陸軍東京湾要塞 観音崎第一砲台 (陸軍東京湾要塞 北門第一砲台)
所在 横須賀市鴨居 4
収録遺構 (9) 砲座 2, 観測所 1, 地下施設 2, トンネル 1, 軍用地境界標 3
実地調査 2005年 5月
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東京湾要塞は、東京湾への敵艦船の侵入を防ぎ帝都や横須賀軍港を防御するために構築された強力な火砲群と、これに関連する付帯施設群の集合体で、国土防衛の最重要地域に構築された12箇所の要塞の中で最も早く着工されました。
観音崎第一砲台は、東京湾要塞の中で最も早い1884年(明治17) 6月に竣工し、1894年(明治27) 6月に23口径24センチカノン砲を 2門据え付け、日本で最初の洋式砲台として日清戦争の戦備につきました。
日清戦争・日露戦争を経て大正時代に入ると、装備が旧式となってしまったため1913年(大正 2)に廃止となり、 2年後の1915年(大正 4)に 防御営造物より除籍されました。
現在、砲台跡地は神奈川県立観音崎公園として整備され、掩蔽部や弾薬庫などの地下構造物は入口部分が封鎖されて見学出来なくなっているものの、砲座や横檣トンネルなどは良好な残存状態で見学することが可能です。また、煉瓦を用いている部分は「フランス積み」と呼ばれる明治期に少しだけみられた煉瓦積み技法を確認することが出来ます。 |
陸軍東京湾要塞 観音崎第二砲台 (陸軍東京湾要塞 北門第二砲台)
所在 横須賀市鴨居 4
収録遺構 (15) 門柱 1, 砲座 4, 観測所 1, 地下施設 5, トンネル 1, その他 3
実地調査 2016年 5月
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観音崎第二砲台は東京湾要塞の 1つで、観音崎第一砲台と共に1884年(明治17) 6月に竣工し1889年(明治22)に一足早く 4門の備砲を完了しましたが、それぞれ異なる砲種を据え付けていたため、観音崎第一砲台の備砲完了に合わせ全て26口径24センチカノン砲に変更され日清戦争の防備につきました。その後、火力増強が行われて最終的に24センチカノン砲 6門となり日露戦争の戦備につきました。
この砲台は、砲座毎に 1段ずつ下っていく形の砲列であったため、「だんだん砲台」の通称をもっていましたが、1923年(大正12)9月の関東大震災で損傷したことで 2年後の1925年(大正14)に除籍されました。
現在、砲台の跡地は東京湾海上交通センターの敷地となっており 6門あった砲座のうち 3門と付属掩蔽部が建物の建設により壊されましたが 3門の砲座と砲側弾薬庫などの地下施設などが残っています。また、煉瓦を用いている部分は「フランス積み」と呼ばれる明治期に少しだけみられた煉瓦積み技法を確認することが出来るほか、砲座内弾室の壁に砲座番号と弾室番号を記載した墨書を見ることが出来ます。 |
陸軍東京湾要塞 観音崎第三砲台 (陸軍東京湾要塞 北門第四砲台)
所在 横須賀市鴨居 4
収録遺構 (10) 砲座 1, 観測所 2, 地下施設 3, 建物基礎 1, トンネル 1, その他 2
実地調査 2014年 5月
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観音崎第三砲台は東京湾要塞の 1つで、観音崎第一砲台や観音崎第二砲台と共に1884年 (明治17) 6月に竣工し、日清戦争開戦直後の1894年(明治27)に28センチ榴弾砲 4門が据え付けられ戦闘配備につき、その後の日露戦争においても防備についています。
しかし、1923年(大正12) 9月の関東大震災で観測所の掩蓋が壊れるなどの大きな被害を受け復旧されることはなく1925年(大正14)に除籍されました。
現在、砲台跡地は神奈川県立観音崎公園として整備されており、掩蔽部や弾薬庫などは入口が封鎖されています。また、関東大震災の損傷が甚大であったために、砲座や観測所の一部分も消失している状況ですが、完存している遺構もあり、見学することが可能です。
観音崎公園には多くの 砲台遺構が残っており 見ごたえがあります★
比較的、アプローチも 簡単ですので、探訪を おすすめしますっ★ | |
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陸軍東京湾要塞 観音崎第四砲台 (陸軍東京湾要塞 南門第一砲台, 陸軍東京湾要塞 観音崎砲台)
所在 横須賀市鴨居 4
収録遺構 (8) 砲座 3, 地下施設 3, 観測所 1, トンネル 1
実地調査 2016年 5月
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観音崎第四砲台は東京湾要塞の 1つで 1887年(明治20)に竣工し24センチ臼砲を 4門据え付け日清戦争の戦備につきました。
日清戦争が終結した後の1901年(明治34)には24センチ臼砲を廃止して砲床工事を行った後に戦利品の35口径15センチカノン砲 4門編成に変更され日露戦争の戦備につきました。この時据付けられたカノン砲はドイツのクルップ社が製造したもので、射程は14キロもあったため、当時は最優秀な火砲であったようです。
大正に入って関東大震災が発生すると、甚大な被害を受けてしまい、各砲床部分が傾斜したりコンクリートに大亀裂が生じたりしましたが、東京湾要塞復旧建設要領に基づいて復旧工事を行ったことで、アジア・太平洋戦争の終戦まで存続しました。また、昭和に入り観音崎第一・第二・第三の各砲台が除籍されたことで付番の必要がなくなり、「観音崎砲台」に名称が変更されました。
終戦後、敷地はアメリカ軍に接収されたものの返還されて海上自衛隊が敷地を引き継ぎ観音崎警備所を建設時に一部の遺構が壊されましたが現在も大部分が残っています。 |
陸軍東京湾要塞 観音崎水中聴測所
所在 横須賀市鴨居 4
収録遺構 (8) 建物 2, 地下施設 4, その他 2
実地調査 2014年 6月
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観音崎水中聴測所は、周辺を潜航する潜水艦を捕捉することを目的として1937年(昭和12)に設置されました。
ここでは、観音崎先端のケーソンに発受信機を懸吊してケーブルを聴測室まで引き込み、潜航する潜水艦を海中の音で確認していました。
終戦後、敷地はアメリカ軍に接収されたものの返還されて海上自衛隊が敷地を引き継ぎ観音崎警備所の施設に活用されましたが 2013年(平成25)に用地が海上自衛隊の管轄ではなくなった ため、現在も残る遺構の動向が注目されます。 |
陸軍東京湾要塞 南門砲台
所在 横須賀市鴨居 4
収録遺構 (6) 砲座 2, 建物 1, 地下施設 1, その他 2
実地調査 2016年 5月
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南門砲台は東京湾要塞の 1つで、1893年(明治26)に竣工し、12センチ速射カノン砲を 4門と 9センチ速射カノン砲を 4門備砲し戦闘配備につきましたが、大正に入り関東大震災で被災しその後は復旧されず1925年(大正14)に除籍となりました。
現在、砲台跡地は観音崎自然博物館や、観音崎公園の展望園地として整備されており、遺構はほとんど残っていませんが 2つの砲座と水尺と思われる遺構などを見ることが出来ます。
2014年(平成26)には、28センチ榴弾砲の木製レプリカが砲座に設置されましたが、2016年(平成28)に撤去されてしまったようです。 |
陸軍東京湾要塞 三軒家砲台
所在 横須賀市鴨居 4
収録遺構 (21) 門柱 1, 砲座 6, 観測所 1, 地下施設 6, 軍用地境界標 2, その他 5
実地調査 2014年 5月
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三軒家砲台は東京湾要塞の 1つで 1895年(明治28)12月に竣工し、翌年に27センチカノン砲を 4門と、12センチ速射カノン砲を 2門据付けて日露戦争の戦備につきました。
大正に入り、関東大震災が発生すると砲座の前面部分にあたる胸檣が地すべりを起こし崩落したり、司令所や観測所が崩壊したり、甚大な被害を出してしまいましたが、東京湾要塞復旧建設要領に基づいて復旧工事を行ったことで、1927年(昭和 2) 7月に復旧しました。復旧の際照明所も新たに設け探照灯も配備されましたが1934年(昭和 9) 8月に除籍となりました。
現在、砲台跡地は神奈川県立観音崎公園として整備されており、掩蔽部や弾薬庫などは入口が封鎖されていますが、砲座をはじめ、観測所や井戸なども良好な状態で残存しており、見学が可能です。
| | 三軒家砲台の遺構は、 観音崎公園内で一番の 残存数となりますっ★
美術館の裏から延びる 散策路を進んで行けば 到着も早いですっ★ |
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陸軍東京湾要塞 観音崎弾薬本庫
所在 横須賀市鴨居 4
収録遺構 (7) 建物 3, 地下施設 2, その他 2
実地調査 2016年 5月
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観音崎弾薬本庫は、観音崎地区の各砲台で使用する砲弾類を一元管理する目的で1884年(明治17)に建設が開始され1885年(明治18)に観音崎第二砲台のトンネル内に日本で最初となる煉瓦造りの洞窟式弾薬庫が完成しました。その後、日清戦争で各砲台が配備についたことから繋船場所の近くに煉瓦造り平屋構造の弾薬庫を建設しました。
現在、洞窟式弾薬庫は東京湾海上交通センター敷地内に残存しており、入口部分が封鎖されています。一方で平屋構造の弾薬庫は、最近まで観音崎青少年の村の施設に使われていましたが閉鎖され観音崎公園のパークセンターの建物に引き続き活用されています。 |
陸軍東京湾要塞 大浦堡塁
所在 横須賀市鴨居 4
収録遺構 (1) 砲座 1
実地調査 2005年 5月
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大浦堡塁は東京湾要塞の 1つで、海方向を向く観音崎海岸の砲台群の背面部を防備する目的で1896年(明治29) 5月に竣工し車両式 9センチカノン砲が 2門据え付けられました。
日露戦争を経て大正時代に入ると装備が旧式であったため1913年(大正 2)に廃止され1925年(大正14)に防御営造物より除籍されました。
現在、砲台跡地は神奈川県立観音崎公園として整備され戦没船員の碑がおかれた広場になっているため、ほとんどの遺構は消失していますがわずかに砲座の一部が残っています。 |
陸軍東京湾要塞 腰越堡塁砲台
所在 横須賀市鴨居 3
収録遺構 (5) 砲座 1, 地下施設 2, その他 2
実地調査 2014年 5月
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腰越堡塁砲台は東京湾要塞の 1つで、海方向を向いた観音崎海岸の砲台群の背面部を防備する目的で1894年(明治27)に設置されました。
設置当初は背面防備を目的とする堡塁としての役割を担っていましたが、日清戦争の終戦後に堡塁砲台へ改造し1897年(明治30)に 9センチカノン砲を 2門据え付けて防備につきました。日露戦争を経て大正時代に入ると装備が旧式であったため1925年(大正14)に防御営造物より除籍されました。
現在、「うみの子とりで」という広場になっていますが、当時の遺構群が現存しています。
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陸軍東京湾要塞 花立台堡塁砲台
所在 横須賀市鴨居 3
収録遺構 (11) 砲座 1, 観測所 1, 地下施設 7, 軍用地境界標 1, その他 1
実地調査 2015年 12月
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| | この砲台は、隣接する 小原台堡塁砲台と共に 日本で最初となる洋式 堡塁砲台として名高い ですよっ★ |
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花立台堡塁砲台は東京湾要塞の 1つで 1894年(明治27)12月に竣工し、日露戦争の開戦までに28センチ榴弾砲 8門を中心として、12センチ速射カノン砲が 4門・9センチ速射カノン砲が 4門・15センチ臼砲が 4門据え付けられる強力防備体制でしたが戦中は28センチ榴弾砲のみが配備につき、他は他方に転用されたようです。
大正に入って関東大震災が発生すると、甚大な被害を受け、復旧されることなく 1925年(大正14)に除籍されました。
ちなみに、この砲台の敷地は東西 350メートル南北 250メートルに及ぶ広大なもので、設計は後に陸軍大臣・教育総監・参謀総長の三長官を歴任した、後の元帥・上原勇作工兵大尉です★
現在、跡地は防衛大学校のグラウンドに変遷し整地されていますが観測所や地下施設の一部が残っています。 |
陸軍東京湾要塞 花立台砲台 (陸軍重砲兵学校 花立台演習砲台)
所在 横須賀市鴨居 3
収録遺構 (3) 門柱 1, 砲座 1, 観測所 1
実地調査 2006年 4月
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花立台砲台は、東京湾要塞で最後に設置された砲台で1935年(昭和10) 6月に竣工し15センチカノン砲が 4門据付けられました。
この翌年である1936年(昭和11)には要塞砲兵部隊の幹部養成所である陸軍重砲兵学校へ貸与され、要塞砲の実射教育に使われました。またその際に15センチカノン砲が 1門追加配備され演習砲台としての役割を果たしました。
戦後、砲台跡地は防衛大学校に引き継がれ施設建設時に整地のため一部が破壊されていますが砲座や観測所などの遺構が現存しています。 |
陸軍東京湾要塞 走水低砲台 (陸軍重砲兵学校 走水演習砲台)
所在 横須賀市走水 2
収録遺構 (17) 砲座 8, 観測所 1, 地下施設 3, 建物基礎 1, 軍用地境界標 1, その他 3
実地調査 2021年 3月
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走水低砲台は、浦賀水道の海面防備と観音崎・猿島の砲台群の側防を目的として 1886年(明治19)に竣工し 27センチカノン砲を 4門据え付け戦闘配備につきました。
大正時代に入り関東大震災が発生すると甚大な被害を出し復旧工事を受けますが、旧式のため1934年(昭和 9)に除籍となり、その後は重砲兵学校の演習砲台として、廃止された南門砲台の 9センチ速射カノン砲を移し、終戦まで機能が存続しました。
戦後、長い期間にわたり放置されていましたが横須賀市の要塞が日本遺産に認定されたことで見学出来るようになりました。 |
陸軍東京湾要塞地帯
所在 横須賀市 走水 1 ほか
収録遺構 (7) 軍用地境界標 7
実地調査 2014年 6月
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東京湾要塞は、日本の本土におかれた12箇所の永久要塞のうちの 1つで、1895年(明治28)の要塞司令部条例によって、永久的な防御工事を施している場所は「要塞」とされ、海軍の場合砲台や軍港が「要塞地帯」とされました。またこれに伴う法律も公布されており、軍事機密の保持のため、要塞地帯に指定された区域内での測量や撮影・スケッチ・土木工事などは、要塞司令部の許可がないと出来ませんでした。また要塞の防御営造物より 250間(約455メートル)以内を特に「要塞地帯第一区」として一般人の立入りが禁止され、衛兵が守備していました。さらに、その距離に応じ「第二区」・「第三区(区域)」が設定され、これらを明確にするためその境界部に要塞地帯標が設置されました。
要塞地帯を定義する法律は数度にわたって改正されましたが、最終的に防御営造物から 1,000メートル以内を第一区・ 5,000メートル以内を第二区・15,000メートル以内を第三区(区域)と当初よりも大幅に拡大されました。
横須賀については砲台からの距離に応じた要塞地帯標が数多く現存しており、見学出来ますがほとんどが地中に埋まった状態であるうえに、風化が著しく文字等の判読が困難な状況です。 |
陸軍東京湾要塞 観音崎軍道
所在 横須賀市馬堀町 3 ↓ 横須賀市鴨居 4
収録遺構 (37) 軍用地境界標 35, その他 2
実地調査 2015年 12月 (継続調査中) |
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観音崎軍道は、観音崎におかれていた砲台群へ砲弾や資材を輸送するために設置された軍用の道路です。
設置時期や具体的な区間は判っていませんが、その名残として軍用地境界標が、馬堀地区から観音崎公園にかけて広く残存しています。
現在、軍道の大半が道路や観音崎公園の園路に活用されていますが、軍用地境界標のほかにも迫力ある切り通しを見ることが出来ます。 |
海軍横須賀軍港境域
所在 横須賀市鷹取 2 ほか
収録遺構 (1) 軍用地境界標 1
実地調査 2023年 1月 (継続調査中)
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横須賀軍港境域は、横須賀市におかれた横須賀海軍鎮守府が統括した横須賀軍港の土地境界を決定するものとして1896年(明治29)に条項が設けられました。
軍港境域と定めた場所では一般人の立ち入りが厳しく制限され、その範囲を明確にするための軍港境域標が境域の境界線に設置されました。
横須賀市についても、広大な範囲が軍港境域に定められており現在も探訪を継続していますが1本の残存を確認しています。 |
横須賀海軍鎮守府 鴨居洞窟砲台
所在 横須賀市鴨居 3
収録遺構 (1) 地下壕 1 |
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鴨居洞窟砲台は、アジア・太平洋戦争の末期にアメリカ軍が計画をした「コロネット作戦」と呼ぶ日本本土上陸作戦に備えるため、日本軍が策定した水際決戦の一環で構築された洞窟式の海面砲台で15センチカノン砲が 1門据付けられました。
現在、擁壁工事により大半が消失していますが砲室の上部にあたるコンクリート壁をわずかに見ることが出来ます。
左の写真は重鎮として名高いOKN先生より提供いただきました。ありがとうございますっ♪ |
横須賀海軍工廠 鴨居倉庫
所在 横須賀市鴨居 3
収録遺構 (3) 門柱 1, 地下壕 2
実地調査 2022年 7月 (継続調査中) |
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鴨居倉庫は、横須賀海軍工廠の内部で使用する部品の材料や物資などの保管を目的として設置されました。
現在、敷地は市立鴨居小・中学校となっておりほとんど面影がない状態ですが、当時の正門と思われる門柱や、倉庫として使われた地下壕が周辺に残っています。 |
海軍横須賀造船所 専用水道 (横須賀海軍水道路 走水系統)
所在 横須賀市 走水 1 ほか
収録遺構 (15) 建物 4, 軍用地境界標 7, トンネル 2, その他 2
実地調査 2014年 6月
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横須賀造船所の専用水道は、横須賀海軍工廠の前身である横須賀造船所の規模拡張によって、大量の水が必要となり、これを補うため南東の走水の水源地より造船所の内部へ水を引き込む目的で建設された水道路で、明治時代のお雇い外国人の 1人であるフランスのベルニー技師の手によって1876年(明治 9)に完成しました。
1884年(明治17)の海軍条例により横須賀海軍鎮守府が設置されると横須賀造船所は鎮守府の管轄となり、横須賀海軍工廠と改称されますがその後も海軍力の増強が推し進められたことで走水の水道路だけでは水を賄うことが出来なくなり、遠く離れた中津川より水を引き込むため1918年(大正 7)に半原系統を新たに建設して、 2系統となりますが、昭和時代に入るとさらに水需要は増加をたどり、相模川からの水を引く有馬系統も計画されましたが、完成せず終戦となりました。
現在、これらの水道路は横須賀市水道局に引き継がれており一部は使用されています。また、当時の遺構も残っており、一部の施設は近代化遺産として保存されています。 |
横須賀海軍工廠 造兵部 鳥ヶ崎大砲発射場
所在 横須賀市鴨居 2
収録遺構 (8) 軍用地境界塀 1, 地下壕 1, その他 5 門柱(消失) 1
実地調査 2022年 7月
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鳥ヶ崎大砲発射場は横須賀海軍工廠の造兵部で製造・修理された艦船の大砲に対し検査試射を
移転する形で設置されました。
ここでは大砲を射座に据付けて、トンネル状の射朶へ実際に射ち込みチェックしていました。
現在、敷地は海上保安庁官舎となっていますが当時の遺構がいくつか残っています。 |
横須賀海軍航空隊
所在 横須賀市 夏島町 ほか
収録遺構 (14) 建物 2, 建物基礎 2, 地下壕 7, その他 3
実地調査 2014年 5月
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横須賀海軍航空隊は、海軍最初の航空隊として1916年(大正 5)に開設されました。第一次世界大戦以降、世界では飛行機が兵器として活躍を始めたことを受けて、海軍も航空兵力の増強を目指す第一歩として設置した背景があります。航空隊が使用する飛行場の建設にあたり、追浜一帯の海面を埋め立てたため、孤島だったのに陸続きとなってしまった箇所もあります。
昭和に入ると航空兵力の拡大が本格化し、少年航空兵の起用が始まります。1930年(昭和 5)、起用された少年航空兵の教育養成機関として、航空隊内に予科練部が設置され、少年兵に対し操縦や偵察などの教育が施されました。また、航空隊の隣に横須賀海軍航空廠が設立されると連携を取るようになって、試作された航空機の飛行試験は追浜飛行場の滑走路を使い実施されました。また、アジア・太平洋戦争の末期は、アメリカ軍が計画した上陸作戦に備え相模湾に近い長井地区に飛行場が新たに建設され、特攻部隊の拠点となりましたが、ほとんど使われず終戦となりました。
現在、航空隊の跡地は日産自動車の工場や長井海の手公園などになって整地されていますが、地下壕を中心とする遺構が残存しています。 |
横須賀海軍航空廠 (海軍航空技術廠, 第一海軍技術廠)
所在 横須賀市 浦郷町 5 ほか
収録遺構 (57) 建物 16, 門柱 1, 軍用地境界塀 2, 軍用地境界標 1, 地下施設 6, 地下壕 16, その他 12 建物(消失) 2, その他(消失) 1
実地調査 2018年 12月
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横須賀海軍航空廠は、航空機の設計・実験や、機材の研究・調査などを行う機関で、それまでおかれていた海軍技術研究所の航空研究部門と横須賀海軍工廠の造兵部飛行機工場を統合させ1932年(昭和 7)に設置されました。
設置当初は、総務部・科学部・飛行機部・飛行実験部・兵器部・発動機部を中心とする部門が設置されていましたが、のちに材料部や電気部などの部門も創設され、航空機の研究・試作・実験を行う機関として日本最大の設備と陣容を誇り、主な航空機として「彗星」や「銀河」はここで試作して実用化に漕ぎついています。
1940年(昭和15)に入ると組織の変更が行われ海軍航空技術廠と改称して施設の拡大が行われましたが、用地が手狭になったことから翌年の1941年(昭和16)に部門の一部を横浜へ移して支廠を新たに開設し、1945年(昭和20) 2月の改編によって第一海軍技術廠に改称され、終戦直前には「桜花」や「秋水」などの特攻兵器の設計や実験が行われました。
現在、敷地は民間企業に払い下げられており、岡村製作所や関東自動車工業・東邦化学などの工場となっていますが、当時の建物群の多くが活用されています。 |
陸軍東京湾要塞 夏島砲台
所在 横須賀市夏島町
収録遺構 (6) 砲座 2, 地下施設 4
実地調査 2007年 2月
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夏島砲台は東京湾要塞の 1つで、横須賀軍港を防御することを目的として1889年(明治22)に竣工し1892年(明治25)に24センチ臼砲を 6門据え付けて日清戦争の戦備につきました。
日清戦争が終結した後の1901年(明治34)には24センチ臼砲を 4門追加配備し 一時は10門となりましたが、日露戦争で戦地が砲不足となり全門を撤去して追送され1913年(大正 2)に廃止されました。廃止後、敷地は海軍へ移管されて横須賀海軍航空隊の敷地となりました。
戦後、敷地は夏島貝塚として保存されており、遺構の一部が現存しています。 |
陸軍東京湾要塞 夏島電灯所
所在 横須賀市夏島町
収録遺構 (3) その他 3
実地調査 2007年 2月
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夏島電灯所は東京湾要塞の 1つで、夏島砲台の付属施設として設置され夏島の東側に探照灯や電灯機関舎(発電機室)などがおかれました。
戦後、敷地は夏島貝塚として保存されており、手付かずの状態となっていますが、大正時代に発生した関東大震災で損壊しているため一部の痕跡しか判らない状況です。 |
横須賀海軍警備隊 第一高射機銃大隊 夏島防空砲台
所在 横須賀市夏島町
収録遺構 (7) 砲座 1, 建物基礎 1, 地下壕 2, その他 3
実地調査 2007年 2月
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夏島全体に、複数部門の 施設が構築されてるので 小さな山とはいえ、絶対 1日だけで巡れません!
恐るべし、夏島ですっ★ | |
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夏島防空砲台は、横須賀軍港を統括した横須賀海軍鎮守府の隷下におかれ、軍港周辺に対する防衛任務についた横須賀海軍警備隊が守備した防空砲台で横須賀海軍航空隊と海軍航空技術廠などの重要施設を防衛することを目的として、1944年(昭和19)に建設されました。
ここには、同隊の傘下におかれた第一高射機銃大隊下の兵員が配置され25ミリ連装機銃を 2基据え付けて防備にあたりました。
現在、敷地は夏島貝塚として保存されており、手付かずの状態となっているため当時の遺構が残っています。
ちなみに、夏島は縄文時代の貝塚だけでなく、伊藤博文の別荘地であったことでも有名でありここで大日本帝国憲法の草稿が作られました。いずれも案内板が立てられていますが、一緒に是非見学していってくださいっ★ |
追浜官修墓地 (追浜海軍墓地)
所在 横須賀市浦郷町 3
収録遺構 (3) 墓標様 1, 軍用地境界標 2
実地調査 2014年 3月
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追浜官修墓地は1877年(明治10)の西南戦争で戦病死した明治政府軍の兵士のうち遺族不明で遺骨の引き取りがなかった48名を埋葬するため設置されました。
当初、墓標は現在の浦郷町 5丁目先の深浦湾に面した土地におかれていましたが、海軍用地となったために現在の土地へ移しました。
官修墓地には、墓標様のほかにも現在の土地へ移すためにこの地を海軍が買収したことを示す軍用地境界標が 2つ残っています。 |
横須賀海軍警備隊 第一高射機銃大隊 船越山防空砲台
所在 横須賀市船越町 1
収録遺構 (1) 地下施設 1
実地調査 2006年 5月
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船越山防空砲台は横須賀軍港を統括した横須賀海軍鎮守府の隷下におかれ、軍港周辺に対する防衛任務についた横須賀海軍警備隊が守備する防空砲台として造兵部を防衛することを目的に1944年(昭和19)に建設されました。
ここには、同隊の傘下におかれた第一高射機銃大隊の兵員を配置し、25ミリ連装機銃が 2基と25ミリ単装機銃が 1基据付けられました。
砲の具体的な設置場所は明確ではありませんが景徳寺裏山の山頂に防空監視所と思われる全面コンクリート製の遺構が残っています。 |
横須賀海軍工廠 長浦職工共済会病院 (横須賀海軍共済病院 長浦分院)
所在 横須賀市船越町 1
収録遺構 (7) 門柱 1, 軍用地境界標 1 建物(消失) 2, その他(消失) 3
実地調査 2014年 5月
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| 病棟や付属建物をはじめ 水道関係の遺構が院内に 残っていましたが、全て 壊されてしまいました▲ |
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長浦職工共済会病院は、横須賀海軍工廠に従事する職工と、その家族を診療するための病院で田戸台におかれた職工共済会医院の分院として1915年(大正 4)に開院しました。
1918年(大正 7)に入ると 職工共済会から海軍共済会に母体が変更されたことによって、海軍共済組合横須賀病院長浦分院に改称されますがその後も母体の変遷によって数度の改称を経て1943年(昭和18)に横須賀海軍共済病院の長浦分院となり終戦まで存続しました。
病院の敷地は横須賀共済病院分院として数棟の当時の建物が活用されていましたが残念ながら2015年(平成27)をもち閉院し病院内の遺構は全て壊されてしまい現在は敷地外周におかれた遺構が残るのみとなっています。 |
横須賀海軍警備隊 第一高角砲大隊 田浦防空砲台
所在 横須賀市田浦町 4
収録遺構 (5) 地下施設 3, その他 2
実地調査 2007年 1月
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田浦防空砲台は、軍港周辺の防衛を目的として1944年(昭和19)に建設されました。
ここには、10センチ連装高角砲 2基と13ミリ連装機銃 3基・25ミリ連装機銃 1基・25ミリ単装機銃 1基が据え付けられ、この他にも三式陸用高射器や、九六式 110センチ探照灯などがおかれました。
戦後、アメリカ軍によって爆破処理され畑地になったため、現在は面影がなくなっていますが遺構がわずかに残っています。また、畑地より出土した砲に関係する部品が地主さんの厚意でそのままの状態になっています。 |
横須賀海軍軍需部 (横須賀海軍軍需部 田ノ浦倉庫)
所在 横須賀市 長浦町 1 ほか
収録遺構 (15) 建物 3, 門柱 1, 軍用地境界塀 2, 地下施設 1, 軍用地境界標 1, 地下壕 2, その他 5
実地調査 2014年 8月
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軍需部は、兵器や燃料・物資などを全国の生産工場などから収集し、前線にこれらを補給する重要な役割を果たしていた部署で 1923年(大正12)に設置されました。当初は、現在の汐入町 1丁目に庁舎がおかれましたが、敷地が手狭になったことから、現在の長浦町 1丁目の海岸を埋め立てて移転し本部がおかれました。また、物資を送り出すまでの期間は、一時的な保管がともなうため、本部に隣接して保管倉庫も設置されました。
ここには、被服や糧食などの物資類を収納するための倉庫が24棟と付属建物が32棟設置されアジア・太平洋戦争末期は、空襲による被害を防止するために背面の山にも保管用の地下壕が掘削されましたが、大きな空襲は受けず終戦となりました。
戦後、敷地はアメリカ軍に接収されましたが、すぐに返還されて現在はベイスターズ練習場や海上自衛隊の敷地となっており、当時の建物はほとんど消失しているものの周辺に構築された地下施設を中心とする遺構が残っています。
なお、軍需部の倉庫は長浦や比与宇・久里浜・日向・池子などにもおかれており当時の遺構を見学することが出来ますっ★ |
横須賀海軍軍需部 田ノ浦倉庫 軍用線
所在 横須賀市田浦港町
収録遺構 (3) トンネル 1, その他(消失) 2
実地調査 2021年 12月
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田ノ浦軍用線は軍需部への物資搬入や保管品の搬出を横須賀線を経由して行う目的で敷設され田浦駅から山を回りこむ形で北東へ進路を変えいくつかのポイントを介して田ノ浦倉庫へ接続していました。また、田ノ浦倉庫までの間にも造兵部の火工工場や、第二海軍航空廠の横須賀補給工場も設置されており、これらの専用線を兼ねていたものと思われます。
終戦後、軍用線は米軍に接収されて燃料輸送の専用線として使用されましたが、現在は廃線となっており線路をはじめトンネルなどの遺構が現存しています。 |
横須賀海軍警備隊 第一高射機銃大隊 軍需部山防空砲台
所在 横須賀市長浦町 1
収録遺構 (5) 砲座 2, 地下壕 2, その他 1
実地調査 2021年 12月
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軍需部山防空砲台は、横須賀の軍港を統括した横須賀海軍鎮守府の隷下におかれ、軍港周辺の防衛任務についた横須賀海軍警備隊が守備する防空砲台として軍需部を防衛することを目的に1944年(昭和19)に建設されました。
ここには、同隊の傘下におかれた第一高射機銃大隊の兵員が配置され、25ミリ連装機銃が 2基据え付けられました。
現在は、山林内に遺構が放置されているため、土砂に埋もれているものの、砲座の掩体部分と思われる土塁や、斜面にその弾薬庫と思われる地下壕が残っています。 |
横須賀海軍軍需部 比与宇倉庫
所在 横須賀市田浦港町
収録遺構 (3) 建物 3
実地調査 2006年 5月
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軍需部は、兵器や燃料・物資などを全国の生産工場などから収集し、前線にこれらを補給する重要な役割を果たしていた部署で、物資を送り出すまでの間は一時的な保管が必要であるため沢山の保管倉庫が建設されました。このうち、比与宇倉庫は弾薬類を保管する目的で設置され誘爆しないように土塁で囲まれた火薬庫と付属施設がおかれました。
戦後、敷地はアメリカ軍に接収されましたが、現在は返還され海上自衛隊がそのまま使用しており、建物や地下壕が現存しています。 |
横須賀海軍軍需部 比与宇倉庫 軍用線
所在 横須賀市田浦港町
収録遺構 (1) その他 1
実地調査 2021年 12月
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比与宇軍用線は軍需部への物資搬入や保管品の搬出を横須賀線を経由して行う目的で敷設され田浦駅から山を回りこむように北向きへ進路を変えながら比与宇倉庫に繋がっていました。
終戦後、軍用線は米軍に接収されて燃料輸送の専用線として使用されましたが、現在は廃線となっており、線路が現存しています。
特に、長浦倉庫の軍用線と平面交差する部分は地方の路面電車を除くと普段は見れない貴重なもので、鉄道マニアも写真を撮りに訪れているようですよっ★ |
横須賀海軍軍需部 長浦倉庫
所在 横須賀市 田浦港町 ほか
収録遺構 (19) 建物 11, 軍用地境界標 6, 地下壕 2
実地調査 2021年 12月
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軍需部は、兵器や燃料・物資などを全国の生産工場などから収集し、前線にこれらを補給する重要な役割を果たしていた部署で1923年(大正12)に設置されました。当初は、現在の汐入町 1丁目に庁舎がおかれましたが、敷地が手狭になったことから、現在の長浦町 1丁目の海岸を埋め立てて移転し本部がおかれました。また、物資を送り出すまでの期間は、一時的な保管がともなうため、横須賀線を使用した輸送ネットワークが簡単に確立出来る田浦駅付近に倉庫を設置しました。
ここには、水雷・機雷・砲銃・光学・航海系の各兵器類を収納するための倉庫が13棟と、付属建物が10棟設置されアジア・太平洋戦争末期は空襲による被害を防止するために背面の山にも保管用の地下壕が掘削されましたが、目立った空襲は受けずに終戦となりました。
戦後、敷地はアメリカ軍に接収されましたが、すぐに返還されて、現在は民間企業や自衛隊の敷地となっており、地下壕や当時の倉庫が現存しています。
なお、保管倉庫は長浦の他に比与宇や久里浜・日向・池子などにもおかれており当時の遺構を見ることが出来ますっ★ |
横須賀海軍軍需部 長浦倉庫 軍用線
所在 横須賀市田浦町 1 ↓ 横須賀市田浦港町
収録遺構 (7) トンネル 1, 橋梁 1, その他 2 橋梁(消失) 1, その他(消失) 2
実地調査 2021年 12月
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軍用線の線路は広範囲に 残存しているので探訪を お勧めしますよっ★ | |
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長浦軍用線は、軍需部への物資搬入や保管品の搬出を横須賀線を経由して行う目的で敷設され田浦駅から山を回りこむように北向きへ進路を変え、いくつかのポイントを介して長浦倉庫に繋がっていました。また、長浦倉庫までの間に造兵部の火工工場や、第二海軍航空廠の横須賀補給工場も設置されており、これらの専用線を兼ねていたものと思われます。
終戦後、軍用線は米軍に接収されて燃料輸送の専用線として使用されましたが、現在は廃線となっており、線路をはじめ橋梁やトンネルなど多くの遺構が現存しています。
ちなみに、かつて軍需部や各工場へ通う人々で賑わった横須賀線の田浦駅も、今は 1日の乗降客数が 3,000人にも満たない秘境のような駅で周辺駅とは違う独特の雰囲気があります。探索ついでに併せて見て行ってくださいっ★ |
第二海軍航空廠 横須賀補給工場
所在 横須賀市田浦港町
収録遺構 (28) 橋梁 1, 建物 5, 建物基礎 1, 地下壕 1, その他 14 建物(消失) 5, 地下壕(消失) 1
実地調査 2021年 12月
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第二海軍航空廠は、海軍航空機の造修と補給を行うことを目的に、海軍航空技術廠の出張所を母体として、1941年(昭和16)に現在の木更津市内に開設し、兵器部と発動機部・飛行機部・補給部が設置され、航空に関する兵器や材料の造修や供給に携わりました。このほか、鈴鹿や硫黄島に分工場と、横須賀や平塚・館山・香取などに補給工場がおかれ、一時期は日本最大の修理工場として機能したといわれています。
その中で横須賀補給工場は、発動機やプロペラなどの部品や、兵器などの造修と補給を行っており、敷地内にはこれらを格納するための大型倉庫が並んでいました。また、アジア・太平洋戦争末期は、空襲による被害を防止するため、背面の山に保管用の地下壕も掘削されました。
戦後、これらの倉庫群は民間企業に譲渡され、多くの倉庫が活用されていましたが、南東側は海上自衛隊の施設整理統合にともなう候補地となってしまい、地下壕の入口は擁壁に埋もれて建物も壊されてしまいました。また、北側にも大型倉庫が残り、近年まで相模運輸倉庫で活用されていましたが、火災によって 2棟が焼失し 1棟のみとなっています。このほか、消火栓や止水栓の蓋・大型クレーン跡などが残ります。 |
横須賀海軍軍需部 日向倉庫
所在 横須賀市浦郷町 1
収録遺構 (18) 軍用地境界塀 2, 軍用地境界標 14, 地下壕 2
実地調査 2014年 8月
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軍需部は、兵器や燃料・物資などを全国の生産工場などから収集し、前線にこれらを補給する重要な役割を果たしていた部署で、物資を送り出すまでの間は一時的な保管が必要であるため沢山の保管倉庫が建設されました。このうち、日向倉庫は重油などの燃料類を保管する目的で設置され、貯蔵庫と付属施設がおかれました。
戦後、敷地はアメリカ軍に接収されて、現在は一部が返還されましたが、ほとんどは引き続きアメリカ軍の倉庫に使用されています。また、敷地周辺には軍用地境界標や地下壕が現存しています。 |
横須賀海軍兵器廠 (横須賀海軍工廠 造兵部)
所在 横須賀市 船越町 1 ほか
収録遺構 (46) 門柱 3, 建物 13, 地下施設 5, 地下壕 4, 軍用地境界塀 2, 軍用地境界標 4, 橋梁 1, その他 8 建物(消失) 6
実地調査 2014年 11月
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横須賀海軍兵器廠は、軍艦に搭載する兵器類の造修を目的として、前身の水雷営と武庫を統合させた形で1886年(明治19)に開設され1903年(明治36)の組織改編によって横須賀海軍工廠の内部部門に編入され造兵部となりました。
ここには、中央庁舎の他に兵器類の造修を行う水雷工場・機雷工場・砲熕工場などが設置され 1万人近くの工員が作業に従事しました。
昭和時代に入ると、航空機に関係する兵器類も生産するようになり機銃工場・光学工場・無線工場などが設置されましたが、さらなる増産を迫られて鎌倉にも分工場が開設されます。また戦争の拡大にあわせて工員が急増し逗子に工員宿舎が建設され、最盛期で 3万人以上が作業に従事していました。アジア・太平洋戦争末期は防空対策の一環で敷地背面の山の他に、逗子や鎌倉にも地下壕が掘削され、一部は実際に操業しましたが終戦となりました。
現在、敷地跡は東芝ライテックをはじめとする工場地帯となっていますが、当時の建物が多く残っており、見学することが可能です。また、地下壕も見学が難しくなっているものの良好な状態で残存しています。 |
横須賀海軍工廠 光学実験部
所在 横須賀市船越町 7
収録遺構 (1) 建物 1
実地調査 2014年 3月
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光学実験部は、軍艦や潜水艦などで使用された測距儀や潜望鏡・双眼望遠鏡などの光学兵器を取り扱う横須賀海軍工廠の内部部門で、船越の造兵部の光学工場を母体として 1935年(昭和10)に開設されました。
ここでは、光学兵器の試作や修理・製造などが行われており戦争末期は防空対策により逗子に疎開用の地下壕が構築され、光学兵器の生産を行う地下工場として稼動したそうです。
現在、跡地は海上自衛隊船越庁舎となっており多くの建物が消失していますが光学工場として使われた建物が残っています。 |
海軍東京湾要塞地帯
所在 横須賀市 船越町 7 ほか
収録遺構 (9) 軍用地境界標 7 軍用地境界標 2
実地調査 2014年 3月 |
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東京湾要塞は、日本の本土におかれていた永久要塞のうちの 1つで、1895年(明治28)の要塞司令部条例により、永久的な防御工事を施した場所を「要塞」として、海軍では砲台や軍港が「要塞地帯」に位置づけられ、これにともなう法律も公布されており、軍事機密の保持のため要塞地帯に指定された区域内での測量や撮影・スケッチ・土木工事などは要塞司令部の許可を必要としました。また、要塞の防御営造物より250間(約455メートル)以内を特に「要塞地帯第一区」として一般人の立ち入りが禁止され、衛兵が守備していました。さらに、その距離に応じ「第二区」「第三区」「区域」が設定されこれらを明確にするため、敷地の境界にあたる場所に要塞地帯標がに設置されました。
要塞地帯を定義する法律は数度にわたって改正されましたが、最終的に防御営造物から 1,000メートル以内を第一区・ 5,000メートル以内を第二区・15,000メートル以内を第三区(区域)と当初よりも大幅に拡大されました。
横須賀市については軍港がおかれていたことで要塞地帯に定められており、境界に設置された要塞地帯標が現在も残ります。
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陸軍東京湾要塞 第三海堡
所在 横須賀市無番地
収録遺構 (11) 地下施設 7, 観測所 1, トンネル 1, その他 2
実地調査 2006年 7月
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第三海堡は東京湾要塞の 1つで、観音崎に建設された各砲台群と対岸の富津に建設された元洲堡塁砲台の射界では完全に東京湾を閉塞出来ず補うために建設された人工島嶼で1892年(明治25)に建設が開始されました。
当時の海堡は、外周枠となる部分に石を捨て、その内側に土砂を捨てていき海底から立ち上る構築方法が採られましたが、この海域は水深が60メートルと深いために工事が難航し着工から30年近く経った1921年(大正10)に 15センチカノン砲を 4門と、10センチカノン砲を 8門の備砲が完了しましたが、その 2年後に発生した関東大震災により倒壊・浸水し、復旧が困難であったことから、放置されたまま1925年(大正14)に除籍されました。
除籍後、最近に至るまで放置が続きましたが、暗礁化が著しく東京湾を航行する船舶の大きな障害となってしまったことから、2000年(平成12) より国土交通省の主導で撤去され、工事の過程で海底より引き上げられた一部の構造物を追浜のアイクル周辺と平成町のうみかぜ公園で2006年(平成18)に展示されました。その後、一部の構造物が廃棄されましたが、現在も保存されている構造物もあり外観を見学することが出来ます。 |
横須賀海軍港務部
所在 横須賀市西逸見町 1
収録遺構 (8) 門柱 1, 軍用地境界塀 1, 地下壕 4, その他 2
実地調査 2017年 4月
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港務部は軍港水域内の取り締りや救難・軍港の玄関口となる上陸場の管理などを行う部門で、横須賀に軍港が設置されたことで1900年(明治33)に横須賀港務部が設置され終戦まで機能が存続しました。
終戦後、敷地は海上自衛隊横須賀地方総監部が引き継いで現在にいたりますが、当時の遺構はほとんど消失しており、わずかに逸見上陸場の衛門や地下壕などが残るのみとなっています。 |
横須賀海軍警備隊 第一高射機銃大隊 港務部山防空砲台
所在 横須賀市西逸見町 1
収録遺構 (1) 地下壕 1
実地調査 2006年 5月
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港務部山防空砲台は、横須賀の軍港を統括した横須賀海軍鎮守府の隷下におかれ、軍港周辺の防衛任務についた横須賀海軍警備隊が守備する防空砲台として港務部を防衛することを目的に1944年(昭和19)に建設されました。
ここには、同隊の傘下におかれた第一高射機銃大隊の兵員を配置し、25ミリ連装機銃が 3基と13ミリ単装機銃が 9基据え付けられました。
現在、敷地は海上自衛隊の横須賀地方総監部となっているため立ち入りが出来ませんが、背面部分の山の中腹に、関連していると考えられる地下壕が残存しています。 |
横須賀海仁会病院
所在 横須賀市緑が丘
収録遺構 (3) 建物 1, 軍用地境界塀 1 その他(消失) 1
実地調査 2021年 12月
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海仁会病院は、海軍の下士官とその家族を診療するため、各鎮守府毎に設置された病院です。
横須賀海仁会病院は横須賀海軍鎮守府に属する病院として1939年(昭和14)に開院し終戦まで存続しました。
戦後は、カトリック修道会である聖母訪問会に施設が移管され、聖ヨゼフ病院に改称して一般市民を診療する病院となり現在に至ってますが当時の病棟や水道関連の遺構が残っています。 |
横須賀海仁会集会所
所在 横須賀市本町 3
収録遺構 (2) 地下壕 2
実地調査 2005年 4月 |
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横須賀海仁会集会所は海軍の下士官や兵たちの慰労休養施設で、1902年(明治35)に開設されここには、食堂や売店・浴室などのほかに宿泊施設や劇場などが設けられ多くの下士官や兵とその家族で賑わいをみせたそうです。
大正時代に入ると関東大震災で被災したために改築されたものの、昭和時代に入ると老朽化で新しく建て替えられて終戦まで存続しました。
終戦後はアメリカ軍に接収され下士官クラブとなりましたが接収解除後に汐入駅前の再開発で解体され横須賀芸術劇場となりました。現在は痕跡が全くありませんが周辺に当時の防空壕が残存し、関連していたものと推測しています。
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横須賀海軍警備隊 第一高射機銃大隊 大勝利山防空砲台
所在 横須賀市大滝町 2
収録遺構 (3) 建物基礎 1, 地下壕 1, その他 1
実地調査 2006年 7月
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大勝利山防空砲台は、横須賀の軍港を統括した横須賀海軍鎮守府の隷下におかれ、軍港周辺の防衛任務についた横須賀海軍警備隊が守備する防空砲台として1944年(昭和19)に建設されたようです。
ここには、同隊の傘下におかれた第一高射機銃大隊の兵員が配置され 25ミリ連装機銃が 2基据え付けられました。
現在、大勝利山一帯は景勝地として横須賀市の案内板が建てられているものの、整備はされていないため大半が竹林となっており、その中に当時のものと考えられる遺構が残っています。 |
横須賀海軍工廠 職工共済会医院 (横須賀海軍共済組合 横須賀病院)
所在 横須賀市田戸台
収録遺構 (11) 軍用地境界標 4, その他 4 軍用地境界塀(消失) 1, 軍用地境界標(消失) 1, その他(消失) 1
実地調査 2014年 7月
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| 特定の施設名を彫った 軍用地境界標は、他で あまり見ることがない 珍しいものですっ★
是非、見てください★ |
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職工共済会病院は、横須賀海軍工廠に従事する職工と、その家族を診療するための病院として1908年(明治41)に開院しました。
大正時代に入ると職工共済会から海軍共済会に母体が変更されたことによって、海軍共済組合横須賀病院となりますが、その後に起きた関東大震災により建物などに大きな被害が出たため米が浜に新設された建物へ移転しました。
現在、跡地のほとんどが住宅地となっており、面影がない状態ですが、施設名が入った軍用地境界標や、海軍のマークが入った水道関係の蓋が現存しています。
なお、少し前までは軍用地境界塀の支柱なども一部で残っていましたが、残念ながら2014年(平成26) 7月の再訪で消失を確認しました・・
特に、特定の施設名が入った軍用地境界標は、あまり他で見ることが出来ないので、このまま残っていて欲しいと願っていますっ! |
陸軍東京湾要塞 要塞司令部
所在 横須賀市上町 2
収録遺構 (4) 軍用地境界標 4
実地調査 2007年 5月
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東京湾要塞は、東京湾への敵艦船の侵入を防ぎ帝都や横須賀軍港を防御するために構築された強力な火砲群と、これに関連する付帯施設群の集合体で、これらを掌る司令部が1895年(明治28)に設置されました。
終戦後、敷地は厚生省に移管されて国立横須賀病院となりましたが、管轄が横須賀市へと移り現在は市立うわまち病院に変遷しています。
残念ながら、当時の建物は消失していますが、司令部敷地の境界に設置された軍用地境界標がいくつか現存しています。 |
陸軍東京湾要塞 米が浜砲台 (陸軍東京湾要塞 要塞砲兵第一連隊 米が浜演習砲台)
所在 横須賀市 深田台 ほか
収録遺構 (19) 砲座 1, 地下施設 3, 軍用地境界標 12, その他 3
実地調査 2020年 3月
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米が浜砲台は東京湾要塞の 1つで1890年(明治24) 年10月に竣工し 28センチ榴弾砲を 6門と24センチカノン砲が 2門据え付けられました。また、平時は要塞砲兵第一連隊が使用する演習砲台にもなっていたようです。
その後、1904年(明治37)の日露戦争では旅順要塞攻略戦での砲不足を補填するため、ここに据え付けていた榴弾砲を全て取り外して現地に送られました。
大正時代に入り廃止となりましたが、その後の関東大震災で、深田台と田戸台におかれていた演習砲台が破損したことにより、これの代替で1927年(昭和 2)に28センチ榴弾砲を据え付け演習砲台として改築し終戦まで機能しました。
現在、砲台の跡地は中央公園として整備されていますが、わずかに演習砲台の遺構が残るほか敷地の外周付近にも防御営造物境界標が残存し簡単に見学することが出来ます。
| 米が浜砲台の跡地である 中央公園の展望台からの 眺めも最高ですよっ★
是非、見てくださいね★ |
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陸軍東京湾要塞 要塞砲兵第一連隊 深田演習砲台
所在 横須賀市深田台
収録遺構 (3) 門柱 1, 観測所 1, 軍用地境界標 1
実地調査 2014年 5月
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深田演習砲台は、要塞砲兵第一連隊が使用する演習用の砲台として明治期に設置されました。
資料に乏しく、きちんと調べられていませんがここには28センチ榴弾砲が据え付けられており大正に入って関東大震災が発生すると、甚大な被害を受けたため、近接していた米が浜砲台を改修し演習砲台に転用して廃止したようです。
現在、跡地の大半が住宅地に変遷しているため面影がありませんが、当時のものと考えられる遺構が少し残っています。 |
横須賀海軍共済組合 横須賀病院 (横須賀海軍共済病院)
所在 横須賀市米が浜通 1
収録遺構 (9) 建物 1, 地下壕 1, その他 1 建物(消失) 1, 軍用地境界標(消失) 5
実地調査 2020年 3月
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横須賀病院は横須賀海軍工廠に従事する職工とその家族を診療するための病院として1923年(大正12)の関東大震災により倒壊した田戸台の病院を移転する形で1926年(大正15)に開院しその後は母体の変遷によって数度の改称を経て1943年(昭和18)の最終的な改称で横須賀共済病院となり終戦まで存続しました。
現在は国家公務員共済組合連合会の横須賀共済病院に変遷しており、少し前まで当時の病棟がいくつか残っていましたが、病棟が新設されて消失しており、第二病棟と消火栓が残るのみとなっています。 |
陸軍横浜憲兵隊 横須賀憲兵分隊 (陸軍横須賀憲兵隊)
所在 横須賀市米が浜通 2
収録遺構 (2) 軍用地境界標 2
実地調査 2014年 11月
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横須賀憲兵分隊は横須賀市に多くの軍事施設がおかれたことで若松町に設置され、昭和に入り米が浜に新築された庁舎に移ったようです。
1942年(昭和17)に公布された憲兵令の改正で隷属する横浜憲兵隊から独立し横須賀憲兵隊に昇格し、終戦まで存続しました。
現在、跡地は横須賀市中央消防署となっており面影がありませんが、わずかに軍用地境界標が残っています。 |
米が浜防空用貯油庫
所在 横須賀市米が浜通 2
収録遺構 (3) 地下壕(消失) 3
実地調査 2006年 8月
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米が浜防空用貯油庫は海軍の命令で掘削された民間の地下施設で1941年(昭和16)に工事が開始されたようです。
しかし、物資の不足によって貯蔵する油がなく一部の坑道は軍服を縫う授産所として機能し、「富士壕」「桜壕」と呼ばれていたそうです。
残念ながら、現在は擁壁工事が進捗して入口が完全に判らなくなってしまいましたが、全面がコンクリート製の坑道をはじめとした地下壕が龍本寺の崖下に残っていました。 |
横須賀陸軍衛戍病院 (横須賀陸軍病院)
所在 横須賀市 汐入町 3 ほか
収録遺構 (7) 軍用地境界標 7
実地調査 2006年 12月
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横須賀衛戍病院は東京湾要塞の防備を担当した要塞砲兵第一連隊が横須賀市に展開したことで設置された病院であり1907年(明治40)に東京陸軍予備病院横須賀分院からの組織改正により開院しました。
1936年(昭和11)に入り横須賀陸軍病院となり病棟の増設や分院も設置されましたが、太平洋戦争の終戦と同時に施設が厚生省に移管され、要塞司令部の跡地である国立横須賀病院に集約されました。
現在は、はまゆう公園に変遷し面影がない状態ですが、周辺に軍用地境界標が残っています。 |
陸軍東京湾要塞 要塞砲兵第一連隊 (陸軍東京湾要塞 横須賀重砲兵連隊, 陸軍東京湾兵団 横須賀重砲兵連隊)
所在 横須賀市坂本町 1
収録遺構 (3) 門柱 1, 軍用地境界塀 1, 軍用地境界標 1
実地調査 2014年 5月
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要塞砲兵第一連隊は、東京湾要塞の防備を行う砲兵部隊で1890年(明治23)に編成され東京湾要塞司令部に隷属し、のちに起きた日清戦争・日露戦争の戦備につきました。
1918年(大正 7)に入ると、口径が大きく威力も大きい重火器を備えた野戦重砲兵が創設されたことにともない、配下の各 2個大隊をそれぞれ再編成し野戦重砲兵第一連隊・野戦重砲兵第二連隊が創設され、それぞれ市川と三島へ移転し残りの兵員をもって横須賀重砲兵連隊へ組織の名称変更が行われ、引き続き東京湾要塞の防備任務につきました。
アジア・太平洋戦争末期は、アメリカ軍が計画した本土上陸作戦に対抗して日本軍が計画した本土決戦作戦の一環で、第一総軍配下の第十二方面軍の傘下に入った東京湾兵団の隷下となり房総半島の君津・天津小湊以南における沿岸の防備を担当したところで終戦となりました。
現在、敷地は市立桜小学校・市立坂本中学校や住宅地などに変遷していますが、門柱や軍用地境界標などがわずかに残存しており、このうち門柱は横須賀市の市民文化資産となっており、学校の正門としても活用されています。 |
陸軍東京湾要塞 要塞砲兵第一連隊 不入斗演習場
所在 横須賀市 不入斗町 1 ほか
収録遺構 (2) 軍用地境界標 1 軍用地境界標(消失) 1
実地調査 2014年 5月
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不入斗演習場は、要塞砲兵第一連隊が横須賀で編成されたことにともなって、兵営に隣接して設置されました。
大正時代に入ると日本では野球がブームとなり演習場は兵科演習の他に一般市民にも利用されその熱狂ぶりは、陸軍省の厚意で敷地の一角に野球場が設置されるほどだったそうです。
演習場は、終戦時まで存続していたようですが戦後は深刻な食糧事情を補うために農地となりその後は横須賀市の運動公園として整備されて現在にいたっています。 |
横須賀陸軍埋葬地 (横須賀陸軍墓地)
所在 横須賀市平作 7
収録遺構 (5) 墓標様 1, 軍用地境界標 4
実地調査 2014年 6月
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横須賀陸軍埋葬地は、横須賀に兵営がおかれた要塞砲兵第一連隊の墓地で1890年(明治23)に設置され、終戦まで存続しました。
終戦後、墓地の管轄が横須賀市へと移管されて現在は関係者以外の立ち入りが出来なくなっていますが、御霊が眠る墓標様が残っているほか敷地の外周にも軍用地境界標が残っています。 |
陸軍東京湾要塞 猿島第一砲台
所在 横須賀市猿島
収録遺構 (12) 砲座 2, 地下施設 8, トンネル 2
実地調査 2018年 1月
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猿島第一砲台は東京湾要塞の 1つで、観音崎の第一砲台・第二砲台・第三砲台と同様に東京湾要塞の中で最も早い1884年(明治17)に竣工し1895年(明治26) 12月に27センチカノン砲を 2門据え付けて戦備につきました。
しかし、1923年(大正12)の関東大震災によって破損したため、そのまま1925年(大正14)に除籍されました。
現在、猿島は貴重な自然や歴史遺産が残されていることで国の史跡にも指定されており、島の全体が保存されているため当時の遺構も数多く残存し、簡単に見学することが可能です。 |
陸軍東京湾要塞 猿島第二砲台
所在 横須賀市猿島
収録遺構 (10) 砲座 1, 地下施設 6, その他 3
実地調査 2018年 1月
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猿島第二砲台は東京湾要塞の 1つで第一砲台と同様に 東京湾要塞の中で最も早い1884年(明治17)に竣工し1895年(明治26)に大阪砲兵工廠で製造された24センチカノン砲を 4門据え付けて日清戦争・日露戦争の戦備につきました。
しかし、1923年(大正12)の関東大震災により損壊したため、1925年(大正14)に除籍されて猿島全体が海軍の管轄に移管されました。
現在、猿島は貴重な自然や歴史遺産が残されていることで国の史跡にも指定されており、島の全体が保存されているため当時の遺構も数多く残存し、簡単に見学することが可能です。 |
陸軍東京湾要塞 猿島電灯所
所在 横須賀市猿島
収録遺構 (3) 建物 1, その他 2
実地調査 2018年 1月
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猿島電灯所は、東京湾要塞の付属施設の 1つで夜間の敵艦船の侵入を把握するために設置されました。
その後、大正時代に発生した関東大震災により損壊した第一砲台と第二砲台とともに除籍され猿島全体が海軍の管轄となりました。
猿島が海軍の管轄になると、探照灯がおかれた場所に防空砲台が建設されたため、残念ながらほとんど遺構は残っていないようですが、桟橋付近におかれていた電灯機関舎は現存しており外側から見学することが出来ます。 |
横須賀海軍警備隊 第五高角砲大隊 猿島防空砲台
所在 横須賀市猿島
収録遺構 (16) 建物 1, 砲座 6, 建物基礎 4, 地下施設 1, トンネル 1, その他 3
実地調査 2017年 4月
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猿島防空砲台は横須賀軍港周辺の防衛を目的に横須賀海軍警備隊が守備する防空砲台として、太平洋戦争の開戦までには設置が完了していたようです。
設置当初は 8センチ高角砲が 4門据え付けられましたが、のちに12.7センチ連装高角砲 2門へ換装されたほか、25ミリ単装機銃を 2基と高角測距儀・探照灯なども設置され終戦時まで存続しました。
現在、猿島は貴重な自然や歴史遺産が残されていることで国の史跡にも指定されて島の全体が保存されているため当時の遺構も数多く残存し簡単に見学することが可能です。
| | 猿島は東京湾に浮かぶ 唯一の無人島で、国の 史跡に指定されており 整備されていますっ★
上陸に乗船料を含んだ 入島料がかかりますが 探訪をお奨めします★ |
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横須賀海軍鎮守府 大津演習場
所在 横須賀市 大津町 5 ほか
収録遺構 (3) 軍用地境界標 3
実地調査 2007年 12月
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大津演習場は横須賀におかれていた海軍部隊の練兵場として天保時代に川越藩松平家が築いた大津陣屋の跡地を活用して明治期に設置されたようです。大正に入ると演習場は一般市民にも開放され、たまに競馬なども開催されたことがあったようです。
現在、跡地は大津運動公園などに変遷しており整地されていますが、敷地の外周部分に軍用地境界標が少し残っています。 |
横須賀海軍埋葬地 (馬門山海軍墓地)
所在 横須賀市根岸町 1
収録遺構 (3) 墓標様 1, 門柱 1, その他 1
実地調査 2007年 3月
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横須賀海軍埋葬地は戦死や殉職した海軍軍人の墓地として海軍省が定めたもので 1882年(明治15)に設置されました。
ここには、戦死・殉職された 1,592の御霊様が祀られており、太平洋戦争の終戦までは横須賀海軍鎮守府によって神式と仏式の式典が交互に行われていたそうです。
現在は横須賀市に移管されており、造成されて一般市民の墓地としても使われています。 |
陸軍東京湾要塞 矢の津弾薬支庫
所在 横須賀市馬堀町 2
収録遺構 (3) 門柱 1, その他 2
実地調査 2017年 8月
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矢の津弾薬支庫は、東京湾要塞の施設の 1つで走水地区の各砲台で使用する砲弾類を管理する目的で1922年(大正11)に建設されました。
ここには、火薬庫・装薬調製所・弾丸庫などがおかれ、それぞれが誘爆しないように 1棟ずつ土塁で囲まれていたようです。
現在、跡地の大半が住宅地に変遷しているためほとんど面影がありませんが、わずかに当時の遺構が残っています。 |
陸軍横浜憲兵隊 横須賀憲兵分隊 浦賀憲兵分遣隊
所在 横須賀市浦賀 7
収録遺構 (2) 軍用地境界標 1 建物(消失) 1
実地調査 2005年 7月
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浦賀分遣隊は、重砲兵学校の前身であった要塞砲兵幹部練習所が浦賀におかれたことによって1893年(明治26)に設置されたようです。
1896年(明治29)に入り要塞砲兵幹部練習所が要塞砲兵射撃学校に改称して馬堀に新設された校舎へ移転すると廃止されたようです。
現在、跡地は横須賀浦賀郵便局となっており、当時の面影がありませんが、1990年(平成 2)に行われた検地の際に発掘された軍用地境界標が浦賀コミュニティセンターの分館に移設され、館内に保存されています。 |
浦賀船渠
所在 横須賀市浦賀 4 ほか
収録遺構 (25) 門柱 1, 建物 1, トンネル 1, 地下壕 6, その他 7 建物(消失) 5, 門柱(消失) 1, 建物基礎(消失) 1, その他(消失) 2
実地調査 2022年 7月
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浦賀船渠は、艦艇を建造した民間の造船会社で幕末におかれていた浦賀造船所の跡地を利用し1897年(明治30)に工場が設置されました。
日露戦争以降は、横須賀海軍工廠から水雷艇を受注したことで拡大していき、その後も海軍の小艦艇を中心とする建造が終戦まで続けられ、特に駆逐艦建造で大阪の藤永田造船所とともに名門とされました。
戦後も事業は存続し、海上自衛隊向けの艦艇の建造などが行われ住友重機械工業との合併後に工場が閉鎖され、現在は横須賀市の所有となり当時のドックやクレーンが保存されています。 |
東京石川島造船所 浦賀分工場 (浦賀船渠 川間分工場)
所在 横須賀市 西浦賀 4 ほか
収録遺構 (3) 建物基礎 1, 地下壕 1, その他 1
実地調査 2014年 5月
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東京石川島造船所は、日本で最初となる民営の洋式造船所として産業近代化に大きく貢献したこの前身の石川島造船所からの組織変更により1893年(明治26)に創設されました。
創設から 5年後にあたる1898年(明治31)には当時の取締役であった渋沢栄一氏の提案により大型船の建造修理を目的として浦賀に分工場が新設されますが1897年(明治30)に同じ地区で創業した浦賀船渠との間で、艦船建造・修理の受注合戦が繰り広げられたことで経営が傾き、のち、浦賀船渠が浦賀分工場を買収し1902年(明治35)に川間分工場が開設されました。
その後、しばらくは経営不振が続きましたが、第一次世界大戦での船舶特需で経営を立て直し駆逐艦の建造を業務の中心としました。
太平洋戦争の末期には、本土への空襲が本格化したことで被害を防止するために周辺の山にも地下工場が掘削されています。
終戦後も浦賀船渠は民間船の建造を中心として存続していましたが川間分工場は1984年(昭和59)に閉鎖され現在はシティマリーナとなり、ドライドックや地下工場などがわずかに残存し一部は現在も見学が可能です。 |
陸軍東京湾要塞 千代ヶ崎砲台
所在 横須賀市西浦賀 6
収録遺構 (42) 砲座 3, 観測所 1, トンネル 10, 地下施設 22, 軍用地境界塀 1, その他 5
実地調査 2019年 6月 (継続調査中)
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千代ヶ崎砲台は東京湾要塞の 1つで、1895年(明治28)に竣工しました。
ここには、28センチ榴弾砲を 6門と15センチ臼砲を 6門・12センチカノンを 4門据え付けて防備についていましたが日露戦争に突入するとさらに 7センチ野砲が 4門追加されました。
昭和時代に入ると徐々に防備が縮小されていき最後まで残った28センチ榴弾砲も1944年(昭和19)に房総地区の戦備強化のために撤去され、金谷と那古船形に移されました。
戦後、跡地は海上自衛隊の送信所として使われましたが、現在は横須賀市に管理が移っており土日祝日のみ一般公開されています。
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陸軍東京湾要塞 千代ヶ崎砲塔砲台
所在 横須賀市 西浦賀 6
収録遺構 (7) 門柱 1, 砲座 1, 地下施設 3, その他 2
実地調査 2019年 6月 (継続調査中)
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| | 明治期の千代ヶ崎砲台と 合わせて、見学ツアーに 申し込みをすれば遺構を 簡単に見学出来ますっ★
残存状態も良いので是非 訪れてみてください★ |
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千代ヶ崎砲塔砲台は、東京湾要塞の 1つであり日本で最初の陸上用の砲塔砲台として1925年(大正14)に竣工しました。
ここにはワシントン軍縮条約で日本の主力艦の制限を受け廃艦となった戦艦「鹿島」の主砲の30センチカノン 2門入砲塔を呉海軍工廠で改修したものが 1基据えつけられ、主として横須賀重砲兵連隊や重砲兵学校の演習砲台に使用され砲塔の旋回は80度・射角は42度・射程距離は26キロありました。
終戦後、砲塔砲台は山林内に放置された状態が続き、その後に造成されて立ち入りが出来なくなっていましたが横須賀市の要塞が日本遺産に認定されたことでガイド付きのツアーで見学が出来るようになり砲塔井や動力室などの遺構を見ることが出来ます。
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海軍機雷学校 (海軍対潜学校)
所在 横須賀市長瀬 3
収録遺構 (3) 地下施設 1, 地下壕 2
実地調査 2022年 11月 (継続調査中)
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機雷学校は機雷や爆雷・掃海・対潜哨戒などの習得者を養成する教育機関で、田浦におかれた水雷学校の機雷部門の分離独立により1941年(昭和16)に設置されました。
その後、戦争の激化により潜水艦からの攻撃に対応するための教育が中心となったことで対潜学校に改称されますが、本土決戦の要員捻出で閉校となり水雷学校の分校として施設が使われ終戦となりました。
現在、跡地は港湾空港技術研究所や横須賀消防訓練センター・久里浜少年院などになっており地下施設をはじめとした遺構が残ります。 |
横須賀海軍警備隊 第一高射機銃大隊 川間山防空砲台
所在 横須賀市西浦賀 6
収録遺構 (4) 地下壕 2, その他 2
実地調査 2014年 4月 (継続調査中)
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川間山防空砲台は横須賀軍港を統括した横須賀海軍鎮守府の隷下におかれ、軍港の防衛任務についた横須賀海軍警備隊が守備する防空砲台で浦賀船渠と周辺の施設を防衛する目的で1944年(昭和19)に建設されました。
ここには、同隊の傘下におかれた第一高射機銃大隊の兵員を配置し25ミリ 3連装機銃が 2基と25ミリ連装機銃が 1基据え付けられました。
現時点で砲が設置されたと思われる場所を特定出来ていませんが、この近くには特別養護老人ホームが建設されているので、遺構が消失した可能性もあります。(調査継続中ですっ★) |
横須賀海軍軍需部 久里浜倉庫
所在 横須賀市神明町 ほか
収録遺構 (124) 建物 1, 軍用地境界標 117, 地下壕 5, その他 1
実地調査 2022年 7月
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久里浜倉庫は横須賀海軍軍需部の倉庫の 1つで兵器や衣料品などの保管を目的として、現在の神明町一帯に設置されていました。
ここには、衣料・需品・機雷・電池・通信系の器材類を保管するための倉庫がおかれ、現在のJR横須賀線の久里浜駅から各倉庫を経由して久里浜港へいたる軍用線も敷設されて軍需品の搬入・搬出が出来るようになっていました。
終戦後、施設はアメリカ軍が接収し倉庫として活用しましたが返還されて大半を解体し現在は工場や学校・住宅などが建てられている状況で敷地外周におかれた軍用地境界標を中心とした遺構が残っています。 |
横須賀海軍警備隊 第一高射機銃大隊 久里浜山防空砲台
所在 横須賀市神明町
収録遺構 (14) 砲座 3, 軍用地境界標 10, その他 1
実地調査 2016年 3月
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久里浜山防空砲台は、横須賀の軍港周辺の防衛任務についた横須賀海軍警備隊が守備する防空砲台で、軍需部の久里浜倉庫などの施設を防衛するため、1944年(昭和19)に建設されたようです。
ここには、同隊の傘下におかれた第一高射機銃大隊の兵員を配置し、25ミリ連装機銃が 2基と25ミリ単装機銃が 1基据え付けられました。
現在、跡地の大半が山林となっており機銃座や軍用地境界標などの遺構が残っています。 |
海軍工作学校 (横須賀海軍工作学校)
所在 横須賀市久里浜 6
収録遺構 (1) その他 1
実地調査 2016年 10月
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工作学校は船匠や鍛冶・溶接・潜水作業などの工作術の専門家を養成するための教育機関で、この前身の工機学校からの工作術部門の委譲で1941年(昭和15)に新設されました。
太平洋戦争の開戦に際し、さらなる要員拡充が求められると沼津にも学校が新設されて区別のために横須賀海軍工作学校に改称し、終戦まで存続しました。
現在、学校跡地は久里浜公園や市営住宅などに変遷して面影が全くない状態ですが、学校内におかれていた工作神社が八幡神社に遷宮されて奉られています。 |
横須賀海軍警備隊 第一高射機銃大隊 千駄海岸防空砲台
所在 横須賀市久里浜 9
収録遺構 (3) 砲座 2, その他 1
実地調査 2016年 3月
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千駄海岸防空砲台は、横須賀の軍港を統括した横須賀海軍鎮守府の隷下におかれ、軍港周辺の防衛任務についた横須賀海軍警備隊が守備する防空砲台として久里浜周辺の軍事施設の防衛を目的に1944年(昭和19)に建設されました。
ここには、同隊の傘下におかれた第一高射機銃大隊の兵員が配置され、25ミリ連装機銃が 2基据え付けられました。
現在は山林内に遺構が放置されており機銃座と思われる窪みや、当時の建物と推測する基礎が残っています。 |
陸軍東京湾要塞 千駄ヶ崎砲台
所在 横須賀市 久里浜 9 ほか
収録遺構 (20) トンネル 1, 軍用地境界標 17, その他 2
実地調査 2016年 3月
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千駄ヶ崎砲台は東京湾要塞の 1つとして、関東大震災により損壊をした既設の砲台群に対する震災応急工事の一環で新設された砲台の 1つで1924年(大正13)に竣工しました。
ここには、第三海堡より撤去した10センチ速射カノン砲を 4門据え付けて防備につき、太平洋戦争の終戦まで機能が存続しました。
戦後、千駄ヶ崎周辺は大規模に埋め立てられ、跡地は東京電力の横須賀火力発電所に変遷しているため当時の施設群は皆無ですが、敷地外周部分に境界柵や防御営造物境界標を中心とした遺構が現存しています。 |
横須賀海軍病院 野比分院 (野比海軍病院)
所在 横須賀市野比 5
収録遺構 (6) 門柱 1, 建物基礎 1, 地下施設 1, 地下壕 1, その他 2
実地調査 2016年 3月
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横須賀海軍病院は海軍軍人や軍属のための医療機関で1880年(明治13)に開院し横須賀軍港の敷地内に病棟がおかれていました。
1941年(昭和16)に入ると病床数の拡大のため野比地区に分院が開院し、翌年には横須賀海軍病院から独立して野比海軍病院となり終戦まで存続しました。
現在、跡地は独立行政法人国立病院機構久里浜医療センターとなっていますが、当時の遺構がわずかに残っています。
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陸軍東京湾要塞 衣笠弾薬本庫
所在 横須賀市大矢部 6
収録遺構 (43) 地下施設 2, 軍用地境界標 36, その他 5
実地調査 2015年 2月
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衣笠弾薬本庫は、観音崎に代わる東京湾要塞の新たな弾薬本庫として 1934年(昭和 9)に新設されました。新設当時は、完全防湿の洞窟式の弾薬庫としては世界の最先端をいくものだったようです。
ここには、全面コンクリート製の外庫の内側に厚さが30センチある鉄骨鉄筋コンクリ−ト製の内庫を設け二重構造とした完全防湿の弾薬庫が12箇所おかれていました。
現在、跡地は公園墓地として整備されており、整地されていますが敷地の外周を中心に当時の遺構が残っています。 |
横須賀海軍警備隊 第四高角砲大隊 衣笠防空砲台
所在 横須賀市衣笠町 ほか
収録遺構 (16) 砲座 4, 建物 2, 建物基礎 5, 地下施設 2, その他 3
実地調査 2006年 12月
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衣笠防空砲台は、横須賀軍港周辺の防空任務についた横須賀海軍警備隊が守備する砲台として太平洋戦争の開戦時点で設置されていました。
ここには、12.7センチ連装高角砲を 2基と25ミリ連装機銃を 3基・35ミリ機銃を 1基と13ミリ機銃が 2基据え付けられ第四高角砲大隊の兵員 132名が配備につきました。
現在、跡地は山林となっており草木に埋もれてしまっていますが、砲座や建物跡などの遺構が良好な状態で残存しています。
| | 草木に埋もれていますが 高角砲の砲座をはじめ、 建物跡などの遺構が多く 残っていますので探訪を お奨めしますっ★ |
砲台周辺は道が狭く 車でのアプローチは 非常に難しいです▲
時間がかかりますが 麓から歩いたほうが 確実ですっ★ | | |
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横須賀海軍警備隊 第四高角砲大隊 荒崎防空砲台
所在 横須賀市長井 6
収録遺構 (11) 地下壕 1, 軍用地境界標 5, その他 5
実地調査 2014年 6月
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荒崎防空砲台は、横須賀軍港を統括した横須賀海軍鎮守府の隷下におかれ軍港周辺を防衛した横須賀海軍警備隊が守備する防空砲台として、1941年(昭和16)に建設されました。
設置当初は 8センチ高角砲が 4門据え付けられましたが、のちに12.7センチ連装高角砲 2基へ換装されたほか25ミリ単装機銃が 4基設置され終戦時まで存続しました。
現在、砲台跡は荒崎公園として整備されておりほとんど面影がありませんが、軍用地境界標をはじめとする遺構が少し残っています。 |
横須賀海軍警備隊 大楠山特設見張所
所在 横須賀市芦名 3
収録遺構 (5) 建物 1, その他 4
実地調査 2016年 10月
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大楠山特設見張所は、レーダーを使用して対空監視を行う目的で1942年(昭和17)に建設工事が開始されたようです。
ここには電波探信儀が 2基と施設防衛のための13ミリ機銃が 2基配備され、太平洋戦争の終戦まで対空監視にあたっていました。
現在、施設の跡地は周辺を一望出来る大楠山の展望台となっているため面影がありませんが、電探の架台と思われる遺構などがわずかに残存しています。 |
横須賀海軍警備隊 第四高角砲大隊 武山防空砲台
所在 横須賀市津久井 5
収録遺構 (14) 砲座 4, 建物基礎 6, その他 4
実地調査 2018年 2月
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武山防空砲台は横須賀軍港周辺の防衛を目的に横須賀海軍警備隊が守備する防空砲台として、太平洋戦争の開戦までには設置が完了していたようです。
設置当初は 8センチ高角砲が 3門据え付けられましたが、のちに12.7センチ連装高角砲 2基へ換装されたほか25ミリ単装機銃や高角測距儀・探照灯なども設置され終戦まで存続しました。
現在、跡地は海上保安庁の武山中継所となっていますが、当時の遺構が残っています。 |
横須賀海軍鎮守府 佐島洞窟砲台
所在 横須賀市佐島 3
収録遺構 (5) 地下壕 3, その他 2
実地調査 2006年 12月
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佐島洞窟砲台は、アジア・太平洋戦争の末期にアメリカ軍が計画をした「コロネット作戦」と呼ぶ日本本土上陸作戦に備えるため、日本軍が策定した水際決戦の一環で構築された洞窟式の海面砲台で15センチカノン砲が 3門据付けられました。
現在は、一部の坑道が民家の物置きや水産加工会社の倉庫として使われているものの、砲室を含む全ての坑道が残存しています。
余談ですが、内部調査の結果 単独/合算問わず横須賀市に残る洞窟陣地系の中では、佐島洞窟砲台が最大の坑道延長ですっ★ |
陸軍東京湾要塞 西浦砲台
所在 横須賀市秋谷
収録遺構 (29) 砲座 3, 観測所 1, 地下施設 10, トンネル 3, 軍用地境界標 7, その他 5
実地調査 2006年 7月
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西浦砲台は東京湾要塞の 1つで、従前の要塞の防御線が東京湾内部から三浦半島・房総半島・伊豆半島を連ねる線に拡大されたことによって新設された砲台で1920年(大正 9)に築城工事が完成しました。
ここには、30センチ長榴弾砲を 4門据え付ける予定でしたが地質不良で数度におよぶ地滑りが発生したために対策工事が実施されましたが、1923年(大正12)の関東大震災で甚大な被害を受け、1925年(大正14)に除籍されました。
現在、跡地は山林となっており草木に埋もれてしまっていますが、砲座や建物跡などの遺構が良好な状態で残存しています。
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横須賀海軍鎮守府 長者ヶ崎洞窟砲台
所在 横須賀市秋谷
収録遺構 (6) 地下施設 4, その他 2
実地調査 2006年 12月
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長者ヶ崎洞窟砲台は、アメリカ軍が計画をした「コロネット作戦」と呼ぶ日本本土上陸作戦に備えるため日本軍が策定した水際決戦の一環で構築された洞窟式の砲台で15センチカノン砲が 2門据付けられました。
砲は 1門が南を向き佐島洞窟砲台と十字砲火を形成し、もう 1門は西を向き江ノ島洞窟砲台と十字砲火を形成する構成となっていました。
現在、残念ながら南側の砲口は崩れていますが西側の砲口はホテル音羽の森の敷地内に位置し教会に活用されており見学が可能であるほかに監視所や洞窟陣地の遺構が周辺に残ります。 |
横須賀海軍警備隊 第四高角砲大隊 葉山防空砲台
所在 横須賀市 秋谷 ほか
収録遺構 (1) 砲座 1
実地調査 2006年 6月
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葉山防空砲台は、横須賀軍港を統括した横須賀海軍鎮守府の隷下におかれ、軍港の防衛任務についた横須賀海軍警備隊が守備する防空砲台で葉山御用邸と周辺施設を防衛する目的で1944年(昭和19)に建設されました。
ここには、12.7センチ連装高角砲が 2基と25ミリ連装機銃 2基・13ミリ機銃 1基がそれぞれ据え付けられて防備にあたりました。
現在、砲台の跡地は山林となっており、敷地の大部分が葉山町ですが、この一部が横須賀市に跨っており、わずかに機銃座と思われる遺構が残存しています。 |