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 千葉県習志野市の軍事遺跡一覧 収録遺構数:46 


 陸軍鉄道連隊

 (陸軍鉄道第二連隊)


 所在
  習志野市
  津田沼 2 ほか

 収録遺構 (4)
  門柱 1,
  軍用地境界標 2,
  その他 1

 実地調査
  2022年 3月









鉄道連隊は、戦地で鉄道の敷設を行い、兵員や兵器・物資などの輸送を行う鉄道専門の部隊でこの前身である鉄道大隊が1896年(明治29)に東京の市ヶ谷におかれていた陸軍士官学校内に創設されたことが始まりです。その後、中野に兵営を移して義和団事変日露戦争に出征し、線路の修復や物資・砲弾の輸送を行って大きな実績を出したことから「大隊」から「連隊」に昇格し、兵営の拡張のため習志野市の津田沼に移りました。

その後、隷下の第三大隊を除く部隊は千葉市に移りますが、大正に入ると連隊はさらに拡大し
 2つの連隊を抱えることとなって、第三大隊は「鉄道第二連隊」に昇格し、その後に発生した関東大震災では、鉄道の復旧作業に第一連隊と連携して活躍をしました。

1931年(昭和 6)の満州事変以降は次々と中国戦線に投入され、占領した鉄道の運営や大陸を結ぶ新たな鉄道の敷設工事に従事し、設営先で終戦を迎えました。

現在、兵営跡地は千葉工業大学や集合住宅地となっており、当時の面影が残っていませんが、門柱が指定文化財として保存されているほか、演習に使用された機関車や軍用地境界標が残存しています。

 陸軍鉄道連隊
 演習線

 (陸軍鉄道第一連隊
  演習線)


 所在
  習志野市津田沼 2
     ↓
  習志野市東習志野 5

 収録遺構 (20)
  軍用地境界標 20

 実地調査
  2009年 3月

  2009年時点の詳細をご紹介します







鉄道連隊の演習線は、兵科演習の一環として、工事速度や敷設技術などを高めることが目的で建設され 1911年(明治44)に千葉の演習場より津田沼の第三大隊へ至る区間が開通しました。この他、千葉の作草部町から分岐して四街道の下志津演習場へ至る区間も同じ時期に開通しているようです。

現在、演習線跡の多くは生活道路となっており痕跡が判りづらくなっていますが、道路両脇に軍用地境界標が残っている区間があります。


演習線跡の位置と軍用地
境界標の位置に不自然な
場所があり、文献調査を
継続しています★

⇒判りましたっ!正体は
 糧秣廠の引込線です★
 富貴:習志野市史に載っていたわっ★
優子:ランニングしてる人が多いのね★ 演習線跡地の大半は、
 「ハミングロード」と
 なっているので簡単に
 歩けますよっ★

 運動不足の解消にいい
 散策路ですっ★

 陸軍鉄道第二連隊
 演習線


 所在
  習志野市津田沼 2
     ↓
  習志野市津田沼 1

 収録遺構 (1)
  橋梁 1

 実地調査
  2009年 2月





鉄道第二連隊の演習線は、兵科演習の一環で、工事速度や敷設技術などを高めることが目的で建設され 1932年(昭和 7)に津田沼の兵営より松戸の矢切 (軍用地境界標の残存から推定しています) へ至る区間が開通しました。

現在、演習線跡の多くは新京成線の路線として活用されており、習志野市に関しては総武線を跨ぐ橋梁が当時のものという話があって検証をしてみましたが判断出来ませんでした。しかし構造を見る限り、かなり古いものであることは間違いないと思われます。また、他の自治体のように軍用地境界標の残存を期待したのですが調査で見つけることが出来ませんでした・・▲

 陸軍近衛師団
 騎兵第一旅団
 旅団司令部

 (陸軍第一師団
  騎兵第二旅団
  旅団司令部)


 所在
  習志野市
  大久保 4 ほか

 収録遺構 (2)
  門柱 1,
  軍用地境界標 1

 実地調査
  2022年 7月











騎兵第一旅団は、近衛師団に隷属する部隊で、1901年(明治34)に司令部と隷下の騎兵第十三連隊・騎兵第十四連隊が大久保地区一帯に設置されました。また、これに隣接して第一師団に隷属する騎兵第二旅団もおかれ、司令部とこの隷下部隊の騎兵第十五連隊・騎兵第十六連隊も設置されました。これらの兵営は、一直線上に並べられて配置され、互いに競争させて訓練の成果を戦闘で引き出す狙いがあったようです。

その後、両旅団は日露戦争に出動し、第一軍と第二軍の傘下にそれぞれ入って活躍しますが、なかでも騎兵第一旅団は満州総司令部の失態で黒溝台においてロシア軍の奇襲攻撃を受けた際苦戦に陥りながらも見事に撃退させる大戦果を挙げています。しかし、大正時代に入り軍備の縮小を迫られて、第一次世界大戦以降は騎馬に代わる兵器として戦車や自動車・航空機などが近代戦の主力となったために解隊され、部隊は最終的に戦車師団へ編入されました。

旅団の跡地は公園や住宅地などになり、当時の面影が全くありませんが、八幡公園内に門柱が残存しており、案内板が設置されて習志野市で保存されています。また、この北方には頂部が四角錐の軍用地境界標と思われる標柱が残っています。



 陸軍近衛師団
 騎兵第一旅団
 騎兵第十三連隊


 所在
  習志野市泉町 2

 収録遺構 (2)
  建物 1,
  その他 1

 実地調査
  2007年 5月









騎兵第十三連隊は、近衛師団に隷属する部隊で1901年(明治34)に編成されました。

その後、日露戦争に出動し第一軍の傘下に入り活躍しましたが、昭和以降は馬に代わり戦車や自動車が普及したことで戦車師団に編入されて満州に移りました。

現在、跡地は東邦大学習志野キャンパスに変遷しており、ほとんど面影がなくなっていますが用材庫や手水鉢が残っています。

 陸軍第一師団
 騎兵第二旅団
 騎兵第十六連隊

 (陸軍習志野学校)


 所在
  習志野市泉町 2

 収録遺構 (8)
  建物 1,
  歩哨 1,
  門柱 2,
  建物基礎 3,
  その他 1

 実地調査
  2007年 5月

  
2007年時点の詳細をご紹介します



富貴:色々な意味で調査を進めないとねっ★
「毒ガス」に関連する
 陸軍施設は、国内だと
 広島県の忠海製造所
 まず挙がりますよね★



騎兵第十六連隊は、第一師団に隷属する部隊で1901年(明治34)に騎兵第二旅団司令部と共に設置されました。その後は日露戦争に出動し、第一軍の傘下に入って活躍しましたが、昭和に入って騎馬に代わる戦車や自動車が普及すると戦車師団に編入されて満州に移転しました。

その後、連隊跡地には毒ガスを使用した兵器の開発や、これを用いた戦闘の研究や訓練などを行う目的で、1933年(昭和 8)に習志野学校が開設されますが、国際協定で毒ガス類や細菌を戦争には使用しないといった主旨のジュネーブ議定書に日本は調印していたため、表向きには「軍事に関する科学の教育・調査」を掲げて、目的を曖昧にさせました。そのため、ここでの活動は秘密とされており、現在に至っても活動内容が完全に判っていませんが、アメリカ軍の立入り調査によると、訓練や実験に使用されたガス室やガス放射塔などの施設を確認しているようです。また、当時に行われた実験や訓練によって、周辺の松林が枯れたり住民が避難する騒ぎも起きていることなどから毒ガス類を扱う機関であったことは間違いないようです。

現在、学校敷地は東邦大学付属中・高校や市営住宅などとなっていますが、建物の基礎部分を中心とした当時の遺構が現在も残っています。


優子:見学は迷惑をかけない範囲でねっ★  当時の建物の一部は、
 現在も住宅として使用
 されています。見学は
 ご迷惑とならないよう
 最大限の配慮をお願い
 いたします★


 習志野陸軍糧秣廠
 軍用線


 所在
  習志野市大久保 1
     ↓
  習志野市新栄 1

 収録遺構 (7)
  軍用地境界標 7

 実地調査
  2011年 2月

  
2011年時点の詳細をご紹介します







習志野陸軍糧秣廠は、習志野原演習場へ演習に来る諸部隊や、騎兵旅団・船橋市に設置された騎兵実施学校に対して、兵馬の食糧を供給することを目的として1896年(明治29)に設置され糧秣保管用の倉庫が数棟おかれました。また、これらの施設へ糧秣類の供給をスムーズに行うために、糧秣倉庫から騎兵旅団へ至る軍用線が敷設されました。その後、鉄道連隊演習線へ延伸させ、糧秣類の倉庫搬入は、便利な鉄道が使用されるようになりました。

軍用線は当初、京成大久保駅の西方より分岐し騎兵旅団の兵舎の北側を通って糧秣倉庫に至るルートでしたが、後に騎兵旅団の兵舎の東側で分岐し糧秣倉庫に至るルートに変更されているようです。

現在、糧秣倉庫の跡地は習志野高校や住宅地となっており、当時の面影が全くありませんが、軍用線跡の一部区間に軍用地境界標が現存しています。


以前から、この周辺は変な
方を向いた軍用地境界標が
残存しており、文献調査を
進めてきましたが、やっと
解ってスッキリしました★
和泉:富貴のおかげだわっ★

 陸軍習志野原演習場

 所在
  習志野市
  東習志野 3 ほか

 収録遺構 (2)
  建物 1,
  軍用地境界標 1

 実地調査
  2022年 7月









習志野原演習場は、東京に展開する陸軍部隊の兵科演習場として 1873年(明治 6)に設置されました。「習志野」という地名は、同年の 4月29日に明治天皇の観閲下での宮城部隊の演習がここで行われた際、見事な指揮を執ってみせた篠原国幹少将を明治天皇が誉めて「篠原の志をみんな見習うように」と言ったことに由来するそうです。

演習場は、船橋市・習志野市・八千代市に跨る広大なもので、東京方面から習志野原へ演習に来る兵のための廠舎が敷地の南側に設置されて演習期間中の仮兵舎に使われました。その後、隣接して騎兵旅団騎兵実施学校がおかれるとこれらの兵科演習場としても使用されました。

現在、敷地は陸上自衛隊習志野演習場や住宅・日立製作所などの大規模工場地帯になっており当時の面影は全くありませんが、敷地の南東にあたる部分に要塞攻略の演習に使われた囲壁が残存しており、当時の中国との戦争を想定して中国の家屋を再現し構築されています。当時の中国家屋はそのものが要塞になり、日清戦争台湾植民地戦争などの諸戦闘では、これを盾に激しい抵抗を受けたため、この教訓を活かしてこの囲壁を標的に演習が行われました。また、日鉄住金の工場敷地は当時の号砲台がおかれた場所であり、跡地には演習場の軍用地境界標が移設保存されています。



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