横須賀海軍工廠 光学実験部
所在 逗子市山の根 1
収録遺構 (1) 地下壕 1
実地調査 2005年 4月
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光学実験部は、軍艦や潜水艦などで使用された測距儀や潜望鏡・双眼望遠鏡などの光学兵器を取り扱う横須賀海軍工廠の内部部門で、現在の海上自衛隊船越庁舎に施設がおかれ、これらの試作や修理・製造などが行われていました。
戦争末期は、防空対策の一環で逗子に疎開用の地下壕が構築され、光学兵器の生産を行う地下工場として実際に稼動したそうです。
現在、地下壕は事故防止のため埋め戻されたり入口が封鎖されたりしていますが、一部区間が現在も残っています。 |
横須賀海軍警備隊 第三高角砲大隊 小坪防空砲台
所在 逗子市小坪 3 ほか
収録遺構 (7) 砲座 2, 建物 1, 地下施設 1, その他 3
実地調査 2014年 11月
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| 砲座は、展望台の基礎 部分もそうなのですが 写真を撮り忘れて掲載 出来ていません・・⇒ |
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小坪防空砲台は、横須賀市におかれていた海軍施設の防衛のため1944年(昭和19)に建設されました。
ここには12.7センチ連装高角砲を2基と25ミリ連装機銃を2基据え付け、九五式陸用高射器や九六式150センチ探照灯などもおかれました。
現在、砲台跡地は披露山公園として整備され、小動物園や展望台などが設置されていますが、砲台の一部が、猿の檻や展望台の基礎部分など現在も活用されて残っています。また、反対の山に位置する大崎公園内にも、関連していたと思われる遺構がわずかに残っています。
再訪を検討しましたが 当分は無理そうなので 写真を提供してくれる 優しい方を募集させて くださいっ m(_ _)m
⇒約 9年ぶりに再訪が 叶いましたっ!★ | | |
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横須賀海軍工廠 造兵部
所在 逗子市沼間 2 ほか
収録遺構 (14) 地下壕 10, トンネル 2, その他 2
実地調査 2018年 1月
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造兵部は、魚雷や爆雷などの重兵器を生産した横須賀海軍工廠の内部部門で、横須賀市の船越一帯に施設がおかれていました。
昭和に入ると日中関係が泥沼化し盧溝橋事件を発端に日中戦争の火蓋がきられると、さらに兵器類の増産を迫られ、各地から多くの徴用工や勤労学徒などの工員が動員されることとなり、沼間地区や久木地区を中心に多くの工員宿舎が建設され最盛期で約15,000名にのぼる工員がここで生活しました。
また、1944年(昭和19)以降は空襲に備え沼間地区に地下壕も掘削され、造兵部の一部機能が疎開して、兵器類の生産を行う地下工場として実際に使用されましたが、その大部分は掘削の途中で終戦を迎えているようです。
現在、工員宿舎がおかれた場所は住宅地となり痕跡は少ないですが避難用防空壕や階段などが現存しています。また、地下工場は崩落事故を防止するために入口の一部が封鎖されてますが坑道のほとんどが残存しており見学することが可能です。 |
横須賀海軍軍需部 池子火薬倉庫
所在 逗子市池子 ほか
収録遺構 (39) 門柱 3, 軍用地境界塀 1, 軍用地境界標 22, 地下壕 9, その他 4
実地調査 2018年 1月 (継続調査中)
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地下壕は、池子と久木に 多く残っていますよ★
しかし、水没箇所が多く 見学は注意が必要です★ |
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海軍軍需部は、兵器や燃料・物資などを全国の生産工場などから収集し、前線にこれらを補給する重要な役割を果たしていた部署で、物資を送り出すまでの間は一時的な保管が必要であり沢山の保管施設を保有していました。このうち火薬類を貯蔵する目的で、1937年(昭和12)に池子地区に火薬倉庫が建設されました。
戦争末期は、防空対策の一環で周辺に地下壕が掘削されますが、目立った爆撃は受けず大量の砲弾類を抱えたまま終戦を迎えました。
終戦後、施設はアメリカ軍が接収し、弾薬庫に使用されましたが、現在は家族住宅が建てられ引き続きアメリカ軍によって使用されており、遺構の詳細はわかりませんが、この周辺に構築された地下壕や軍用地境界標などが残っており見学することも可能ですが、特に地下壕は水没しているので、細心の注意が必要です。
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横須賀海軍軍需部 池子火薬倉庫 逗子軍用線
所在 逗子市山の根 3 ↓ 逗子市池子
収録遺構 (2) トンネル 1, その他 1
実地調査 2007年 12月
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海軍軍需部は、兵器や燃料・物資などを全国の生産工場などから収集し、前線にこれらを補給する重要な役割を果たしていた部署で、物資を送り出すまでの間は一時的な保管が必要であり沢山の保管施設を保有していました。このうち火薬類を貯蔵する目的で、1937年(昭和12)に池子地区に火薬倉庫が建設されました。
また、火薬倉庫の建設に合わせて火薬類の輸送ルートを確立させるため横須賀線の逗子駅から軍用線が敷設されて、倉庫内は網の目のように線路が張りめぐさられました。線路の一部は、現在の横浜市金沢区におかれていた航空技術廠支廠まで延長され、軍用線の最終的な総延長は10キロを超えるものとなりました。
終戦後、軍用線は火薬倉庫と共にアメリカ軍に接収されて機能が存続し、1950年(昭和25)の朝鮮戦争では、昼夜を問わず火薬類の搬出入に軍用線が使用されたようです。
現在、火薬倉庫がアメリカ軍の家族住宅になり軍用線の大半が撤去されましたが、横須賀線の逗子駅から京急線の神武寺駅までは線路が残存しており、現在も見ることが出来ます。また、不定期ですが東急車輛で製造された電車を輸送するために線路が活用されています。
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横須賀海軍鎮守府 抵抗拠点陣地
所在 逗子市桜山 9 ほか
収録遺構 (3) 地下壕 3
実地調査 2015年 2月
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横須賀海軍鎮守府は、海軍条例によって定めた 5つの海軍区のうち、第一海軍区 (東北地方〜近畿地方の一部と小笠原の各沿岸海域)を統括した海軍組織で1884年(明治17)に前身である東海鎮守府を横須賀へ移したことによって開設されました。
戦争末期、アメリカが計画した日本上陸作戦の 1つである「コロネット作戦」に対し日本軍は「本土決戦作戦」を展開するため、逗子地区に逗子海岸・小坪海岸からの上陸を想定した抵抗拠点となる洞窟陣地が構築されています。
陣地は、一部の入口が封鎖されているものの、放置されており見学が可能です。
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横須賀海軍水道路 半原系統
所在 逗子市沼間 6 ↓ 逗子市久木 9
収録遺構 (40) 門柱 2, 橋梁 1, 軍用地境界塀 1, 軍用地境界標 30, その他 6
実地調査 2007年 5月
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| 逗子市内の水道路は、 藤沢以北とは全然違い アップダウンが少なく 歩きやすいですよっ★
探訪をお奨めします♪ |
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横須賀海軍水道路は、横須賀市におかれていた横須賀海軍工廠を中心とした海軍施設に対して水を供給する目的で、1876年(明治9)に専用の水道が走水の水源地より敷かれました。しかし施設の拡大に伴って水の需要が増えてしまい、この専用水道だけでは供給不足となり、新たに相模川の支流となる中津川を水源に、愛川町の半原より横須賀市の逸見浄水場にいたる長大な水道路の敷設が計画され1918年(大正7)に半原系統として通水し逗子市内を縦断しています。
戦後、水道路は横須賀市に移管されて、市民が使用する水道として使われていますが、軍用地境界標を中心とした当時の遺構が現在も残っています。 |