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 神奈川県横浜市の軍事遺跡一覧 収録遺構数:201 


 海軍連合艦隊
 司令部


 所在
  港北区日吉 4

 収録遺構 (2)
  建物 1,
  地下壕 1

 実地調査
  2007年 8月

  2007年時点の詳細をご紹介します



せりな:私も行きたいですっ♪
大学のキャンパス内には
アポ無しでも入れますが
地下壕の見学には事前の
日程確認が必要ですよ★

詳細は「日吉台地下壕の
保存をすすめる会」にて
確認をお願いします★↓

045-562-0443


畝傍:客観的な主張ですが・・・ 兵器による特攻でしか
もう対抗出来る手段が
無かったということを
十分に理解してますが
一世を風靡した、あの
「大和」が海へ沈んで
いく姿を想うと非常に
やるせないです・・▲



海軍連合艦隊は、明治初期に編成されていた、「常備艦隊」と「西海艦隊 (この前身は「警備艦隊」といいました) 」で構成され、開戦時に編成される非常設の(大正に入り常設)複合体で日本を代表する海軍の中核部隊です。

戦時に編成された連合艦隊の司令部は、海上で戦闘を指揮する必要があるため、創設当初より旗艦におかれてきました。しかし、その役割が戦闘部隊の指揮以外に、海上における全作戦の指揮も執るようになったために、司令部規模の拡張が必然的となって旗艦で指揮を執ることが難しくなり、これを満足させるために軽巡洋艦「大淀」へ司令部を移しました。

1944年(昭和19)に入り、マリアナ沖海戦での敗退により本土空襲が決定的となると、司令部機能を維持させるため、接収した慶應義塾大学寄宿舎に司令部を移し、陸上にあがって指揮を執るようになりました。また、防空対策として寄宿舎の下に、全面コンクリート製の地下壕を構築し、連合艦隊の実質的な壊滅につながったレイテ沖海戦の指揮や、沖縄戦における、戦艦「大和」の特攻作戦の指揮などはこれらの施設内部で執られました。

連合艦隊で使用された施設は、現在も慶應義塾大学で活用されており、コンクリートの厚さが40センチもある強固な地下壕は、貴重な戦跡として保存されており、「日吉台地下壕の保存をすすめる会」が定める日だけ、施錠されている入口が開かれ、同会の立ち会いの下に、一部の坑道が公開されます。

 海軍省人事局

 (海軍省経理局)


 所在
  港北区日吉 4

 収録遺構 (1)
  地下壕 1

 実地調査
  2009年 5月




 安芸:えっ、入れないの??
市販の書籍などによく
掲載されている地下壕
内部図によると複数の
坑道が放射状に延びる
特異な構造をしており
詳細が気になります★






人事局は、当時は内閣の 1つとして軍政を執り行った、海軍省に所属する内部部局の 1つで、軍属の人事に関する管理やその身分保障を掌握するために1900年(明治33)に発足しました。

庁舎は軍令部と同様に東京の霞ヶ関におかれていましたが、空襲に備えて各部局を疎開させる必要が出てきたため、接収した慶應義塾大学の日吉校舎を疎開先に選んだ軍令部に続き、第一校舎の一角に移りました。第一校舎には、他に海軍省に所属する内部部局の 1つとして、軍の予算計画とその執行や金品の管理などを行った経理局も移りました。

1944年(昭和19)に入り相次ぐ海戦での敗退で本土の空襲が決定的となったため、防空対策が本格化し、機能維持を目的とした地下壕が第一校舎の近くに構築され、人事局の一部が入って任務が継続されました。

人事局や経理局で使用された第一校舎は、慶應義塾高校で引き続き活用されており、地下壕は全ての入口がブロックで封鎖されていますが、坑道のほとんどが現存しています。



 海軍軍令部
 第三部

 (軍令部第三部)


 所在
  港北区日吉 4 ほか

 収録遺構 (6)
  建物 2,
  地下壕 3,
  その他 1

 実地調査
  2007年 8月

  2007年時点の詳細をご紹介します


祐実:この地下壕、内部はどうなってるのでしょう?
地下壕は、規模が大きく
内部の構造や状況などが
とても気になります・・







軍令部は、天皇に直属する海軍の統括機関で、戦時における作戦の立案や、それに伴う用兵の管理を行うための、海軍省の外局組織として、1884年(明治17)に、この前身の軍事部が開設されたことが始まりです。その後、条例改正によって海軍省の管轄におかれますが、1893年(明治26)の官制改訂で海軍軍令部に改称されて海軍省から独立し1933年(昭和8)の軍令部令により最終的に軍令部に改称されました。

ここは、第一部(作戦)・第二部(軍備)・第三部
(情報)・第四部(通信)の 4組織から構成され、
庁舎は東京の霞ヶ関におかれましたが、空襲に
備えて疎開させる必要が出てきたため1943年(昭和18)に慶應義塾大学の日吉校舎を疎開先に接収して、このうちの第三部が第一校舎に移りアメリカやイギリスなどの敵国情報の収集や、分析を行う任務にあたりました。

1944年(昭和19)に入ると本格的な防空対策の一環で、任務の維持継続を目的とした地下壕も構築され、終戦間際である1945年(昭和20)3月以降はここに入って任務が継続されました。

軍令部第三部で使用された施設は、現在も慶應義塾大学で活用されており、地下壕は出入口が封鎖されているものの、坑道のほとんどが現存しています。

 海軍艦政本部
 地下壕


 所在
  港北区箕輪町 3,
  栄区長尾台町

 収録遺構 (3)
  地下壕 2,
  その他 1

 実地調査
  2017年 12月

  2005年時点の詳細をご紹介します







艦政本部は、艦船を製作して供給を行うための事務を掌る海軍省の外局にあたる組織として、1900年(明治33)に開設されました。

開設当初は、造兵・燃料・造船・造機 (左より第一部〜第四部にそれぞれ該当) の 4組織から構成されていましたが、造兵部の組織細分化をはじめとした複雑な組織改編が繰り返されて、最終的には 7組織での構成により終戦まで存続しました。

1944年(昭和19)に入り防空対策の一環により疎開先として接収した慶應義塾大学日吉校舎へ海軍の重要施設が次々と移り、周辺に地下壕が構築されていく中、これに同調するような形で艦政本部の機能維持を目的とした地下壕も建設されました。しかし、深刻な資材の不足により連合艦隊人事局の地下壕のように、全面的なコンクリート製の坑道には出来ず、石を積んで部分補強するなどの措置を取りながらも完成し1945年(昭和20) 8月15日より使われることが決まって準備が進められましたが、終戦となり使用されることはありませんでした。

地下壕は、全ての入口が塞がれており、一部の坑道は公園の整備に伴い埋め戻されていますが坑道の一部分と地下壕の掘削に関係していたと思われる遺構が現在も残っています。さらに、長尾台(栄区)にも地下壕が構築されていますが規模が小さく、掘削途中で終戦を迎えたものと思われます。



 海軍気象部
 (接収建物)


 所在
  港北区綱島台 1

 収録遺構 (1)
  建物 1

 実地調査
  2015年 5月




気象部は、気象に関係する調査・研究・統計や気象器材の研究・審査などを行う部門で東京に施設がおかれていました。

太平洋戦争中の1944年(昭和19)に入り空襲が激化したために機能を分散させる形で疎開することが決まり、それまで綱島台におかれた大倉精神文化研究所の建物を接収して気象部の第五分室が移り、終戦まで機能が存続しました。

現在、建物は大倉山記念館として存続しており不定期ながら第五分室の資料などが展示される催しも開かれています。

 浅野綜合中学校
 防空壕


 所在
  神奈川区子安 1

 収録遺構 (1)
  地下壕 1

 実地調査
  2012年 12月







浅野綜合中学校は、1920年(大正9)に創立した私立中学校で、現在も学校法人浅野学園として存続しています。

昭和に入り、太平洋戦争の末期になると、防空対策の一環で、銅像山の通称をもつ山の下に、当時在籍していた生徒達を動員し防空壕を掘削しました。

現在は、全ての入口がコンクリートで封鎖され規模や構造をうかがい知ることは出来ませんが浅野学園で戦争遺跡として保存しており、入口部分を見学することが可能です。

 横浜船渠
 (三菱重工業
  横浜造船所)


 所在
  西区
  みなとみらい 2

 収録遺構 (5)
  その他 5

 実地調査
  2021年 7月












横浜船渠は艦船の修理や整備などを目的として設立された民間の企業で、この前身である横浜造船所を引き継ぐ形で1891年(明治24)に発足しました。

その後は艦船の建造も始まり、氷川丸や秩父丸などの客船や海軍の艦艇にも手掛け、1935年(昭和10)の三菱重工業との合併を経て最終的に三菱重工業横浜造船所となりました。

戦後も引き続き船舶の修繕を中心として事業を継続していますが、本牧地区へ工場機能を移し跡地はみなとみらい地区に再開発されており、ドックや造船設備が保存されています。

 横浜海軍航空隊


 所在
  金沢区
  富岡東 2 ほか

 収録遺構 (34)
  門柱 1,
  建物 1,
  地下施設 2,
  地下壕 2,
  軍用地境界標 20,
  その他 8

 実地調査
  2021年 6月

  2021年時点の詳細をご紹介します







横浜海軍航空隊は、飛行艇を専門として取扱う海軍最初の航空隊として、首都の防衛を目的に1936年(昭和11)に開設された航空隊です。

ここには、「九七式飛行艇」や世界最高水準の飛行艇として名高い「二式飛行艇」が配備され防衛任務にあたっていました。飛行艇は、胴体下部が船のような構造になっており、水に浮揚出来るため、一般的な飛行機のように、陸上に広大な滑走路を建設する必要がないため、用地取得の経済性にメリットがありました。

1941年(昭和16)12月に入り太平洋戦争が開戦されると、海軍連合艦隊の第二十五航空戦隊の隷下となり転戦しましたが、1942年(昭和17) 8月7日のガダルカナル島の戦闘でアメリカ軍の急襲を受けて玉砕し壮絶な最期を遂げました。その後、同年の10月に再建されますが1945年(昭和20)4月の再編成により練習航空隊である詫間海軍航空隊に編入され終戦を迎えました。

終戦後、横浜海軍航空隊の敷地はアメリカ軍に接収されましたが、現在は返還され、富岡総合公園や神奈川県警第一機動隊などが建設されています。また、飛行艇の発着場は埋め立てられ南部卸売市場となっています。これらの建設によって整地されていますが、敷地南側を中心に当時の遺構がわずかに残っています。



 東京陸軍兵器補給廠
 田奈弾薬貯蔵填薬所


 所在
  青葉区奈良町

 収録遺構 (37)
  門柱 1,
  建物 4,
  地下施設 17,
  地下壕 6,
  砲座 1,
  建物基礎 3,
  トンネル 2,
  その他 3

 実地調査
  2021年 6月

  2021年時点の詳細をご紹介します
 祐実:ご家族連れでも楽しめるところですよっ♪
残存する遺構の大半は、
「こどもの国」の園内に
分布していますよ★    

なお、入園に際しては、
入園券(600円) が必要と
なりますが、お金を払う
価値は非常に大きいので
探訪をお奨めしますよ♪
係員さんに趣旨を話せば
嬉しい収穫があるかも★




畝傍:弾薬庫の内部も見所がありますっ★弾薬庫は、不定期ですが
こどもの国で平和学習の
一環として内部を特別に
公開することがあるので
興味がある方は電話にて
お問い合わせください↓

  「こどもの国」
   045-961-2111




田奈弾薬貯蔵填薬所は、弾薬類の製造と貯蔵を目的とした施設で1939年(昭和14)に横浜市と東京都町田市に跨る丘陵の約100ヘクタールを買収して建設されました。

この丘陵が建設地に選ばれた具体的な理由には砲弾類の製造を行っていた、相模陸軍造兵廠に(相模原市)近いことや、長津田駅から施設まで軍用線を敷設して横浜線に接続することにより資材や弾薬類の運搬が鉄道を使って可能になることが挙がります。また、岩盤も硬かったため内部で爆発事故があっても被害が最小限で済み戦況によって本土決戦が展開された場合でも、地理的な面からここを拠点にすることが出来るメリットもありました。

建設工事は、松村組が主に請け負って、1期と
 2期に時期を分け、 1期工事で火薬を装填する作業場と全面コンクリート製の地下式弾薬庫が完成し、 2期工事で軍用の引込線と横穴式資材保管倉庫が完成しました。これに加えて、防空対策として、終戦間際に本部が使用するための地下壕が複数構築されています。

最盛期には、約 2,000人の工員が作業に従事し大量の弾薬を生産する一大拠点となりましたがアメリカ軍による空爆は免れて、大量の火薬や弾薬類を貯蔵したまま終戦を迎えました。

終戦後は占領軍に施設を接収されアメリカ軍の弾薬庫に転用されましたが、のちに返還されて現在の天皇の結婚記念事業で敷地のほとんどを使って「こどもの国」が建設され現在に至っています。なお、この建設には多少の整地工事が行われたものの、弾薬庫を中心に当時の遺構が現在も多数残っています。



 東京陸軍兵器補給廠
 田奈弾薬貯蔵填薬所
 長津田軍用線


 所在
  緑区長津田 4
    ↓
  青葉区奈良町

 収録遺構 (3)
  橋梁 1,
  軍用地境界標 1,
  その他 1

 実地調査
  2007年 10月

  2007年時点の詳細をご紹介します



時間に余裕のある方は
「こどもの国」から、
長津田駅まで線路跡を
歩いてみませんか?

ちなみに 1時間程度の
所要で巡れますよ★
 せりな:恩田駅まででも全部の遺構を見れます★

田奈弾薬貯蔵填薬所の軍用線は、資材の搬入や弾薬類の搬出を目的として1941年(昭和16)に同施設の建設 2期工事へ組み込んで敷設された施設引込線です。

軍用線は、横浜線の長津田から分岐して進路を北向きに変えて、現在の「こどもの国」園内へ入る本線と、本線の途中で跨ぐ奈良川の北より分岐して、進路をやや北東に変えて園内に入る支線が敷設されて、前者は現在のこどもの国の中央広場・後者は第 2駐車場にそれぞれ積荷を捌くための貨物駅が設置されていました。

戦後、軍用線の本線はこどもの国へのアクセス路線となっている、こどもの国線の線路に活用されて現在に至り、支線は廃線となりましたが軍用線の痕跡が現在もわずかに残っています。



 海軍航空技術廠
 室の木工場

 所在
  金沢区六浦東 1

 収録遺構 (1)
  地下壕 1

 実地調査
  2007年 1月




航空技術廠は、航空機・航空機材の設計や研究などを行う目的で、この前身である横須賀海軍航空廠からの改編によって1940年(昭和15)に開設されました。

その後、部門拡大による敷地拡張により現在の六浦東地区一帯の敷地を買収して新たに室の木工場を新設し発着機部の施設がおかれました。

終戦後、施設は取り壊されて現在は横浜創学館高校や室の木公務員住宅などになっているため当時の面影がありませんが、この背面にあたる低山に構築された地下工場が残っており、封鎖されているものの現在も入口部分を見ることが出来ます。


 海軍航空技術廠
 支廠

 (第一海軍技術廠
  支廠,
  第二海軍技術廠)


 所在
  金沢区大川 ほか

 収録遺構 (28)
  建物 3,
  軍用地境界標 14,
  地下壕 3,
  トンネル 1,
  その他 7

 実地調査
  2014年 3月
  (継続調査中)

  2014年時点の詳細をご紹介します




遺構の一部は立入許可が
必要ですので見学の際は
注意してくださいね★

探訪初心者の方の見学は
難しい箇所もあります■
無理をなさらないように
してくださいね★

智恵:こしゃくなっ!

航空技術廠支廠は、横須賀市浦郷町におかれた航空技術廠が、戦火の拡大に伴い施設の拡大を迫られ、航空技術の総合的な研究を行う目的で1941年(昭和16)に設立されました。

設立当初は、中心部門である兵器部・爆弾部と総務部・会計部・医務部がおかれていましたが1943年(昭和18) 4月からは火工部・光学部・計器部が新たに設置されて、射撃部・爆撃部・雷撃部が兵器部から分離独立し、航空技術廠の電気部も支廠に移管され大施設となりました。その後、1945年(昭和20) 2月には「第一海軍技術廠支廠」に改称し航空技術の研究や実験のほかに航空機の設計や生産も行われ最終的には「第二海軍技術廠」として独立し、海軍の重要施設として終戦まで機能しました。

現在、敷地跡は横浜市立大学や金沢高校・東急車輛工業をはじめとした工場などになっており面影がありませんが、敷地周辺に当時の遺構が残っています。



 横須賀海軍警備隊
 第一高射機銃大隊
 八景山防空砲台


 所在
  金沢区瀬戸 ほか

 収録遺構 (8)
  砲座 1,
  建物基礎 2,
  地下壕 1,
  トンネル 1,
  その他 3

 実地調査
  2007年 12月

  2007年時点の詳細をご紹介します


恵麻:ハチがいるじゃないっ!
探訪初心者の方の見学は
非常に難しいですので、
周辺地理をよく知る方と
探訪をお奨めします■

無理をなさらないように
してくださいね★


八景山防空砲台は、横須賀軍港を統括していた横須賀海軍鎮守府の隷下におかれ、軍港周辺の防衛任務についた横須賀海軍警備隊が守備する防空砲台として航空技術廠支廠の防衛を目的に1944年(昭和19)に建設されました。

ここには、同隊の傘下におかれた第一高射機銃大隊下の第二高射機銃中隊の兵員17名を配置し
25ミリ連装機銃を2基据え付け防備にあたったようです。

現在は、敷地の一部が上行寺裏手より横浜市立大学裏手方面へと延びる林道となっていますが山林内に遺構が放置されている状態で、土砂に埋もれつつあるものの、通行用トンネルや建物基礎などを見ることが出来ます。

なお、林道は一般に整備されているものと違い埋もれかかっているので、これらを見学の際は危険が伴うので細心の注意が必要です。

 横須賀海軍警備隊
 第一高射機銃大隊
 支廠山防空砲台


 所在
  金沢区大川 7 ほか

 収録遺構 (4)
  砲座 2,
  地下壕 2

 実地調査
  2014年 12月

  2014年時点の詳細をご紹介します





支廠山防空砲台は、八景山防空砲台と連携して航空技術廠支廠の防衛を目的に1944年(昭和18)に建設されました。

当初は13ミリ機銃が4基据え付けられて防備にあたっていましたが、翌年の八景山防空砲台の竣工と同時に25ミリ連装機銃を6基と、13ミリ四連装機銃を1基へ増強配備されています。

現在、敷地の一部はレイディアントシティ横濱北側より釜利谷方面に抜ける尾根緑道となっていますが、山林内に遺構が放置されているため土砂に埋もれているものの、機銃座と思われる掘り込みや、斜面に弾薬庫と思われる地下壕が残っています。



 横須賀海軍航空隊


 所在
  金沢区野島町 ほか

 収録遺構 (7)
  飛行機掩体 1,
  地下壕 5,
  軍用地境界標 1

 実地調査
  2017年 12月

  2017年時点の詳細をご紹介します

 安芸:私の本気を見せようかっ★
野島の山を囲むように、
沢山の地下壕が展開して
いますが、その大部分は
コンクリートで封鎖され
中には入れません・・・






横須賀海軍航空隊は、海軍最初の航空隊として1916年(大正 5)に開設されました。第一次世界大戦以降、世界では飛行機が兵器として活躍を始めたことを受けて、海軍も航空兵力の増強を目指す第一歩として設置した背景があります。

航空隊が使用する飛行場の建設にあたり、周辺一帯の海面を埋め立てたため、孤島だったのに陸続きとなってしまった箇所もあります。

昭和に入ると航空兵力の拡大が本格化し、少年航空兵の起用が始まります。1930年(昭和 5)、起用された少年航空兵の教育養成機関として、航空隊内に予科練部が設置され、少年兵に対し操縦や偵察などの教育が施されました。また、航空隊に隣接して航空技術廠が設立されると、連携を取るようになり試作された航空機の飛行試験は、航空隊の滑走路を使って行われるようになりました。

航空隊の施設は、ほとんどが横須賀市夏島町におかれていましたが、建設時の埋め立てにより一部が横浜市にも跨がり、野島周辺にも施設がおかれました。現在は、敷地のほとんどが野島公園となっていますが、地下施設を中心とした当時の遺構が残っています。余談になりますが野島の頂上に、航空隊や航空技術廠を防衛する高角砲や機銃が据え付けられましたが、現在は展望台の建設によって消滅しています・・・

 第一海軍燃料廠


 所在
  栄区桂町 ほか

 収録遺構 (20)
  門柱 3,
  建物 3,
  地下壕 1,
  軍用地境界塀 4,
  軍用地境界標 4,
  その他 3
  建物(消失) 1,
  地下壕(消失) 1


 実地調査
  2015年 4月

  2015年時点の詳細をご紹介します







第一燃料廠は、航空燃料や潤滑油などの石油に関係する製品の研究や実験を行うことを目的に1938年(昭和13)に開設され、現在の本郷台を中心に施設がおかれていました。

本郷台が燃料廠の建設地に選ばれた理由には、海軍の重要施設がおかれていた横須賀に近くて大船から施設までの軍用線を敷設することで、横須賀線を使用した輸送ネットワークが簡単に確立出来ることが挙がりました。

設立当初は、艦船や航空機に使用する燃料類の基礎研究や、松根油などを使用した代替燃料の試行を繰り返して量産に漕ぎつける研究などが行われてきましたが、陸軍・海軍・三菱合同で開発したロケット戦闘機「秋水」が完成するとこれに使用される特殊燃料の研究や燃焼試験も行われるようになり、終戦まで実験施設として機能しました。

終戦後、敷地のほとんどをアメリカ軍が接収ししばらくの間は物資倉庫として使用しましたがその後に返還されて、公団住宅や学校・行政の施設が建てられた時に整地されたため、面影が無くなってしまいました。現在は、敷地北側にあたる小菅ヶ谷 2丁目付近に、わずかな遺構が残るのみとなっています。


 横須賀海軍鎮守府
 特別陸戦隊
 抵抗拠点陣地


 所在
  栄区公田町 ほか

 収録遺構 (19)
  地下壕 18,
  その他 1

 実地調査
  2022年 8月
 (継続調査中)

  2022年時点の詳細をご紹介します
 智恵:祐実ちゃん、銃眼見っけ★
陣地の規模は、いずれも
小さいですが、機関銃の
狙撃口である銃眼部分は
コンクリートでしっかり
構築されていますよっ★






特別陸戦隊は、鎮守府隷下の海兵団などからの陸上部門兵員によって構成された、陸上戦闘を専門とする海軍部隊で、「特設艦船部隊令」に基づいて、戦時に限り必要に応じて臨時に編成された部隊です。(一方、艦艇の乗組員で構成された部隊は「陸戦隊」といいます)

1944年(昭和19)6月のマリアナ沖海戦の敗退でアメリカ軍は「コロネット作戦」と呼ばれる、日本本土の上陸作戦を計画します。その内容は相模湾と千葉県の九十九里浜より上陸し帝都に攻め入るというもので、これに対して日本軍も「本土決戦作戦」を計画し、各沿岸に防衛用の抵抗拠点陣地を構築しました。

本郷台の南をはしる環状 4号は、横須賀の航空技術廠と本郷台の燃料廠を結ぶため海軍により建設された軍道で、「コロネット作戦」が展開された場合、大船方面からこの道路を使用して東京に攻め入ると予想され1945年(昭和20)の初頭より、道路に沿うようにして特別陸戦隊の陣地を構築し、迎撃出来る態勢を作りました。また、連合艦隊の司令部がおかれた日吉周辺も前哨陣地がおかれたようです。

これらの地区で陣地がどのくらい構築されたか把握出来ておらず現地調査を継続していますが銃眼を有する複数の洞窟式の陣地の残存を確認出来ています。



 海軍横須賀軍港境域

 所在
  金沢区六浦南 2

 収録遺構 (1)
  軍用地境界標 1

 実地調査
  2015年 10月




横須賀軍港境域は、横須賀市におかれた横須賀海軍鎮守府が統括した横須賀軍港の土地境界を決定するものとして1896年(明治29)に条項が設けられました。

軍港境域と定めた場所では一般人の立ち入りが厳しく制限され、その範囲を明確にするための軍港境域標が境域の境界線に設置されました。

横浜市についても、一部分が横須賀軍港境域に定められていたため、軍港境域標が設置されており、このうちの 1本が六浦三艘緑地内に移設保存されています。

 横須賀海軍軍需部
 池子火薬倉庫


 所在
  金沢区
  東朝比奈 2 ほか

 収録遺構 (3)
  軍用地境界標 3

 実地調査
  2015年 10月

  2015年時点の詳細をご紹介します





海軍軍需部は、兵器や燃料・物資などを全国の生産工場などから収集し、前線にこれらを補給する重要な役割を果たしていた部署で、物資を送り出すまでの間は一時的な保管が必要であり沢山の保管施設を保有していました。このうち火薬類を貯蔵する目的で池子地区に火薬倉庫が1937年(昭和12)に建設されました。

戦争末期は、防空対策の一環で周辺に地下壕が掘削されますが、目立った爆撃は受けず大量の砲弾類を抱えたまま終戦を迎えました。

池子火薬倉庫の敷地の大半は逗子市におかれていますが、一部が横浜市にも跨っており軍用地境界標が現在も残っています。



 日本カーリット
 保土ヶ谷工場


 所在
  保土ケ谷区仏向町

 収録遺構 (9)
  トンネル 8,
  その他 1

 実地調査
  2018年 6月

  2018年時点の詳細をご紹介します





日本カーリットは、爆薬を製造した民間会社で1919年(大正8)に工場が建設されました。

その後は関東大震災で被災して浅野セメントへ合併したのちに浅野カーリットとなり、太平洋戦争中は軍事工場に指定されました。

戦後は再び日本カーリットに改称し、火薬類の製造が継続されましたが群馬県渋川市に新たな工場が新設されると保土ヶ谷工場は閉鎖され、現在はたちばなの丘公園として整備されており土塁やトンネルなどの遺構が残っています。

 第二海軍航空廠
 瀬谷補給工場


 所在
  瀬谷区瀬谷町 ほか

 収録遺構 (8)
  建物 1,
  地下壕 2,
  その他 5

 実地調査
  2021年 7月


















第二航空廠は、海軍航空機の造修と補給を行う目的で木更津におかれた航空技術廠の出張所を母体に1941年(昭和16)に開設され、航空機のエンジンや機銃などの造修を行うための工場が瀬谷や平塚横須賀などに設置されました。

終戦後、瀬谷補給工場はアメリカ軍に接収され長期間にわたって通信施設に利用されましたが現在は返還されており、大半が農耕地に変遷しわずかに遺構が残っています。

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