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 神奈川県横浜市の戦争遺跡一覧 (作成中ですっ) 収録遺構数:137 


海軍艦政本部
地下壕


 所在
  港北区箕輪町 3 ほか
  (栄区長尾台町)

 収録遺構 (3)
  地下壕 2,
  その他 1

 実地調査
  2005 8
  2005年時点の詳細をご紹介します







艦政本部は、艦船を製作して供給を行うための事務を掌る海軍省の外局にあたる組織として、1900(明治33)に開設されました。

開設当初は、造兵・燃料・造船・造機 (左より第一部〜第四部にそれぞれ該当)  4組織から構成されていましたが、造兵部の組織細分化をはじめとした複雑な組織改編が繰り返されて、最終的には 7組織での構成により終戦まで存続しました。

1944(昭和19)に入り、防空対策の一環により疎開先として接収した慶應義塾大学日吉校舎へ海軍の重要施設が次々と移り、周辺に地下壕が構築されていく中、これに同調するような形で艦政本部の機能維持を目的とした地下壕も建設されました。しかし、深刻な資材の不足により連合艦隊人事局の地下壕のように、全面的なコンクリート製の坑道には出来ず、石を積んで部分補強するなどの措置を取りながらも完成し1945(昭和20) 815日より使用されることが決まって準備が進められましたが、終戦となり使用されることはありませんでした。

地下壕は、全ての入口が塞がれており、一部の坑道は公園の整備に伴い埋め戻されていますが坑道の一部分と地下壕の掘削に関係していたと思われる遺構が現在も残っています。さらに、長尾台(栄区)にも地下壕が構築されていますが規模が小さく、掘削途中で終戦を迎えたものと思われます。


横須賀海軍鎮守府
特別陸戦隊
抵抗拠点陣地


 所在
  栄区公田町 ほか

 収録遺構 (6)
  地下壕 6

 実地調査
  2013 12
  2014年時点の詳細をご紹介します
 安芸:祐実ちゃん、銃眼見っけ★
陣地の規模は、いずれも
小さいですが、機関銃の
狙撃口である銃眼部分は
コンクリートでしっかり
構築されていますよっ★






特別陸戦隊は、鎮守府隷下の海兵団などからの陸上部門兵員によって構成された、陸上戦闘を専門とする海軍部隊で、「特設艦船部隊令」に基づいて、戦時に限り必要に応じて臨時に編成された部隊です。(一方、艦艇の乗組員で構成された部隊は「陸戦隊」といいます)

日本の敗戦をほぼ決定的にした1944(昭和19)
 6
月のマリアナ沖海戦の敗退で、アメリカ軍は「コロネット作戦」と呼ばれる、日本本土への
上陸作戦を計画します。その内容は、相模湾と千葉県の九十九里浜より上陸して、帝都に攻め入るというもので、これに対し日本軍は「本土決戦作戦」を計画し、相模湾沿岸と九十九里浜沿岸への上陸場所を予想して防衛用の抵抗拠点陣地を構築しました。

本郷台の南をはしる環状 4号は、横須賀の航空技術廠と本郷台の燃料廠を結ぶため海軍により建設された軍道で、「コロネット作戦」が展開された場合、大船方面からこの道路を使用して東京に攻め入ると予想されて、1945(昭和20)初頭より、道路に沿うようにして特別陸戦隊の陣地を構築し、迎撃出来る態勢を作りました。また、連合艦隊の司令部がおかれた日吉周辺も前哨陣地がおかれたようです。

これらの地区で陣地がどのくらい構築されたのか把握出来ていませんが、銃眼を有する洞窟式の陣地の残存も複数確認出来ています。


海軍軍令部
第三部

 (軍令部第三部)


 所在
  港北区日吉 4 ほか

 収録遺構 (6)
  建物 2,
  地下壕 3,
  その他 1

 実地調査
  2007 8
  2007年時点の詳細をご紹介します

祐実:この地下壕、内部はどうなってるのでしょう?
地下壕は、規模が大きく
内部の構造や状況などが
とても気になります・・







軍令部は、天皇に直属する海軍の統括機関で、戦時における作戦の立案や、それに伴う用兵の管理を行うための、海軍省の外局組織として、1884(明治17)に、前身の軍事部が開設されたことが始まりです。その後、条例改正によって海軍省の管轄におかれますが、1893(明治26)官制改訂で海軍軍令部に改称されて海軍省から独立し、1933(昭和 8)の軍令部令によって、最終的に軍令部に改称されました。

ここは、第一部(作戦)・第二部(軍備)・第三部
(情報)・第四部(通信) 4組織から構成され、
庁舎は東京の霞ヶ関におかれましたが、空襲に
備えて疎開させる必要が出てきたため、1943(昭和18)に慶應義塾大学の日吉校舎を疎開先に接収して、このうちの第三部が第 1校舎に移りアメリカやイギリスなどの敵国情報の収集や、分析を行う任務にあたりました。

1944(昭和19)に入ると、本格的な防空対策の一環で、任務の維持継続を目的とした地下壕も構築され、終戦間際である1945(昭和20) 3月以降はここに入って任務が継続されました。

軍令部第三部で使用された施設は、現在も慶應義塾大学で活用されており、地下壕は出入口が封鎖されているものの、坑道のほとんどが現存しています。

海軍連合艦隊
司令部


 所在
  港北区日吉 4

 収録遺構 (2)
  建物 1,
  地下壕 1

 実地調査
  2007 8
  2007年時点の詳細をご紹介します

せりな:私も行きたいですっ♪
大学のキャンパス内には
アポ無しでも入れますが
地下壕の見学には事前の
日程確認が必要ですよ★

詳細は「日吉台地下壕の
保存をすすめる会」にて
確認をお願いします★↓

045-562-0443


畝傍:客観的な主張ですが・・・ 兵器による特攻でしか
もう対抗出来る手段が
無かったということを
十分に理解してますが
一世を風靡した、あの
「大和」が海へ沈んで
いく姿を想うと非常に
やるせないです・・▲



海軍連合艦隊は、明治初期に編成されていた、「常備艦隊」と「西海艦隊 (この前身は「警備艦隊」といいました) 」で構成され、開戦時に編成される非常設の(大正に入り常設)複合体で日本を代表する海軍の中核部隊です。

戦時に編成された連合艦隊の司令部は、海上で戦闘を指揮する必要があるため、創設当初より旗艦におかれてきました。しかし、その役割が戦闘部隊の指揮以外に、海上における全作戦の指揮も執るようになったために、司令部規模の拡張が必然的となって旗艦で指揮を執ることが難しくなり、これを満足させるために軽巡洋艦「大淀」へ司令部を移しました。

1944(昭和19)に入って、マリアナ沖海戦での敗退により本土空襲が決定的となると、司令部機能を維持させるため、接収した慶應義塾大学寄宿舎に司令部を移し、陸上にあがって指揮を執るようになりました。また、防空対策として寄宿舎の下に、全面コンクリート製の地下壕を構築し、連合艦隊の実質的な壊滅につながったレイテ沖海戦の指揮や、沖縄戦における、戦艦「大和」の特攻作戦の指揮などはこれらの施設内部で執られました。

連合艦隊で使用された施設は、現在も慶應義塾大学で活用されており、コンクリートの厚さが40cmもある強固な地下壕は、貴重な戦跡として大学で保存されており「日吉台地下壕の保存をすすめる会」が定める日だけ、施錠されている入口が開かれ、同会の立ち会いの下に、一部の坑道が公開されます。

海軍省人事局

 (海軍省経理局)


 所在
  港北区日吉 4

 収録遺構 (1)
  地下壕 1

 実地調査
  2009 5

 安芸:えっ、入れないの??
市販の書籍などによく
掲載されている地下壕
内部図によると複数の
坑道が放射状に延びる
特異な構造をしており
詳細が気になります★






人事局は、当時は内閣の 1つとして軍政を執り行った、海軍省に所属する内部部局の 1つで、軍属の人事に関する管理やその身分保障を掌握するために、1900(明治33)に発足しました。

庁舎は軍令部と同様に東京の霞ヶ関におかれていましたが、空襲に備えて各部局を疎開させる必要が出てきたため、接収した慶應義塾大学の日吉校舎を疎開先に選んだ軍令部に続き、第 1校舎の一角に移りました。第 1校舎には、他に海軍省に所属する内部部局の 1つとして、軍の予算計画とその執行や金品の管理などを行った経理局も移りました。

1944(昭和19)に入り、相次ぐ海戦での敗退で本土の空襲が決定的となったため、防空対策が本格化し、機能維持を目的とした地下壕が第 1校舎の近くに構築され、人事局の一部が入って任務が継続されました。

人事局や経理局で使用された第 1校舎は、慶應義塾高校で引き続き活用されており、地下壕は全ての入口がブロックで封鎖されていますが、坑道のほとんどが現存しています。


海軍気象部
 (接収建物)


 所在
  港北区綱島台 1

 収録遺構 (1)
  建物 1

 実地調査
  20155




気象部は、気象に関係する調査・研究・統計や気象器材の研究・審査などを行う部門で東京に施設がおかれていました。

太平洋戦争中の1944年(昭和19)に入ると空襲が激化したために機能を分散させる形で疎開することが決まり、それまで綱島台におかれた大倉精神文化研究所の建物を接収して気象部の第五分室が移り、終戦まで機能が存続しました。

現在、建物は大倉山記念館として存続しており不定期ながら第五分室の資料などが展示される催しも開かれています。

浅野綜合中学校
防空壕


 所在
  神奈川区子安 1

 収録遺構 (1)
  地下壕 1

 実地調査
  201212




浅野綜合中学校は、1920年(大正 9)に創立した私立中学校で、現在も学校法人浅野学園として存続しています。

昭和に入り、太平洋戦争の末期になると、防空対策の一環で、銅像山の通称をもつ山の下に、当時在籍していた生徒達を動員し防空壕を掘削しました。

現在は、全ての入口がコンクリートで封鎖され規模や構造をうかがい知ることは出来ませんが浅野学園で戦争遺跡として保存しており、入口部分を見学することが可能です。

横浜海軍航空隊


 所在
  金沢区
  富岡東 2 ほか

 収録遺構 (24)
  建物 1,
  門柱 1,
  地下施設 2,
  地下壕 2,
  軍用地境界標 16,
  その他 2

 実地調査
  2014 3
  2014年時点の詳細をご紹介します







横浜海軍航空隊は、飛行艇を専門として取扱う海軍最初の航空隊として、首都の防衛を目的に1936(昭和11)10月に開設された航空隊です。ここには、「九七式飛行艇」や世界最高水準の飛行艇として名高い「二式飛行艇」が配備され防衛任務にあたっていました。飛行艇は、胴体下部が船のような構造になっており、水に浮揚出来るため、一般的な飛行機のように、陸上に広大な滑走路を建設する必要がないため、用地取得の経済性にメリットがありました。

1941(昭和16)12月、アジア太平洋戦争が開戦されると、海軍連合艦隊の第二十五航空戦隊の隷下となって転戦しましたが、1942(昭和17)
 8
7日、ガダルカナル島での戦闘において、アメリカ軍の急襲を受け全員が玉砕し、壮絶な最期を遂げました。その後、同年の10月に再建されますが、1945(昭和20) 4月の再編成で、練習航空隊である香川の詫間海軍航空隊に編入されて終戦を迎えました。

終戦後、横浜海軍航空隊の敷地はアメリカ軍に接収されましたが、現在は返還され、富岡総合公園や神奈川県警第一機動隊などが建設されています。また、飛行艇の発着場は埋め立てられ南部卸売市場となっています。これらの建設によって整地されていますが、敷地南側を中心に当時の遺構がわずかに残っています。


東京陸軍兵器補給廠
田奈弾薬貯蔵填薬所


 所在
  青葉区奈良町

 収録遺構 (33)
  地下施設 17,
  門柱 1,
  地下壕 6,
  砲座 1,
  建物基礎 3,
  トンネル 2,
  その他 3

 実地調査
  2007 10
  2007年時点の詳細をご紹介します
 祐実:ご家族連れでも楽しめるところですよっ♪
残存する遺構の大半は、
「こどもの国」の園内に
分布していますよ★    

なお、入園に際しては、
入園券(600) が必要と
なりますが、お金を払う
価値は非常に大きいので
探訪をお奨めしますよ♪
係員さんに趣旨を話せば
嬉しい収穫があるかも★




安芸:弾薬庫の内部も見所があるよっ★弾薬庫は、不定期ですが
こどもの国で平和学習の
一環として内部を特別に
公開することがあるので
興味がある方は電話にて
お問い合わせください↓

  「こどもの国」
   045-961-2111




田奈弾薬貯蔵填薬所は、弾薬類の製造と貯蔵を目的とした施設で、1939(昭和14)に横浜市と東京都町田市に跨る丘陵の約100haを買収して建設されました。

この丘陵が建設地に選ばれた具体的な理由には砲弾類の製造を行っていた、相模陸軍造兵廠に(相模原市)近いことや、長津田駅から施設まで軍用線を敷設して横浜線に接続することにより資材や弾薬類の運搬が鉄道を使って可能になることが挙がります。また、岩盤も硬かったため内部で爆発事故があっても被害が最小限で済み戦況によって本土決戦が展開された場合でも、地理的な面からここを拠点にすることが出来るメリットもありました。

建設工事は、松村組が主に請け負って、1期と
 2期に時期を分け、 1期工事で火薬を装填する作業場と全面コンクリート製の地下式弾薬庫が完成し、 2期工事で軍用の引込線と横穴式資材保管倉庫が完成しました。これに加えて、防空対策として、終戦間際に本部が使用するための地下壕が複数構築されています。

最盛期には、約 2,000人の工員が作業に従事し大量の弾薬を生産する一大拠点となりましたがアメリカ軍による空爆は免れて、大量の火薬や弾薬類を貯蔵したまま終戦を迎えました。

終戦後は占領軍に施設を接収されアメリカ軍の弾薬庫に転用されましたが、のちに返還されて平成天皇の結婚記念事業で、敷地のほとんどを使って「こどもの国」が建設され現在に至っています。なお、この建設には多少の整地工事が行われたものの、弾薬庫を中心に当時の遺構が現在も多数残っています。


東京陸軍兵器補給廠
田奈弾薬貯蔵填薬所
長津田軍用線


 所在
  緑区長津田 4
    ↓
  青葉区奈良町

 収録遺構 (3)
  橋梁 1,
  軍用地境界標 1,
  その他 1

 実地調査
  2007 10
  2007年時点の詳細をご紹介します



時間に余裕のある方は
「こどもの国」から、
長津田駅まで線路跡を
歩いてみませんか?

ちなみに 1時間程度の
所要で巡れますよ★
 せりな:恩田駅まででも全部の遺構を見れます★

田奈弾薬貯蔵填薬所の軍用線は、資材の搬入や弾薬類の搬出を目的として、1941(昭和16)に同施設の建設 2期工事へ組み込んで敷設された施設引込線です。

軍用線は、横浜線の長津田から分岐して進路を北向きに変えて、現在の「こどもの国」園内へ入る本線と、本線の途中で跨ぐ奈良川の北より分岐して、進路をやや北東に変えて園内に入る支線が敷設されて、前者は現在のこどもの国の中央広場・後者は第 2駐車場にそれぞれ積荷を捌くための貨物駅が設置されていました。

戦後、軍用線の本線はこどもの国へのアクセス路線となっている、こどもの国線の線路に活用されて現在に至り、支線は廃線となりましたが軍用線の痕跡が現在もわずかに残っています。


横須賀海軍航空技術廠
室の木工場


 所在
  金沢区六浦東 1

 収録遺構 (1)
  地下壕 1

 実地調査
  20071




横須賀海軍航空技術廠は、航空機・航空機材の設計や研究などを行う目的で、この前身である横須賀海軍航空廠からの改編によって、1940年
(昭和15)に開設されました。

その後、部門拡大による敷地拡張により現在の六浦東地区一帯の敷地を買収して新たに室の木工場を新設し発着機部の施設がおかれました。

終戦後、施設は取り壊されて現在は横浜創学館高校や室の木公務員住宅などになっているため当時の面影がありませんが、この背面にあたる低山に構築された地下工場が残っており、封鎖されているものの現在も入口部分を見ることが出来ます。

横須賀海軍航空技術廠
支廠

 (横須賀第一海軍技術廠
  支廠,
  横浜第二海軍技術廠)


 所在
  金沢区大川 ほか

 収録遺構 (27)
  建物 2,
  軍用地境界標 14,
  地下壕 3,
  トンネル 1,
  その他 7

 実地調査
  2014 3
  2014年時点の詳細をご紹介します




遺構の一部は立入許可が
必要ですので見学の際は
注意してくださいね★

探訪初心者の方の見学は
難しい箇所もあります■
無理をなさらないように
してくださいね★
智恵:こしゃくなっ!

横須賀海軍航空技術廠支廠 (以降は「支廠」と記載します★) は、横須賀市浦郷町におかれた横須賀海軍航空技術廠 (以降は「本廠」と記載します★) が、戦火の拡大に伴い施設の拡大を迫られたため、航空技術の総合的な研究などを行う目的で1941(昭和16)に設立されました。

設立当初は、中心部門である兵器部・爆弾部と総務部・会計部・医務部がおかれていましたが1943(昭和18) 4月からは、火工部・光学部・計器部が新たに設置されて、射撃部・爆撃部・雷撃部が兵器部から分離独立し、さらに本廠の電気部が支廠に移管され大施設となりました。その後、1945(昭和20) 215日に横須賀第一海軍技術廠支廠に改称され、航空技術の研究や実験のほかに、航空機の設計や生産も行われ、最終的には横浜第二海軍技術廠として独立し、海軍の重要施設として終戦まで機能しました。

現在、敷地跡は横浜市立大学や金沢高校・東急車輛工業をはじめとした工場などになっており面影がありませんが、敷地周辺に当時の遺構が残っています。


横須賀海軍警備隊
第一高射機銃大隊
八景山防空砲台


 所在
  金沢区瀬戸 ほか

 収録遺構 (8)
  砲座 1,
  建物基礎 2,
  地下壕 1,
  トンネル 1,
  その他 3

 実地調査
  2007 12
  2007年時点の詳細をご紹介します


恵麻:ハチがいるじゃないっ!探訪初心者の方の見学は
非常に難しいですので、
周辺地理をよく知る方と
探訪をお奨めします■

無理をなさらないように
してくださいね★

八景山防空砲台は、横須賀軍港を統括していた横須賀海軍鎮守府の隷下におかれ、軍港周辺の防衛任務についた横須賀海軍警備隊が守備する防空砲台として、横須賀海軍航空技術廠支廠を防衛することを目的に、1944(昭和19)に建設されました。

ここには、同隊の傘下におかれた第一高射機銃大隊下の第二高射機銃中隊の兵員17名を配置し
25mm連装機銃を 2基据え付けて、防備にあたりました。

現在は、敷地の一部が上行寺裏手より横浜市立大学裏手方面へと延びる林道となっていますが山林内に遺構が放置されている状態で、土砂に埋もれつつあるものの、通行用トンネルや建物基礎などを見ることが出来ます。

なお、林道は一般に整備されているものと違い埋もれかかっているので、これらを見学の際は危険が伴うので細心の注意が必要です。

横須賀海軍警備隊
第一高射機銃大隊
支廠山防空砲台


 所在
  金沢区大川 7 ほか

 収録遺構 (4)
  砲座 2,
  地下壕 2

 実地調査
  2014 12
  2014年時点の詳細をご紹介します





支廠山防空砲台は、八景山防空砲台と連携して海軍航空技術廠支廠を防衛することを目的に、
1944(昭和18)に建設されました。

当初は、13mm機銃が 4基据え付けられて防備にあたっていましたが、翌年の八景山防空砲台の竣工と同時期に、25mm連装機銃を 6基と、13mm四連装機銃を 1基へ増強配備されています。

現在、敷地の一部はレイディアントシティ横濱北側より釜利谷方面に抜ける尾根緑道となっていますが、山林内に遺構が放置されているため土砂に埋もれているものの、機銃座と思われる掘り込みや、斜面に弾薬庫と思われる地下壕が残っています。


大船第一海軍燃料廠


 所在
  栄区桂町 ほか

 収録遺構 (13)
  門柱 1,
  建物 1,
  地下壕 1,
  軍用地境界塀 4,
  軍用地境界標 4,
  その他 1
  地下壕(消失) 1

 実地調査
  2015 4
  2015年時点の詳細をご紹介します





直美:大船は鎌倉市よね?建設当初の設置条件や、
便宜上などの理由により
呼称上、頭に「大船」が
付きますが、その実体は
本郷台にありますよっ★
大船に、燃料廠の施設は
配置されていないので、
くれぐれもご注意を★

大船第一海軍燃料廠は、航空燃料や潤滑油など石油に関係する製品の研究や実験を行うことを目的として1938(昭和13)に開設され、現在の本郷台を中心に施設がおかれていました。

本郷台が燃料廠の建設地に選ばれた理由には、海軍の重要施設がおかれていた横須賀に近くて大船から施設までの軍用線を敷設することで、横須賀線を使用した輸送ネットワークが簡単に確立出来ることが挙がりました。

設立当初は、艦船や航空機に使用する燃料類の基礎研究や、松根油などを使用した代替燃料の試行を繰り返して量産に漕ぎつける研究などが行われてきましたが、陸軍・海軍・三菱合同で開発したロケット戦闘機「秋水」が完成するとこれに使用される特殊燃料の研究や燃焼試験も行われるようになり、終戦まで実験施設として機能しました。

終戦後、敷地のほとんどをアメリカ軍が接収ししばらくの間は物資倉庫として使用しましたがその後に返還されて、公団住宅や学校・行政の施設が建てられた時に整地されたため、面影が無くなってしまいました。現在は、敷地北側にあたる小菅ヶ谷 2丁目付近に、わずかな遺構が残るのみとなっています。

なお、数年前までは本郷台駅北側にあった山に燃料廠を防衛するための防空施設が一部残っていましたが、開発されてしまい消滅しており、調査が一足遅く、記録出来ませんでした・・・

これらに関し、写真や情報などをお持ちの方は是非とも提供して欲しいところですっ★


海軍横須賀軍港境域

 所在
  金沢区六浦南 2

 収録遺構 (1)
  軍用地境界標 1

 実地調査
  201510




横須賀軍港境域は、横須賀市におかれた横須賀海軍鎮守府が統括した横須賀軍港の土地境界を決定するものとして、1896年(明治29)に条項が設けられました。

軍港境域と定めた場所では一般人の立ち入りが厳しく制限され、その範囲を明確にするための軍港境域標が境域の境界線に設置されました。

横浜市についても、一部分が横須賀軍港境域に定められていたため、軍港境域標が設置されており、このうちの 1本が六浦三艘緑地内に移設保存されています。

横須賀海軍軍需部
池子火薬倉庫


 所在
  金沢区
  東朝比奈 2 ほか

 収録遺構 (3)
  軍用地境界標 3

 実地調査
  2015 10
  2015年時点の詳細をご紹介します





海軍軍需部は、兵器や燃料・物資などを全国の生産工場などから収集し、前線にこれらを補給する重要な役割を果たしていた部署で、物資を送り出すまでの間は一時的な保管が必要であり沢山の保管施設を保有していました。このうち火薬類を貯蔵する目的で、1937(昭和12)池子地区に火薬倉庫が建設されました。

戦争末期は、防空対策の一環で周辺に地下壕が掘削されますが、目立った爆撃は受けず大量の砲弾類を抱えたまま終戦を迎えました。

池子火薬倉庫の敷地の大半は逗子市におかれていますが、一部が横浜市にも跨っており軍用地境界標が現在も残っています。

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