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 神奈川県藤沢市の軍事遺跡一覧 収録遺構数:79 


 横須賀海軍鎮守府
 辻堂演習場

 (横須賀海軍砲術学校
  辻堂演習場)


 所在
  藤沢市
  辻堂西海岸 3

 収録遺構 (1)
  その他 1

 実地調査
  2018年 2月





辻堂演習場は、大砲の試射や陸戦の演習を行う目的で、この前身の相州炮術調練場を引き継ぎ明治初期に設置されました。

大正以降は横須賀海軍砲術学校の演習場として使用され、広大な海岸を戦場に見立てて紅白に分かれ攻撃・防御などの演習が行われました。

戦後は連合国軍が接収し、演習地として使われのちに在日米海軍辻堂演習場となりましたが、現在は辻堂海浜公園に変遷して整地されており演習場の遺構は残っていなさそうですが、日露戦争の戦果に大きく貢献した下瀬火薬の威力を確認するため試射の標的とされた鉄板の 1つが八森稲荷神社に保存されています。


 横須賀海軍水道路
 半原系統


 所在
  藤沢市高谷
    ↓
  藤沢市葛原

 収録遺構 (44)
  橋梁 3,
  軍用地境界標 41

 実地調査
  2007年 4月
  2007年時点の詳細をご紹介します



水道路のほとんどは、
道路になっているので
簡単に歩けますよっ★

適度にアップダウンが
あるので、いい運動に
なりますよっ♪
せりな:私にとっては過酷でした★

横須賀海軍水道路は、横須賀市におかれていた横須賀海軍工廠を中心とした海軍施設に対して水を供給する目的で、1876年(明治9)に専用の水道が走水の水源地より敷かれました。しかし施設の拡大に伴って水の需要が増えてしまい、この専用水道だけでは供給不足となり、新たに相模川の支流となる中津川を水源に、愛川町の半原より横須賀市の逸見浄水場にいたる長大な水道路の敷設が計画され1918年(大正7)に半原系統として通水し藤沢市内を縦断しています。

戦後、水道路は横須賀市に移管されて、市民が使用する水道として使われていますが、当時の遺構が現在も残存しています。なお、案内板はありませんが、水道路の大半は道路として整備されており、簡単に歩くことが出来ます。運動不足の解消に歩いてみてはいかがでしょうか?丁度良い間隔で遺構も残っているので、退屈もすることなく楽しめるかと思いますがっ★

 藤沢海軍航空隊


 所在
  藤沢市善行 ほか

 収録遺構 (7)
  建物 1,
  地下壕 1,
  地下施設 1
  地下施設(消失) 3,
  地下壕(消失) 1

 実地調査
  2006年 4月
  2006年時点の詳細+αをご紹介します




祐実:ギリギリでしたっ★消失した地下施設群は、
解体寸前のタイミングで
記録が間に合いました▲

遺構の消失は本当に残念
極まりないですねっ(怒)

藤沢海軍航空隊は、航空無線に関係する兵器を取り扱うための教育を目的として1944年(昭和19) 6月に開隊された、レーダーや光学兵器の整備要員を育成するための部隊で、元々あった藤沢カントリークラブのゴルフコースを徴用しクラブハウスに司令部がおかれ、その東側には離発着用の滑走路が2本建設され、10,000名にのぼる兵員がここで教育を受けたのち、続々と戦地に送り出されていったそうです。

現在、敷地跡は県体育センターや荏原製作所をはじめとした工場・マンションなどとなって、遺構はほとんど消失してしまいましたが、県の体育センター内に少しだけ残っています。

安芸:マンション?て、てめ〜っ!日本の人口は確実に減少
しているのに、どうして
開拓して家を建てようと
するのかねぇ?

もっと既存の土地を有効
活用すりゃいいじゃん▲

 横須賀海軍鎮守府
 江ノ島洞窟砲台


 所在
  藤沢市
  江ノ島 2 ほか

 収録遺構 (2)
  地下壕 2

 実地調査
  2006年 7月
  2006年時点の詳細をご紹介します




江ノ島洞窟砲台は戦争末期にアメリカ軍が計画した「コロネット作戦」と呼ぶ日本本土の上陸作戦に備えて策定された水際決戦の一環で構築された洞窟式砲台で、15センチカノン砲が2門据付けられました。

現在、洞窟砲台は放置された状態で残っており見学することが可能です。

 横須賀海軍鎮守府
 抵抗拠点陣地


 所在
  藤沢市
  江ノ島 2 ほか

 収録遺構 (2)
  地下壕 2

 実地調査
  2006年 7月
  2006年時点の詳細をご紹介します



もしかしたら、東側にも
陣地が残存しているかも
しれません・・・

ちなみに、西側の陣地は
山を登らずに海岸側から
進むとすぐ判りますよ★

畝傍:祐実さん、もう一回だけ行きましょうっ★

横須賀海軍鎮守府は、海軍条例によって定めた海軍区のうち第一海軍区(東北〜近畿の一部と小笠原の各沿岸海域)を統括した組織で前身の東海鎮守府が1884年(明治17)に横須賀へ移りその機能を引き継いで開設されました。

太平洋戦争の末期にアメリカ軍が計画していた「コロネット作戦」に備え日本軍は「本土決戦作戦」を展開するために洞窟砲台や洞窟陣地が構築され、陸軍の第五十三軍と連携し火砲網を形成しました。

陣地は、江ノ島の山全体にわたって構築され、東側はヨットハーバーなどの建設によって消失しているものの、西側はほとんど現存しており見学することが出来ますが、一部水没している箇所があるので注意が必要です。


 陸軍第一四〇師団
 抵抗拠点陣地


 所在
  藤沢市片瀬 ほか

 収録遺構 (19)
  地下壕 16,
  地下施設 2,
  その他 1

 実地調査
  2018年 1月
  2007年時点の詳細をご紹介します



直美:是非、教えてねっ★洞窟陣地は、掲載の他に
間違いなく存在しており
現存する可能性大です。

時間がある方は是非とも
調べてみてくださいっ★
(情報も募集してます♪)

第一四〇師団は1945年(昭和20) 2月に東京で編成されて開設された特設師団で、その配下に歩兵第四〇一連隊〜歩兵第四〇四連隊を有していました。アメリカが計画した、日本本土への上陸作戦(コロネット作戦)に対して、本土決戦作戦の一環として相模湾周辺の防衛を担当した第五十三軍に隷属し、藤沢の東側で三浦半島を除いた相模湾沿岸の防衛任務にあたりました。これに伴い、アメリカ軍が日本へ上陸した時の進軍ルートを予測し、これを迎撃出来るような抵抗拠点となる陣地を構築し、片瀬地区にその司令部をおきました。

陣地は、相模湾に面した山や上陸ルートとなる幹線道路脇の山に複数構築しており、最終的な設置数は把握出来ていませんが、藤沢市内には相当な数が構築されたものと推測しています。このうち、片瀬地区周辺と大庭地区周辺には、現在も洞窟式の坑道陣地が残っており、一部が封鎖されていますが、山林内に放置されており見学することも可能です★


 海軍東京湾要塞地帯

 所在
  藤沢市朝日町

 収録遺構 (1)
  軍用地境界標 1

 実地調査
  2014年 4月






東京湾要塞は、日本の本土におかれていた永久要塞の1つで、1895年(明治28)の要塞司令部の条例により永久的な防御工事が施された場所を「要塞」とし海軍の場合も砲台や軍港を「要塞地帯」と定義しました。また、これにともなう法律も公布されており、軍事機密の保持のため要塞地帯に指定された区域内での測量や撮影・スケッチ・土木工事などは要塞司令部の許可が必要で、これらの防御営造物より250間(約455メートル)以内を要塞「第一区」とし一般人の立ち入りが禁止されました。また、その距離に応じ「第二区」・「第三区(区域)」も設けられこれらの境界を明確にするため、要塞地帯標が設置されました。

要塞地帯を定義する法律は数度にわたって改正されましたが、最終的に防御営造物から 1,000メートル以内を第一区・ 5,000メートル以内を第二区・15,000メートル以内を第三区(区域)と当初よりも大幅に拡大されました。

藤沢市については要塞地帯第三区に定められた箇所があり、要塞地帯標が藤沢市役所前に移設保存されています。


 東京螺子製作所
 藤沢工場


 所在
  藤沢市片瀬 1

 収録遺構 (3)
  建物 1,
  地下壕 2

 実地調査
  2018年 1月
  2006年時点の詳細をご紹介します




東京螺子製作所は民需用のネジ部品を製造する目的で1898年(明治31)に開業した民間企業で1913年(大正2)より航空機に使用するボルトやナットなどの製造が開始されました。その後、工場の拡張を目的に藤沢に移転しました。

昭和時代に入り、日中戦争が泥沼化すると軍需増強の必要から軍の共同管理工場の指定を受け薬莢や弾丸などの製造にも携わり、太平洋戦争末期は防空対策で工場背面の山にも地下工場が掘削されています。

資料が揃わず当時の遺構がどのくらい残るのか判っていませんが建物配置図や航空写真などを見る限りでは建物や地下工場が残っています。



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