陸軍第十五師団 歩兵第六十七連隊 (陸軍中部防衛軍 高射砲兵第一連隊)
所在 中区城北 3
収録遺構 (10) 門柱 3, 建物 2 建物基礎 1, その他 3 建物(消失) 1
実地調査 2017年 8月
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歩兵第六十七連隊は第十五師団に隷属する基幹部隊で1857年(明治40)に編成され、浜松市内に新設された兵営に移りました。
その後、1925年(大正14)の軍縮で第十五師団の廃止にともなって解隊され第三師団に隷属する歩兵第十八連隊の一部が移り兵営としましたが同時期に豊橋で編成された高射砲兵第一連隊がこの地へ移り、1932年(昭和 7)に発生した上海事変を皮切りに出征して中国戦線の主要作戦に参加し1941年(昭和16)以降は補充隊に改編され補充業務を担当しました。
この一方で大正時代に廃止された歩兵第六十七連隊は、1938年(昭和13)に日中戦争遂行のため第十五師団が復活したことで再編成されビルマ方面の作戦に参加して終戦となりました。
現在、兵営の跡地は静岡大学浜松キャンパスに変遷していますが、当時の遺構が残存しており見学することが可能です。
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陸軍静岡憲兵隊 浜松憲兵分隊
所在 中区鹿谷町
収録遺構 (1) 軍用地境界標 1
実地調査 2017年 7月
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浜松憲兵分隊は、歩兵第六十七連隊が浜松市に展開したことで設置され兵営の南東に位置する鹿谷町に庁舎がおかれていました。
現在、跡地の大半が住宅地となっており面影が全くありませんが姫街道沿いに軍用地境界標が1つだけ残っています。
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浜松陸軍病院
所在 中区和合北 1
収録遺構 (3) 門柱 1, 軍用地境界標 1, その他 1
実地調査 2017年 7月
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浜松陸軍病院は、浜松市内に多くの陸軍部隊がおかれたことで設置された病院で1943年(昭和18)に旧追分町におかれていた衛戍病院からの移転により開院し、太平洋戦争の終戦まで機能しました。
現在は浜松市リハビリテーション病院に変遷し面影がありませんが、敷地の外周部分に当時の遺構がわずかに残っています。
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浜松陸軍埋葬地 (浜松陸軍墓地)
所在 中区住吉 1
収録遺構 (3) 門柱 1, 軍用地境界標 2
実地調査 2017年 8月
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浜松陸軍埋葬地は、浜松に歩兵第六十七連隊が展開したことで設置された戦没者や戦病没者の墓地です。
終戦後、敷地は浜松市に移管されて現在は住吉墓苑平和記念広場に変遷し墓標や忠霊殿などはなくなっているため当時の姿が判らなくなっていますが、わずかに門柱や軍用地境界標が残存しています。
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浜松陸軍飛行学校 化学戦教導隊 (三方原陸軍教導飛行師団)
所在 北区東三方町
収録遺構 (1) 門柱 1
実地調査 2017年 8月
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浜松陸軍飛行学校は、航空爆撃に関する教育と研究を行う機関として1933年(昭和 8)に前身の飛行第七連隊の練習部を基幹に開校しました。
1942年(昭和17)に入ると、水戸飛行学校の航空化学戦に関する部門が浜松飛行学校に移管され隣接した三方原に用地を新たに取得して化学戦教導隊が設置されました。
その後、太平洋戦争に突入し戦局が悪化すると浜松飛行学校は閉鎖され三方原教導飛行師団に改編されて独立し主に毒ガスを用いた化学戦の訓練や研究が行われたそうです。
現在、跡地は防衛省東三方原宿舎などに変遷し面影がありませんが門柱が残存しています。
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陸軍第五十三航空師団 航測第一連隊
所在 中区小豆餅 1 ほか
収録遺構 (1) その他 1
実地調査 2017年 7月
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航測第一連隊は、第五十三航空師団に隷属する部隊で、太平洋戦争の開戦によって航空軍備の重要性が高まり方向探知機や対空無線機などを使用する航測手の教育を行うことを目的として1942年(昭和17)に編成され現在の小豆餅地区に兵営がおかれていました。
現在、跡地は住宅地や商業施設などに変遷して面影が全くない状態ですが、当時の排水路跡がわずかに残っています。
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陸軍第一〇二教育飛行団 第七航空教育隊
所在 北区初生町
収録遺構 (2) 門柱 1, その他 1
実地調査 2017年 7月
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第七航空教育隊は航空兵の養成を行う教育隊の 1つで 1943年(昭和18)に再編制された第一飛行師団の第一〇二教育飛行団に隷属し、浜松陸軍飛行学校の三方原爆撃場の南側の一角に兵営がおかれていたようです。
現在、跡地は静岡県企業局西部事務所や白柳式撰果機の工場などに変遷していますが、当時の遺構がわずかに残っています。
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陸軍航空学校 三方原射爆場 (浜松陸軍飛行学校 三方原分飛行場 ほか)
所在 北区東三方町
収録遺構 (2) その他 2
実地調査 2017年 7月
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三方原射爆場は所沢におかれていた航空学校の爆撃演習場として設置されました。
その後、浜松飛行学校が開校すると射爆場内に分飛行場も設置され、太平洋戦争に突入すると各地の飛行学校を軍隊化させて改編された教導飛行師団の飛行場に使われ終戦となりました。
現在、跡地は商業施設や住宅地・農耕地などに変遷していますが、わずかに痕跡を見ることが出来ます。
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浜松防空監視隊 舞阪防空監視哨
所在 西区 舞阪町舞阪
収録遺構 (2) その他 2
実地調査 2020年 2月
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舞阪防空監視哨は、浜松防空監視隊が統轄した防空監視哨の 1つで、太平洋戦争の開戦以降に設置されたようです。
ここで、敵の飛行機や艦船などの発見・報告・監視が24時間体制で行われ、町内の青年学校の生徒が任務についていたようです。
現在、跡地は舞坂灯台や防風林などに変遷して面影がなくなっていますが、望楼の基礎部分や土製の円形の窪みが残っています。 |
陸軍中野学校 二俣分校
所在 天竜区 二俣町二俣 ほか
収録遺構 (5) 建物 1, 建物基礎 1, 軍用地境界標 2, その他 1
実地調査 2018年 10月
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中野学校は、諜報や防諜などの秘密戦に関する教育や訓練などを目的として1937年(昭和12)に東京の中野に設置されました。
1944年(昭和19)には、ゲリラ戦術や破壊工作の要員の育成を目的として現在の浜松市内に二俣分校が開校し、太平洋戦争の終戦までの期間に約 800名が卒業したそうです。
現在、跡地は天竜保健福祉センターに変遷して面影がありませんが、敷地の東側をはしる市道沿いに軍用地境界標が移設保存されているほか当時のものと推測する遺構が少し残ります。
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二俣町役場 防空壕
所在 天竜区 二俣町二俣
収録遺構 (1) 地下壕 1
実地調査 2017年 7月
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二俣町は、静岡県磐田郡におかれていた町で、1889年(明治22)の町村制の施行によって発足し木造 2階建てのモダンな町役場が1936年(昭和11)に建設されました。
戦後、二俣町は天竜市を経て浜松市に編入され廃止されていますが太平洋戦争での防空対策で掘削された防空壕が残存しており、入口部分を見ることが出来ます。
また、町役場の建物も登録文化財に指定され、現在は地元出身の本田宗一郎氏を顕彰する本田宗一郎ものづくり伝承館に使われています。
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