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 愛知県名古屋市の戦争遺跡一覧 収録遺構数:50 


陸軍第三師団
師団司令部


 所在
  中区本丸 ほか

 収録遺構 (2)
  建物 1,
  軍用地境界塀 1

 実地調査
  2012 2
  2012年時点の詳細をご紹介します





陸軍第三師団は、師団編成の前身である名古屋鎮台より改編をうけ1888年(明治21)に発足した最も古い陸軍師団のうちの 1つで、名古屋城を囲むようにして司令部がおかれました。

戦歴も古く、日清戦争から日露戦争シベリア出兵山東出兵を経て満州に駐屯し、アジア・太平洋戦争では中国戦線の主要作戦に参加して戦局の悪化で撤退中に終戦となりました。

現在、敷地跡地は名古屋城や庭園などとなっており、観光客で連日賑わっていますが、遺構がわずかに残っており見学が可能です。


陸軍第三師団
歩兵第三十三連隊

 (陸軍第三師団
 騎兵第三連隊)


 所在
  守山区守山 2 ほか

 収録遺構 (1)
  軍用地境界標 1

 実地調査
  2012 2



美恵:皮肉なものね〜
守山駐屯地内の遺構は
記録出来ていません▲

いつかは見学したいと
思っていますが、実現
出来るのかどうか・・

歩兵第三十三連隊は、第三師団に隷属する基幹部隊で、1897年(明治30)に連隊の本部が守山におかれました。

その後、日露戦争シベリア出兵に従軍し帰還しますが、1925年(大正14)の軍縮第十六師団管轄として久居に転営することになり跡地には1896年(明治29)編制の騎兵第三連隊が第三師団司令部周辺より転営しました。第一次世界大戦以降になると、馬から自動車へと移行したため編制が縮小されたものの部隊は終戦まで存続しアジア・太平洋戦争では中国戦線の主要作戦に参加しています。

現在、敷地跡地のほとんどが陸上自衛隊の守山駐屯地となっており、当時の建物が多数残っているようですが、立ち入りが出来ないため記録出来ていません。駐屯地外に残る遺構として、敷地西端を示す軍用地境界標が町北地区に 1つ残っています。


陸軍小幡ヶ原演習場

 所在
  守山区小幡中 1 ほか

 収録遺構 (1)
  軍用地境界標 1

 実地調査
  2012 2





陸軍小幡ヶ原演習場は、第三師団の前身である名古屋鎮台の演習場として、1873年(明治 6)に設置されました。

ここでは、突撃や砲撃の演習が行われ、1927年(昭和 2)に行われた軍事演習では、昭和天皇が臨席して演習風景を観閲しています。

戦後、演習場は払い下げられたために開拓され現在は大半が住宅地となっており、面影が全くありませんが、守山区役所の南西端に位置する交差点付近に、軍用地境界標が 1つだけ残っています。ただ、敷地の位置関係を考えると若干西にあるので移設された可能性があります。

東京陸軍砲兵工廠
熱田兵器製造所

 (陸軍造兵廠名古屋工廠
 熱田兵器製造所,
 名古屋陸軍造兵廠
 熱田製造所)


 所在
  熱田区六野 2 ほか

 収録遺構 (15)
  建物 15

 実地調査
  2012 2
  2012年時点の詳細をご紹介します







熱田兵器製造所は、日露戦争の開戦にともない必要とされた兵器の増産と補修を目的に、東京砲兵工廠の分工場として1904年(明治37)に開設されました。

開設当初は、中口径砲弾の製造が中心でしたが第一次世界大戦に入り、航空機が新兵器として使用されるようになると、国内での生産を拡大するためエンジンの製造にも携わるようになり工場敷地が拡張されましたが1923年(大正12)の組織改正で、名古屋工廠熱田兵器製造所と改称されると、エンジンの製造部門が千種製造所に移り、名古屋工廠の本部が設置されました。

その後も、車両や砲弾などの製造が続けられ、1940年(昭和15)の最終的な組織改定で、名古屋陸軍造兵廠熱田製造所と改称され、風船爆弾の部品や航空用機関砲の製造にも携わりました。

太平洋戦争の末期になると、アメリカ軍による空襲が激化したことにより、工場機能の一部が岐阜県や富山県に疎開しましたが、 3度に及ぶ爆撃により建物の一部が損壊し、多数の死者が出ています。

現在、跡地のほとんどは中京倉庫の敷地として使用されていますが、当時の建物が多く残っており、倉庫の一部として活用されています。


愛知時計電機
船方工場

 (愛知航空機
 船方工場)


 所在
  熱田区千年 1

 収録遺構 (12)
  建物 8,
  門柱 1,
  その他 3

 実地調査
  2013 9
  2013年時点の詳細をご紹介します







愛知時計電機は、電気時計の製造を目的として1898年(明治31)に設立されました。その後は、陸軍・海軍から兵器の製造要請を受け、砲弾の信管などを生産しましたが、第一次世界大戦で航空機が兵器として使用されるようになると、航空機の製造にも携わるようになり、熱田区の船方と港区の永徳に各工場が設置されました。

1943年(昭和18)には、さらに航空機を増産する必要が出てきたため、航空機部門を独立させて愛知航空機を設立し、船方工場ではエンジンの製造が続けられましたが1944年(昭和19)に発生した昭和東南海地震の影響を受け、生産能力が著しく低下してしまい、太平洋戦争末期である1945年(昭和20) 6月 9日には熱田周辺を狙った空襲で施設は壊滅し多数の死者を出して終戦となりました。

終戦後、愛知航空機は民需に転換し船方工場は愛知時計電機と社名を変え計測機器などを製造する会社として現在も存続しており、敷地内に当時の建物や塀なども残存し、外側からですが見ることが出来ます。

大阪陸軍砲兵工廠
高蔵兵器製造所

 (陸軍造兵廠名古屋工廠
 高蔵兵器製造所,
 名古屋陸軍造兵廠
 高蔵製造所)


 所在
  熱田区六野 1

 収録遺構 (1)
  その他 1

 実地調査
  2012 2




調査当日は時間が割けず
ほとんど踏査出来てない
状態です・・・▲

情報をお持ちでしたら、
是非教えてくださいっ★
ちはる:教えてくださ〜い★

高蔵兵器製造所は、大砲や爆弾などの兵器類を製造していた大阪砲兵工廠管轄の分工場として1917年(大正 6)に設置されました。

ここでは、野砲や山砲などの弾丸や薬莢が生産され、1923年(大正12)の組織改正で名古屋工廠管轄の工場となり、生産が継続されましたが、1940年(昭和15)の最終的な組織改定で、名古屋陸軍造兵廠管轄の高蔵製造所に改称されると、風船爆弾の気球部分の製造にも携わりました。

現在、敷地はイオンのショッピングセンターや日本ガイシなどに変遷しており、当時の遺構はほとんど残ってないようですが、日本ガイシの敷地内に当時の遺構の一部と思われる煉瓦製の構造物を見ることが出来ます。

手持ちの資料や、この地域を専門に扱っている優良サイトなどの情報では、塀や建物の一部も残存しているようなのですが、段取りが悪くて見つけることが出来ませんでした・・・

名古屋陸軍埋葬地
 (名古屋陸軍墓地)


 所在
  東区出来町 2

 収録遺構 (1)
  墓標様 1

 実地調査
  2013 9





名古屋陸軍埋葬地は、第三師団所属の戦没者や戦病没者が埋葬されている陸軍墓地で、師団の前身であった名古屋鎮台の設置に伴って1875年(明治 8)におかれました。

終戦後、名古屋市内の戦災復興整理の一環で、墓標は千種区の平和公園内に移設されて現在にいたっており、ここには 730の墓標が引き続きおかれているようです。

東京陸軍砲兵工廠
名古屋機器製造所

 (陸軍造兵廠名古屋工廠
 千種機器製造所,
 名古屋陸軍造兵廠
 千種製造所)


 所在
  千種区若水 2 ほか

 収録遺構 (1)
  軍用地境界塀 1

 実地調査
  2012 2







名古屋機器製造所は、第一次世界大戦で新しい兵器として使用された飛行機のエンジンを製造する目的で、1919年(大正 8)に東京砲兵工廠の分工場として開設されました。

1923年(大正12)に入ると、組織の改正が行われ名古屋工廠管轄の千種機器製造所に名称が変更されると、熱田兵器製造所のエンジンの部門を吸収して敷地が拡張されます。また、この年に発生した関東大震災で東京砲兵工廠が被災し、小銃や機関銃の生産も行うようになりました。

その後、1940年(昭和15)の組織改定でエンジン製造部門が立川に移り名古屋陸軍造兵廠管轄の千種製造所に改称されると、航空機用機関砲や軽機関銃などが製造されるようになりますが、太平洋戦争の末期になると、アメリカ軍による空襲が激化し、ここも爆撃目標とされて施設は壊滅的な打撃を受け、終戦を迎えました。

現在、敷地は市立東部医療センターや千種公園などに変遷し、当時の面影が全くありませんが千種公園内に移設された当時の軍用地境界塀が保存展示されており見学することが可能です。


名古屋陸軍兵器支廠

 (名古屋陸軍兵器補給廠)


 所在
  千種区北千種 1 ほか

 収録遺構 (4)
  軍用地境界塀 2,
  軍用地境界標 2

 実地調査
  2012 2
  2012年時点の詳細をご紹介します





名古屋陸軍兵器支廠は、第三師団に関わる兵器弾薬類や材料の購買と、これらの貯蔵・補修を行う機関として、1906年(明治39)に交通の便が良い千種地区に設置されました。

その後、陸軍兵器廠条例の改正に伴い、兵器の補給業務を統一させる目的で、隷属先の名称が変わったりしましたが、最終的に1940年(昭和15) の改正以降、陸軍兵器行政本部に隷属する名古屋陸軍兵器補給廠に改称し、兵器の材料や燃料などの保管と補給を行いました。

現在、敷地跡は少年鑑別所や名古屋市立大学になっていますが、遺構が少し残っています。


陸軍猫ヶ洞火薬庫
 (陸軍猫ヶ洞演習場)


 所在
  千種区下方町 7 ほか

 収録遺構 (1)
  軍用地境界標 1

 実地調査
  2012 2
  (継続調査中)





猫ヶ洞火薬庫は、第三師団で使用する火薬類を貯蔵する目的で、現在の平和公園周辺に建物がおかれました。

その後の変遷は、調査不足で判っていない状況ですが、昭和に入ると敷地が拡張され、射撃や爆撃を行う演習場として使用され、終戦時まで存続していたようです。

現在は、平和公園や住宅地などとなっており、踏査が難しい状況ですが、東山配水池の西側に位置する住宅地内に軍用地境界標の残存を確認出来ています。

名古屋陸軍兵器支廠
守山分廠


 所在
  守山区森孝 1 ほか

 収録遺構 (1)
  その他 1

 実地調査
  2015 4





名古屋陸軍兵器支廠は、第三師団に関わる兵器弾薬類や材料の購買と、これらの貯蔵・補修を行う機関として、1906年(明治39)に交通の便が良い千種地区に設置され、守山にも陸軍部隊が展開したことにより分廠が設置されました。

現在、敷地跡地の大半が住宅地となっており、当時の面影が全くない状況ですが、名残である元補給廠を略化した「元補」交差点の北東部に展開する住宅地内に、当時の塀の一部であると考えられる石柱列が残っています。

陸軍高射第二師団
師団司令部


 所在
  昭和区鶴舞町 1

 収録遺構 (2)
  建物 1,
  門柱 1

 実地調査
  2012 2
  2012年時点の詳細をご紹介します





高射第二師団は、名古屋周辺の防衛を目的に、この前身である中部高射砲集団名古屋高射砲隊からの再編制によって、1945年(昭和20)に新設され、名古屋市公会堂の建物を接収し司令部がおかれました。

アメリカ軍による空襲が激化したことに伴って鉄道の援護が師団の主任務となっていましたがアメリカ軍の爆撃対象が周辺の都市に変わると該当都市へ砲の定配備が求められられたものの兵力不足が原因で実現出来なかったようです。

現在、建物は引き続き名古屋市の公会堂として使用されており、当時の門柱も残っています。


陸軍高射第二師団
高射砲兵第一二四連隊
笠寺高射砲台


 所在
  南区見晴町

 収録遺構 (7)
  砲座 1,
  建物基礎 1,
  その他 5

 実地調査
  2012 2
  2012年時点の詳細をご紹介します







笠寺高射砲台は、名古屋に設置されていた三菱重工業の工場群や、熱田神宮の防衛を主目的として、1942年(昭和17)に設置されました。

設置当初は、八八式 7cm高射砲を 4門配備していましたが、1943年(昭和18)に増強配備されて
 6門となり高射砲兵第一二四連隊の 1個大隊が展開して防備にあたっていました。

砲台がおかれた場所は、弥生時代の遺跡が発掘された場所でもあって、現在は笠寺公園として整備されており、見晴台の考古資料館内に出土資料などが展示されています。また、資料館の横には、破壊を免れた砲座や砲側弾薬庫が展示保存されており、案内板が立てられているほか公園内に当時の建物と思われるコンクリートの基礎部分などが残存しており、見学することが可能です。
珠姫:是非、探訪してください★

砲台は、大半が破壊されて
いますが、残存する遺構は
説明版が付いて保存されて
いますよっ★

簡単に見学出来るので是非
訪れてみてくださいっ♪

愛知時計電機
永徳工場

 (愛知航空機
 永徳機体工場)


 所在
  港区野跡 1

 収録遺構 (1)
  その他 1

 実地調査
  2012 2







愛知時計電機は、電気時計の製造を目的として1898年(明治31)に設立されました。その後は、陸軍・海軍から兵器の製造要請を受け、砲弾の信管などを生産しましたが、第一次世界大戦で航空機が兵器として使用されるようになると、航空機の製造にも携わるようになり、熱田区の船方と港区の永徳に各工場が設置されました。

1943年(昭和18)には、さらに航空機を増産する必要が出てきたため、航空機部門を独立させて愛知航空機を設立し、永徳工場では機体部分の製造が続けられましたが1944年(昭和19)に発生した昭和東南海地震の影響を受け、生産能力が著しく低下してしまい、太平洋戦争末期である1945年(昭和20) 7月24日には永徳工場を狙った空襲で施設は壊滅し、終戦となりました。

現在、愛知航空機は愛知機械工業と社名を変え自動車部品を製造する会社として存続しており永徳工場の敷地規模は縮小され、稲永スポーツセンターや稲永公園などとなっています。また当時の遺構として、水上機の揚げ降ろしに使用された滑走台が残存していますが、護岸工事がされており、消滅してしまう可能性が出ており予断を許さない状況です。

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