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 千葉県佐倉市の戦争遺跡一覧 収録遺構数:17 


陸軍第一師団
歩兵第二連隊

 (陸軍第十四師団
  歩兵第二連隊,
  陸軍第一師団
  歩兵第五十七連隊,
  陸軍第一〇一師団
  歩兵第一五七連隊 ほか)


 所在
  佐倉市城内町

 収録遺構 (16)
  建物 1,
  建物基礎 3,
  門柱 1,
  軍用地境界塀 1,
  軍用地境界標 1,
  地下施設 1,
  地下壕 4,
  その他 4

 実地調査
  2011 2
  
2011年時点の詳細をご紹介します

 優子:もっと戦争遺跡を知ってもらおうよっ★
戦争遺跡にも看板を
立て整備してるのに
「佐倉城址公園」は
ちょっとなぁ・・▲
この名称から連隊は
全く連想出来ないと
思いますがね・・・



城址公園内には連隊に
関連する石碑や軍馬の
碑が多くあります★

時間がある方は、是非
見ていってください★
 智子:色々と残っているのねっ★

富貴:誰か知らない??佐倉陸軍埋葬地については
実地調査も虚しく 5連敗と
いう状況です・・・

何も残ってないのかな・・

歩兵第二連隊は、師団編成の前身にあたる東京鎮台に隷属した部隊で、その後の改編をうけて第一師団に隷属し、1874(明治 7)に佐倉城の跡地に兵営をおきました。その後、西南戦争日清戦争日露戦争に出征して参戦し、多くの死傷者が出たものの、佐倉に凱旋帰還します。帰還後、数年間は佐倉に駐屯していましたが、師団編成の改編に伴い第十四師団の傘下となり
1909(明治42)に茨城県の水戸市へ兵営を移転しました。

これに替わり、1905(明治38)に青森県で創設した、第一師団に隷属する歩兵第五十七連隊が同地に駐屯しました。同連隊は、関東大震災の復興や救援、二・二六事件の鎮圧に出動した後満州に出征して駐屯先の警備にあたり、太平洋戦争に突入するとグアムフィリピンに出動しレイテ島におけるアメリカ軍との壮絶な戦いで全滅に近い状態となって終戦を迎えました。

第五十七連隊が満州に出征すると、支那事変の拡大に伴って、第一〇一師団に隷属する歩兵第一五七連隊が編成され、上海に出征して多くの戦闘に参加しました。

その後も、部隊が出征するとこの地での編成が繰り返され、結果として10の部隊がここで編成され、これらの総称が「佐倉連隊」と呼ばれるようになりました。

現在、兵営跡地は佐倉城址公園になっており、当時の遺構が一部残っています。また、看板が立てられており、簡単に見学することが出来るようになっています。

ちなみに、佐倉市役所となっている区域が陸軍墓地だったということで実地調査をしてますが周辺の起伏が激しく、変な地形のせいなのか、調査能率が非常に悪く、遺構は全く発見出来ておらず、直近の実地調査が積算で 5回目の敗走
(くやしいですっ)となりました。他の陸軍墓地みたいに、軍用地境界標が残っている気がしてならないのですがねっ・・・


陸軍下志津演習場

 所在
  佐倉市上志津原 ほか

 収録遺構 (1)
  戦車掩体 1

 実地調査
  2011 5
  (継続調査中)



 和泉:我が軍も総攻撃よっ★
この地区の実地調査は、
難易度「最強」です・・
ここだけに何日費やして
いるか、数えるのも嫌に
なっている状況ですが、
自身の予想を信じて実地
調査を継続しますねっ★

絶対に千葉市と同じ調査
成果を出せるはずっ!!
半分はヤケクソですっ▲
和泉軍團の全力をもって
成果を出しますねっ★  





もし、軍用地境界標を
発見出来た場合は称賛
してくださいっ★

発見出来たら、ここに
アップしますんでっ★
 優子:執着心のかたまりねっ★

下志津演習場は、千葉市におかれた歩兵学校や四街道市におかれた野戦砲兵学校野戦重砲兵第四連隊で使用する兵科演習場として設置されました。

現在、敷地範囲は一部分しか特定出来ておらず完全には解っていないのですが、資料によると演習場は花見川区の三角町・千種町・大日町・宇那谷町などを含む地域と、稲毛区の山王町・長沼原町・六方町などを含む地域、四街道市の鹿放ヶ丘・大日を含む地域、佐倉市の上志津・上志津原・下志津原を含む各地域から構成されそれぞれ三角原・六方野・下志津の射場が設置されており、演習場の中間部にあたる山王町や長沼原町に構築された砲弾の的に向けて砲撃の演習が行われたようです。また、太平洋戦争の末期は、習志野におかれた戦車師団や、千葉におかれた戦車学校の演習場にも使用されていたようです。

現在、この演習場の存在を裏付けるものとして西志津 8丁目の公園内に残る戦車掩体の一部の残存を確認していますが、同演習場の千葉市の実地調査で軍用地境界標の残存を確認していることから、佐倉市も同様に軍用地境界標が多く残存しているものと推測しています。しかし、未開発地域が多く残っていながらも境界線上に道路が存在しない箇所が多く、戦車掩体以外の成果は全くなく、佐倉陸軍埋葬地以上の敗走を繰り返しているような状況です。

千葉の例からすると、佐倉にも軍用地境界標が残っていると確信しているため、連敗に挫けず調査を継続しますね。しかし、この地を累計で約 220,000歩も歩いているのに、進展がゼロというのも見事な負けっぷりだなっ。ほ〜んと、千葉市・四街道市・佐倉市の調査は私にとって色々な意味で鬼門です・・・


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