陸軍第一師団 輜重兵第一大隊
所在 新宿区信濃町
収録遺構 (2) 門柱 1, 軍用地境界標 1
実地調査 2005年 11月
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輜重兵第一大隊は、第一師団に隷属する部隊で1888年(明治21)に兵営を信濃町におきました。
輜重兵は各師団に隷属する支援部隊の 1つで、前線へ弾薬や糧秣類を運搬して補給する「縁の下の力持ち」といった役割を持っていました。
のち、兵員数の増加に伴って敷地が手狭になり市区改正条例の発効によって郊外移転を迫られこの数年後に目黒へ兵営を移転しました。
現在、跡地は慶応病院などとなっていますが、わずかに当時の遺構が残っています。 |
陸軍軍医学校
所在 新宿区戸山 1
収録遺構 (1) 地下壕 1
実地調査 2005年 11月
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陸軍軍医学校は、医学系の教育機関の 1つで、1886年(明治19)に、この前身である、陸軍軍医学舎を戸山へ設置したことにはじまり、1888年 (明治21)12月の改称によって開校しました。
現在、跡地は国立国際医療センターや、公務員住宅などに変遷しており、面影がありませんが国立国際医療センター東側の石垣部分に、封鎖された地下壕の入口部分が残っています。なお今から約20年程前、軍医学校跡地から、多数の人骨が発見され、これらには銃創痕や実験的な手術の痕があったことから、人体の実験に深い関わりを持った 731部隊と同様に、軍医学校も戦争犯罪を犯した可能性を指摘されました。
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陸軍士官学校 (大本営陸軍部, 陸軍省, 参謀本部)
所在 新宿区 市谷本村町
収録遺構 (4) 軍用地境界標 3, 地下壕 1
実地調査 2007年 5月 (継続調査中)
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そのうち、一般公開を 狙って調べてみます★
うまく見つけられると いいのですが・・・ | |
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陸軍士官学校は、直接的な戦闘を行う軍人達のうち、少尉以上の階級を対象に養成を行う教育機関で、1874年(明治 7)に設立されました。
後に、増加を続ける生徒数に敷地が対応出来ず1936年(昭和11)に、本科を神奈川県の座間市へ予科を埼玉県の朝霞市へそれぞれ分けて移し、1937年(昭和12)からは、軍の中枢である大本営陸軍部や陸軍省・参謀本部がここに移転して、終戦まで展開していました。
現在、敷地は防衛省の施設となっているため、普段は立入が出来ず、内部の詳細は確認出来ていませんが、市谷八幡神社の裏手通路に軍用地境界標が数体残っているほか、コンクリートで構築された地下壕の一部分を見ることが出来ます。この他、内部を知る方の話では、本部庁舎と演習用トーチカが残っているとのことです。(調査継続中です★)
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陸軍経理学校 (陸軍兵器行政本部)
所在 新宿区若松町
収録遺構 (2) 軍用地境界塀 1, 軍用地境界標 1
実地調査 2007年 5月
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陸軍経理学校は、主に会計の監査を行う主計部将校の養成を目的として開設された教育機関の 1つで、1886年(明治19)に、この前身であった陸軍軍吏学舎を麹町へ設置したことにはじまり1890年(明治23)の改称を機に、現在の若松町へ移転して開校しました。しかし、1942年(昭和 17)には、生徒数の増加に伴って敷地が手狭となったため小平市に再度移転し、学校跡地には陸軍全ての兵器廠と兵器補給廠を統括した兵器行政本部がおかれ、終戦まで展開しました。
敷地跡は都営住宅や東京女子医大などになっていますが、敷地の北側にあたる若松会館周辺に当時の遺構がわずかに残っています。
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陸軍砲工学校 (陸軍科学学校)
所在 新宿区若松町
収録遺構 (2) 軍用地境界標 2
実地調査 2007年 5月
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陸軍砲工学校は、砲・工の各兵科目に従事する将校達へ専門教育を施すことを目的とした教育機関で、1889年(明治22)5月に開校しました。
昭和に入ると、支那事変などの影響を受けて、砲・工兵科に限らず、科学技術の習得が重要視されたため、砲・工に従事していない将校達も教育を受けられるようになり、1941年(昭和16) 8月には、陸軍科学学校に改称されて、1944年(昭和19)10月まで機能が存続していました。
現在、敷地は独立法人統計センターに変遷し、面影が全くありませんが、軍用地境界標が 2つ残存しています。
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陸軍近衛師団 騎兵第一連隊
所在 新宿区戸山 3
収録遺構 (2) 建物 2
実地調査 2007年 7月
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騎兵第一連隊は、近衛師団に隷属する部隊で、天皇の乗物である鳳輦(ほうれん)の供奉(ぐぶ: 天皇のお供要員として行列に加わる)が平時の任務とされていました。
設立当初は、千代田区の近衛師団司令部付近に兵営をおいていましたが、のち陸軍第一師団の騎兵第一連隊と世田谷区の池尻に一度移転をし最終的には1913年(大正 2)に戸山地区へ兵営がおかれました。
現在、跡地は学習院女子大学となっていますがキャンパス内に当時の遺構が残っています。
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陸軍戸山学校
所在 新宿区戸山 2
収録遺構 (2) 建物 1, その他 1
実地調査 2007年 7月
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陸軍戸山学校は、歩兵の戦技・戦術 (銃剣術や射撃・剣術など) の訓練・研究や、ラッパ類の取り扱いなどを学習する教育機関として1874年(明治 7)に設立され、箱根山の麓付近に施設がおかれていました。
現在は、戸山公園の箱根山地区となっており、当時の遺構がわずかに残されています。また、この学校で陸軍標準として制定された、射撃や軍刀術などの歩兵戦技は、競技武道や居合道の流派の 1つとして現在に引き継がれています。
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陸軍近衛師団 戸山ヶ原演習場
所在 新宿区 大久保 3 ほか
収録遺構 (2) 軍用地境界標 1, その他 1
実地調査 2007年 7月
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戸山ヶ原演習場は、射撃を行うために使用する近衛師団の演習場(近衛射的場)として、1882年(明治15)に開設されました。
開設当時は、敷地南側に土塁を築いて、これを標的にして射撃訓練が行われましたが、騒音や誤射によって周辺住居を破損するなどの問題が出たため、1928年(昭和 3)に長さ 300mに及ぶ当時は東洋一といわれた鉄筋コンクリート製の射撃場を 7棟建築して問題を解決させました。
現在、敷地は海城学園高校や、戸山公園大久保地区などに変遷していますが、敷地の南端部に位置する公園の南側に、当時の遺構がわずかに残っています。
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海軍横須賀軍港境域
所在 新宿区本塩町
収録遺構 (1) 軍用地境界標 1
実地調査 2016年 10月 |
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横須賀軍港境域は、横須賀市におかれた横須賀海軍鎮守府が統括した横須賀軍港の土地境界を決定するものとして、1896年(明治29)に条項が設けられました。
軍港境域と定めた場所では一般人の立ち入りが厳しく制限され、その範囲を明確にするための軍港境域標が境域の境界線に設置されました。
横須賀軍港の境域は、横須賀市内を中心として横浜や鎌倉などの広大な範囲に設定されており設置されていた軍港境域標のうちの 1本が土木学会内に移設保存されています。 |