陸軍第一師団 騎兵第一連隊
所在 世田谷区池尻 4
収録遺構 (1) 軍用地境界標 1
実地調査 2007年 5月
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騎兵第一連隊は、第一師団に隷属する部隊で、1887年(明治20)前後から、兵員数や周辺の都市人口が急増し、敷地の拡張が難しくなったため「駒場野」と呼ばれた、約 160,000坪にも及ぶ広大な土地に目を付け、1891年(明治24)に入り兵営の郊外移転の先陣をきりました。これ以後続々と他部隊の兵営が設営されました。
現在、跡地に筑波大学の付属高校が建てられ、面影がほとんどありませんが、池尻 4-3付近に軍用地境界標が 1つだけ残っています。この他筑波大学付属高校の南にあるマンション付近に戦没馬を祀るため、1930年(昭和 5)に同連隊で建立した馬神碑があります。
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陸軍近衛師団 輜重兵第一大隊
所在 世田谷区 池尻 4 ほか
収録遺構 (1) 建物 1
実地調査 2007年 5月
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輜重兵第一大隊は、近衛師団に隷属する部隊で第一師団の騎兵第一連隊の移転に続いて1892年(明治25)に、隣接して兵営が設営されました。
現在、跡地には駒場東邦中・高校が建てられていますが、その南方の池尻 4-4付近に、同隊が使用していたとされる屋内射撃場が 1棟残っています。
屋内射撃場は鉄筋コンクリートで造られており建物の長さが約 100mに及ぶ長大なもので屋根部分は、射撃時の消音効果を狙い、凹凸形状となっています。この構造を活かしてか、現在も音楽スタジオや倉庫として活用されています。
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陸軍第一師団 野砲兵第一連隊
所在 世田谷区下馬 1
収録遺構 (4) 建物 1, 軍用地境界標 3
実地調査 2007年 5月
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野砲兵第一連隊は、第一師団に隷属する部隊で第一師団の騎兵第一連隊の移転を皮切りにして1897年(明治30)に下馬地区へ転営し、この東に隣接する形で、同師団の野戦重砲兵第八連隊もおかれていました。
野砲兵は、各師団に隷属する支援部隊の 1つで野戦時に砲具を用いて交戦を行う部隊です。
現在、跡地のほとんどが都営下馬住宅に変遷し面影がほとんどありませんが当時の遺構が少し残っています。 |
陸軍第一師団 駒沢演習場
所在 世田谷区 池尻 2 ほか
収録遺構 (3) 軍用地境界標 2, その他 1
実地調査 2007年 5月
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駒沢演習場は、池尻・下馬地区に転営してきた第一師団隷属部隊の兵科演習場として、1897年(明治30)に設置され、場内に砲撃演習に使った長大な塹壕などが構築されていました。
60,000坪にも及んだ広大な演習場跡地は、区立小・中学校や世田谷公園・防衛省の関連施設に変遷していますが、演習場の北にあたる、池尻 2丁目に遺構が少し残っています。
この他、演習場の西に隣接して近衛師団隷属の野砲兵第一連隊が、現在の昭和女子大学周辺におかれていましたが、残念ながら遺構は残っていないようです・・・
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東京陸軍糧秣廠
所在 世田谷区池尻 2
収録遺構 (2) 建物 2
実地調査 2007年 5月 |
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駒沢演習場北側の一角には、糧秣類を扱う陸軍糧秣廠がおかれていました。
現在、跡地には住宅が密集していますが、敷地南側にあたる、世田谷公園の北側入口付近に、軍馬の食料を格納していたとされる馬糧倉庫が 2棟残っています。
いずれも補強工事が施されたうえ、倉庫として現在も活用されています。
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陸軍獣医学校
所在 世田谷区代沢 1
収録遺構 (2) 軍用地境界標 2
実地調査 2007年 5月
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陸軍獣医学校は、動物を使用した医学の研究や化学兵器の研究などを行っていた教育機関で、1909年(明治42)に代沢地区へおかれました。
研究にあたり、たくさんの動物が実験や解剖に使われて、学校の周辺にその死体が埋められたそうです。
現在、跡地は区立富士中学校や駒場学園高校・住宅地に変遷し、面影がほとんどありませんが代沢 1丁目の住宅地内に、軍用地境界標が 2つ残存しています。
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陸軍機甲整備学校
所在 世田谷区桜丘 1
収録遺構 (7) 門柱 2, 軍用地境界標 5
実地調査 2007年 5月 |
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陸軍機甲整備学校は、機甲車輌を取り扱う教育機関として、1925年(昭和元)に桜丘地区へ設置されました。機甲車輌は戦車や装甲・牽引車と自動車のことですが、ここでは使用する燃料や油脂も「機甲車輌」として扱われていました。
昭和に入ると、騎馬に代わる兵器として戦車や自動車が近代戦の主力となり、この学校で機甲車輌の整備や学術を修得させて、各部隊にその技術を普及させようとしました。
現在、跡地は東京農業大学のキャンパスとなり軍用地境界標を中心とした遺構が現在も残っています。
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陸軍衛生材料廠
所在 世田谷区上用賀 1
収録遺構 (3) 建物 1, その他 2
実地調査 2019年 9月 |
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衛生材料廠は陸軍で使う医薬品や衛生医療品の製造や購買・補給・研究などを行う部署として本廠が東京の白金に設置され1929年(昭和 4)に施設を世田谷に移し終戦まで存続しました。
終戦後、敷地はアメリカ軍に接収されて倉庫に使用されましたが現在は返還され、陸上自衛隊用賀駐屯地や工場などに変遷し、当時のものと考えられる遺構がわずかに残っています。
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