臨時軍用気球研究会 所沢試験場 (陸軍気球隊, 陸軍飛行大隊, 陸軍航空学校, 所沢陸軍飛行学校, 陸軍航空技術学校, 陸軍第五十二航空師団 所沢航空教育隊)
所在 所沢市 並木 1 ほか
収録遺構 (9) 建物 2, 建物基礎 1, 飛行機掩体 1, 軍用地境界標 1, その他 4
実地調査 2019年 5月
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臨時軍用気球研究会は、気球や飛行機を軍事に利用するための研究や開発を行うため1909年(明治42)に発足し、その2年後にあたる1911年(明治44)に日本で最初の飛行場にあたる同会の飛行試験場が現在の所沢市に設置されました。ここでは、代々木演習場内で初飛行に成功したアンリ・ファルマン機を参考にして、これより高い性能を持つ飛行機を製作するための研究が進められ、国産初の飛行機「会式一号機」など1915年(大正 4)の廃止までに、7機の飛行機を製作しました。また、飛行場の完成と同時期に気球を使用して戦況の偵察を行う交通兵旅団の気球隊が東京の中野から移り、滑走路を共同で使用することになりました。
1914年(大正 3)の第一次世界大戦以降、世界で航空機が兵器として使用されるようになると、これまで臨時で編制していた飛行部隊を常設とするために飛行大隊が創設され、1917年 (大正6)には飛行場の敷地の面積も拡張されました。また、1919年(大正 8)には航空と操縦に関する技術力を向上させるため飛行場に隣接して航空学校が設立されて教育・研究が行われ、条例の改正で1924年(大正13)に所沢飛行学校に改称されました。
昭和に入ると、さらなる航空兵力の拡充で航空兵科が創設されたことに伴って飛行大隊は飛行連隊に昇格し各務原飛行場へ移転します。また気球隊も千葉へ移転し1935年(昭和10)に入り飛行学校の機関科を分離させた航空技術学校が開設され航空機の整備に対する教育も行われるようになりました。太平洋戦争の末期は戦局の悪化に伴い飛行学校が軍隊化されて編制された所沢教育航空隊の拠点として施設が使用され、第五十二航空師団の傘下に入り関東地方の防衛任務につき終戦となりました。
現在、跡地は航空記念公園や米軍の通信基地・病院や大学などに変遷しており、当時の面影はありませんが、所澤神明社の境内に移設された軍用地境界標が 1つ残るほか、遺構と推測する構造物が周辺に残っています。
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陸軍航空部 補給部 所沢支部 (立川陸軍航空支廠 所沢分廠, 陸軍航空士官学校 材料部 航空参考館)
所在 所沢市 東住吉 ほか
収録遺構 (5) 建物 2, 軍用地境界塀 1, 軍用地境界標 2
実地調査 2007年 9月
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| 現在、敷地のほとんどが そごう西武所沢センター 管轄の土地となっており 外側からでも容易に見学 可能ですよっ★ |
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航空部は、航空に関連する器材の調達・保管・補給・検査などを行う部署で、飛行大隊が編成されたことにより、1919年(大正 8)4月に内部機関である補給部の支部が所沢飛行場内に設置されました。
その後、航空部隊の拡充に伴い、所沢飛行場の敷地内だけでは手狭となり1923年(大正12)に飛行場から少し離れた所沢駅の西側へ補給部の一部が移されました。
昭和に入ると、さらなる航空兵力の拡充で航空兵科が創設されたことに伴って飛行大隊は飛行連隊に昇格して各務原飛行場へ移転し、のちの組織改編によって一時は立川航空支廠の分廠に施設が使われますが1938年(昭和13)に現在の入間市に航空士官学校が開設されると、器材の調達・補給を行う材料部となりました。また、敷地内に航空参考館が設置され、日本の航空機設計に影響をもたらした世界の軍用機を数多く展示しました。
現在、敷地跡は西武電設工業となっていますが当時の遺構が残っています。
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陸軍東京憲兵隊 赤坂憲兵分隊 所沢分遺所
所在 所沢市 西新井町 ほか
収録遺構 (3) 門柱 1, 軍用地境界塀 1, 軍用地境界標 1
実地調査 2007年 9月
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所沢分遺所は、気球を使って戦況の偵察を行う軍用気球の飛行場が所沢におかれたことにより1911年(明治44)に設置されました。
憲兵とは軍事警察のことで、陸軍大臣の隷下におかれ、軍の内部情報や情勢などが外部に漏洩しないように取り締まる役割を持ち、著作物の検閲をはじめ、国民の言動や思想などにも目を光らせていたため、周辺からは恐れられていた存在でした。
現在、分遣所の跡地は住宅地となっていますが所沢市消防第二分団付近に当時の遺構が残存し見学することが可能です。 |