルートが新設されました。これらは、同連隊の演習の他に隣接して設置された陸軍施設に対する物資の搬入にも使用されています。

現在、演習線跡の多くは道路となっており、痕跡が判りづらくなっていますが、道路脇に軍用地境界標が残っている区間があります。

陸軍下志津演習場


 所在
  四街道市大日 ほか

 収録遺構 (1)
  軍用地境界標 1

 実地調査
  2011 5



この軍用地境界標は
積算 125,259歩目で
ようやく記録が叶い
ちょっと泣きそうに
なっちゃいました★
ホントによかった!
智子:歩数だけなら凄いよっ★
富貴:文字は読めなかったわっ・・標柱は、上部が切断され
残念ながら文字の判読は
出来ませんでしたっ・・

しかし、場所や材質から
遺構と断定しましたっ★
多分、間違いないです!

下志津演習場は、野戦砲兵学校野戦重砲兵第四連隊と千葉に設置された歩兵学校で使用する兵科演習場として設置されました。

資料によると、演習場は稲毛区の長沼原町・山王町・六方町などを含む地域と花見川区の三角町・千種町・宇那谷町などを含む地域・四街道市の鹿放ヶ丘・大日などを含む地域・佐倉市の上志津・上志津原・下志津原を含む地域などで構成されており、それぞれ射場が三角町・六方町・下志津に設置されており、演習場の中間部にあたる山王町や長沼原町に構築された射朶(砲弾の的)に向かって砲撃の演習が行われ、着弾を監視する監的や射弾下掩蔽部などもおかれていたようです。他には演習場の南端部にあたる萩台町に歩兵学校の射撃場がおかれ、その北側の源町に弾薬庫がおかれていたようです。

演習場の存在を裏付けるものとしては、大日地区の東側に軍用地境界標と思われる標柱が
 1つだけ残っています。

これまで、遺構の残存を信じて何回も敗走を重ね踏査をしてきましたが、キリがないので四街道市に関しては調査を打ち切りました▲ほ〜んと、この演習場の踏査に何日費やして何回敗走したことか・・。歩数に見合わない成果となりましたが勉強になりましたっ★


 Music By ―― 騒音の無い世界

千葉県 都市選択画面に戻ります
Create By  YUMMY-LTDGRP.
inserted by FC2 system