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 千葉県千葉市の軍事遺跡一覧 収録遺構数:111 


 陸軍鉄道連隊

 (陸軍鉄道第一連隊)


 所在
  中央区椿森 2 ほか

 収録遺構 (2)
  建物 2

 実地調査
  2009年 1月

  2009年時点の詳細をご紹介します

 優子:鉄道連隊って偉大だよね〜
平時における同連隊は
訓練を兼ねて、各地の
鉄道建設を請け負って
いました。千葉県では
久留里線や小湊鉄道・
東武野田線などを敷設
しています★            






鉄道連隊は、戦地で鉄道を敷設し兵員や兵器・物資などの輸送を担当する鉄道専門の部隊で、この前身である鉄道大隊が1896年(明治29)に東京の市ヶ谷におかれていた陸軍士官学校内に創設されたことが始まりです。その後、中野に兵営を移して義和団事変日露戦争に出征し、鉄道の修復や砲弾輸送などを行い大きな実績を出したことから「連隊」に昇格し、習志野市の津田沼に兵営を移しますが1908年(明治41)に軍の誘致を積極的に行っていた現在の千葉市に応える形で連隊配下の第三大隊を除いた部隊が椿森に移転し兵営が新設されました。

大正時代に入ると、鉄道連隊はさらに拡大され
 2つの連隊を抱えることとなり、椿森の部隊は「鉄道第一連隊」に昇格し、その後に発生した関東大震災では、鉄道の復旧作業に協力をして活躍しました。

1931年(昭和 6)の満州事変以降は、次々と中国戦線に投入され、占領した鉄道の運営や大陸を結ぶ新たな鉄道の敷設工事に従事し、設営先で終戦を迎えました。

現在、兵営跡地のほとんどは住宅密集地となり当時の面影が残っていませんが、建物の一部が現在も住宅に活用されていたり、千葉県の指定有形文化財として保存されているものもあり、わずかですが痕跡を見ることが出来ます。



 陸軍鉄道連隊
 演習場

 (陸軍鉄道第一連隊
  演習場)


 所在
  中央区弁天 3 ほか

 収録遺構 (14)
  橋脚 2,
  トンネル 1,
  軍用地境界標 10,
  その他 1

 実地調査
  2009年 1月

  2009年時点の詳細をご紹介します





千葉公園内に残存する
演習場の橋脚に当時の
架橋訓練風景を写した
写真が取り付けられて
います。こちらも是非
見ていってください★
 富貴:私は目が悪いから、よく見えなかった・・・

鉄道連隊の演習場は兵営に隣接する形でおかれ架橋に関する演習作業を中心とした兵科演習が行われました。また、園生町と萩台町に跨った地域にも狭窄射撃場が設置されて射撃の訓練が行われています。

現在、演習場の跡地は千葉公園や競輪場などとなっていますが、架橋演習に使用された橋脚や演習線のトンネル・軍用地境界標などが残っています。また、狭窄射撃場の跡地は京葉道路が建設されて分断され、さらに住宅が建ち並んで面影がほとんど無い状態ですが狭窄した地形が部分的に判り、穴川インターの近くや園生町の森林内に軍用地境界標が 4つ残っています。

和泉:他に何か残ってないかな〜
 狭窄射撃場の実地調査は
 きちんと出来てないので
 射撃場の周辺をきちんと
 辿れば、軍用地境界標が
 もっと残っているのかも
 しれません★



 陸軍鉄道連隊材料廠
 椿森軍用線

 (千葉陸軍兵器補給廠
  椿森軍用線)


 所在
  稲毛区穴川 2
     ↓
  稲毛区轟町 2

 収録遺構 (18)
  軍用地境界標 18

 実地調査
  2009年 1月

  2009年時点の詳細をご紹介します








鉄道連隊材料廠は、機材類の保管や連隊で使う機関車の修理や改造などを行う目的で設置され連隊敷地の一角に施設がおかれました。また、千葉駅より軍用の引込線が敷設され、資材類の搬入に使用されました。

現在、軍用線跡は生活道路に変遷していますが軍用線の名残を示す軍用地境界標が道路両脇にいくつか残っています。このうち、「陸軍」の記載を確認出来た標柱は 2本でしたが、記載を確認出来なかった標柱を含めると18本が残っています。(標柱の材質や位置関係を考察すると全て軍用地境界標であるものと思われます★)



 陸軍近衛師管区
 佐倉連隊区司令部

 (陸軍東京師管区
  千葉連隊区司令部)


 所在
  中央区椿森 6

 収録遺構 (3)
  門柱 1,
  軍用地境界標 2

 実地調査
  2009年 1月

  2009年時点の詳細をご紹介します





解っているような
説明をしてるけど
実は、自分自身が
あまり理解出来て
いません・・・▲

勉強しますねっ★
 和泉:全然解んないや・・・

連隊区は、区域内の徴兵や召集に関連する兵事事務を行うための部署で、歩兵連隊の所在地に連隊区司令部が設置されました。千葉連隊区は千葉県内の兵事事務を取り扱う目的で設置され当初は佐倉に歩兵連隊がおかれていたことから佐倉連隊区としてスタートし、東京におかれた本郷連隊区(東京と埼玉の一部を管轄)と共に、近衛師管区に隷属しました。

その後、1941年(昭和16)の陸軍管区の改定で千葉連隊区となりますが、兵事管轄は変わらず千葉県全域を担当しました。

現在、千葉財務事務所や日本たばこ産業などの施設が建てられていますが、当時の遺構が少し残っています。

優子:和泉ちゃん、出陣しようよっ★
 ちなみに、敷地の東側は
 全く歩いていませんっ▲

 近いうちに出陣しようと
 思っていますが、ツキが
 ないんだよな、千葉は!
 半分トラウマですねっ▲


 陸軍気球連隊


 所在
  稲毛区作草部町

 収録遺構 (5)
  建物 1,
  軍用地境界塀 2,
  その他 1
  建物(消失) 1

 実地調査
  2009年 1月

  2009年時点の詳細をご紹介します







気球連隊は、主に気球を使用して戦況の偵察を行うことを目的として 1905年(明治38)に この前身である「気球班」が東京の中野におかれた電信学校内に設置されたのが始まりです。のち鉄道連隊や電信中隊と共に交通兵旅団の隷下となり「気球隊」と改称して埼玉の所沢飛行場に転出しますが、1927年(昭和 2)に入り千葉市の作草部町に移り1936年(昭和11)に陸軍の平時編成が全面改正され「連隊」に昇格しました。

気球連隊の主な任務は、係留式の気球を上げて上空より戦況の偵察や砲撃誘導を行うことで、連隊昇格後の翌年からは中国やシンガポール・タイ・フィリピンなどの作戦に従軍しましたが航空機の発達により役目を失って帰還します。やがて、太平洋戦争末期になると、アメリカの本土を爆撃するための「風船爆弾」が考案され気球連隊を母体に部隊を編成し、千葉・茨城福島の各海岸より、合わせて約 9,300発の風船爆弾を放球しました。このうち約 1割にあたる爆弾が偏西風に乗ってアメリカの西海岸に着弾したそうです。

現在、兵営の跡地は住宅街となっていますが、わずかに当時の遺構が残っています。



 陸軍歩兵学校


 所在
  稲毛区天台 1 ほか

 収録遺構 (4)
  門柱 1,
  軍用地境界標 3

 実地調査
  2009年 1月

  2009年時点の詳細をご紹介します

 優子:ふふっ★知ってるって?
「天台」という地名は
歩兵学校の演習風景を
「天覧台」から天皇が
閲覧したことに由来し
付けられていますよ★
知っている方も多いと
思いますけどっ・・・






歩兵学校は、東京の新宿におかれた戸山学校の歩兵戦術部門を拡大させて独立した教育機関で1912年(明治45)に設立されました。

「歩兵」は小銃や機関銃などを所持し、徒歩で移動する兵士を指し、陸軍の基幹となる兵科でその規模の大部分を占める重要な部隊であり、歩兵戦術の教育を施すことは、戦争をする上で重要なこととして扱われてきました。

ここでは、「歩兵」の運用方法や戦闘術などの教育や研究が行われ、終戦まで教育機関として機能しました。

現在、学校の敷地は作草部公園や公務員住宅・少年鑑別所などに変遷しており、当時の面影がありませんが、門柱や軍用地境界標がわずかに残っています。


ちなみに、作草部公園内に
「平和の礎」という石碑が
おかれており、歩兵学校の
記載がありますよ★

時間がある方は、こちらも
立ち寄ってくださいね★
富貴:私は武官じゃないのよっ★


 陸軍鉄道連隊
 演習線

 (陸軍鉄道第一連隊
  演習線)


 所在
  中央区弁天町 2
     ↓
  花見川区作新台 4
  (若葉区若松町)

 収録遺構 (32)
  軍用地境界標 31,
  その他 1

 実地調査
  2020年 9月

  2009年時点の詳細をご紹介します







鉄道連隊の演習線は、兵科演習の一環として、工事速度や敷設技術などを高めることを目的に1911年(明治44)に千葉の演習場より津田沼の第三大隊へ至る区間が開通しました。このほか作草部町から分岐して四街道の下志津演習場へ至る区間も同時期に開通しているようです。

現在、演習線跡の多くは生活道路となっており痕跡が判りづらくなっていますが、道路両脇に軍用地境界標が残っている区間があります。



花見川を跨ぐ地区は、
開発されていないのに
軍用地境界標が 1つも
見つけることが出来ず
敗走しましたっ・・・

どうしてなのだろう?
 優子:見ている場所がおかしいってこと??
智子:見落としがあるかもね〜
 演習線の軍用地境界標は
 その多くが道路拡張の際
 引っこ抜かれて消失して
 いるようですね・・・▲
 ちなみに作新台や源町に
 集中して残っています★


 陸軍下志津演習場


 所在
  稲毛区山王町 ほか

 収録遺構 (20)
  軍用地境界標 19,
  その他 1

 実地調査
  2009年 3月

  2009年時点の詳細をご紹介します

 和泉:全力でもダメ・・?
ここの解析は、難易度
「最強」ですわ・・・
軍團内での調査完結は
難しいかもっ・・・▲

詳細を知っている方は
是非ご教示ください♪






下志津演習場は、歩兵学校と四街道へおかれた野戦砲兵学校野戦重砲兵第四連隊で使用する兵科演習場として設置されました。

現在、敷地範囲は一部分しか特定出来ておらず完全には解っていないのですが、資料によると演習場は花見川区の三角町・千種町・大日町・宇那谷町などを含む地域と、稲毛区の山王町・長沼原町・六方町などを含む地域、四街道市の鹿放ヶ丘・大日を含む地域、佐倉市の上志津・上志津原・下志津原を含む地域などで構成されそれぞれ三角原・六方野・下志津の射場が設置されており、演習場の中間部にあたる山王町や長沼原町に構築された射朶(砲弾の的)に向けて砲撃演習が行われ、着弾監視用の監的や射弾下掩蔽部などもおかれていたようです。この他、演習場の南端部にあたる萩台町にも歩兵学校の射撃場がおかれ、その北側の源町には弾薬庫がおかれていたようです。

演習場の存在を裏付けるものとしては、周辺に設置されていた軍用地境界標や、監的の台座が現存していますが、複数回に亘って用地拡張が行われているようで、軍用地境界標から敷地の範囲を特定するのは非常に難しい状態です▲
調査を継続して構築時期や敷地範囲を特定してみますね★(現時点で限界に近いけど・・・)

⇒現在、調査は一応の区切りをつけています★

 陸軍航空学校
 下志津分校

 (下志津陸軍飛行学校,
  陸軍教導飛行師団
  下志津飛行場)


 所在
  若葉区若松町

 収録遺構 (1)
  門柱 1

 実地調査
  2009年 3月
  (継続調査中)





資料や他サイトの情報では
下志津駐屯地内に格納庫や
建物が残っているとか・・

はぁ〜、見学が容易でない
場所に色々と遺構が残って
いるのも皮肉なものです▲
優子:お願いだから、中を見させてくれない?

航空学校は、航空機の操縦や射撃・爆弾投下・偵察などの訓練を行う目的で1919年(大正 8)に新設されました。その後、砲弾類の着弾観測を上空から行う訓練が含まれる偵察は砲撃演習を行う土地に隣接して設置する必要があるとしてこの翌年に下志津演習場の一角を使用して偵察教育を専門とする分校がおかれ、飛行場が建設されました。

1924年(大正13)に入ると分校は航空学校から独立して下志津飛行学校となり、銚子八街に分教所が設置されるまでに拡大します。しかし1944年(昭和19)に入ると太平洋戦争の戦局が悪化したことで閉鎖され、替わりに下志津教導飛行師団が開設されて戦闘に加わることになりおよそ 100名が特攻隊員として前線基地へ出撃していきました。

現在、跡地は陸上自衛隊下志津駐屯地となっているため、中に残存していると思われる当時の遺構を記録出来ていませんが、駐屯地の入口に当時の門柱が残存しています。



 陸軍防空学校

 (陸軍高射学校)


 所在
  稲毛区
  小仲台 5 ほか

 収録遺構 (3)
  軍用地境界標 3

 実地調査
  2009年 3月



 智子:何も残ってないの??
ちなみに、この南には
戦車学校が設置されて
おり、今は放射線医学
研究所となってます★

一応、実地調査を催行
したものの、めでたく
敗走しましたっ・・▲

敷地内に軍用地境界標
くらい残っていそうな
気がしますがね・・・




富貴:残念だけど引き揚げねっ 敷地の北側は未開発の
土地が若干あるので、
ちょっと時間をかけて
歩きましたが、遺構は
残ってないようです▲


防空学校は、飛行機による攻撃に対応するべく高射砲を専門に取り扱う教育機関で、1938年(昭和13)に四街道におかれた野戦砲兵学校内に設置されました。しかし、空襲を受けるようになって高射砲に関する教育の重要度が高まり、野戦砲兵学校から独立して現在の小仲台地区に校舎が新設されました。

ここには、高射砲の他にも照空灯や電波探知機などがおかれ、防空任務に関する一連の教育が施されました。

現在、敷地は千葉女子高校や公務員住宅などになっており、当時の面影が全くありませんが、千葉女子高校の北にあたる園生地区の畑地内に敷地北東限を示す軍用地境界標が 3つ残存しています。

標柱は、いずれも花崗岩製で下部分が埋まっていますが、このうちの 1つが「陸軍用」と記載されているので、おそらく全て「陸軍用地」と
入っているものと思われます。



 千葉陸軍衛戍病院

 (千葉陸軍病院)


 所在
  中央区椿森 4 ほか

 収録遺構 (2)
  門柱 2

 実地調査
  2011年 3月
  2011年時点の詳細をご紹介します





千葉衛戍病院は、千葉市周辺に展開した部隊の戦傷病兵を収容する病院として、1908年(明治41)に開院しました。1936年(昭和11)に入ると千葉陸軍病院に改称されますが機能は変わらず終戦時まで存続しました。

現在、病院跡地は国立千葉病院となっており、当時の建物などは消滅していますが、通用門に使用されていた門柱が残存しています。

この門柱は、少し前まで病院の南側に残存していましたが、駐車場の新設にともなって病院の入口に移設され現在にいたっています。門柱の消失の噂を聞いて再訪しましたが無事でした★

 陸軍教導飛行師団
 誉田飛行場


 所在
  緑区平川町

 収録遺構 (1)
  建物基礎 1

 実地調査
  2019年 3月







教導飛行師団は、太平洋戦争の戦局悪化により飛行学校を閉鎖して戦力化したことで1944年(昭和19)に開設されました。

誉田飛行場は下志津教導飛行師団の開設によりそれまでおかれた逓信省の航空機乗員養成所を接収し、本土決戦に備え秘匿基地に使用されたようです。

資料が揃わず、詳細は完全に判っていない状況ですが、千葉市水道局の水道事業事務所付近に格納庫跡とおぼしき建物基礎が残っています。

 陸軍第一四七師団
 抵抗拠点陣地


 所在
  緑区小食土町

 収録遺構 (6)
  地下壕 6

 実地調査
  2019年 6月
  (継続調査中)
  2019年時点の詳細をご紹介します







第一四七師団は1945年(昭和20) 2月に旭川で編成されて開設された特設師団で、第一総軍の第十二方面軍に所属していた第五十二軍の隷下部隊となり、師団基幹には歩兵第四二五連隊〜歩兵第四二八連隊の 4個部隊がありました。

日本の敗戦がほぼ決定的になった1944年(昭和19)のマリアナ沖海戦の敗退で、アメリカ軍は「コロネット作戦」と呼ばれる、日本本土への上陸作戦を計画します。その作戦の内容とは、九十九里浜と神奈川県の相模湾より上陸して、首都圏の拠点を制圧しながら帝都に攻め入るというもので九十九里浜には約 240,000人ものアメリカ軍が上陸を予定していました。一方、日本軍は「本土決戦作戦」を計画し、両海岸の防備にあたりました。この中で第五十二軍は、九十九里浜の防備を担当することになり隷下の第一四七師団は大網白里市より勝浦市にいたる地域の防衛にあたりました。なお、防衛方針は海岸後方の山に抵抗拠点となる陣地を展開させ上陸兵に対して狙撃を行うというものでした。また、司令部は市原市の鶴舞に設置されており大網白里市に構築された陣地の一部が千葉市の西側にも跨っています。

これらは本土決戦となる前に終戦となったため実際には使われず山林に現在も放置されており一部崩壊があるものの見学は可能です。

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