立川陸軍航空工廠 引田資材倉庫 横沢地下壕
所在 あきる野市横沢
収録遺構 (4) 地下壕 2, その他 2
実地調査 2007年 6月
地下壕は約30ほど掘削 されたようですが殆ど 埋没しており、現在は わずか 5つだけが確認 出来ます・・・
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立川陸軍航空工廠は、航空機とこれに関連する部品を製造することを目的として1940年(昭和15) に造兵廠名古屋工廠の発動機部門を編入し現在の昭島市に工場をおいて独立しました。
ここでは、機体やエンジン・プロペラの生産が主に行われ、最盛期は約10,000名の工員が配属されていました。また、材料や完成した部品を一時的に保管するため、あきる野の引田地区に資材倉庫が設置されました。
1944年(昭和19)に入ると、太平洋戦争の戦局が圧倒的に劣勢となり、アメリカ軍は武蔵野市の中島飛行機武蔵製作所の爆撃を皮切りにして、最重点産業である航空機工場への攻撃を開始し政府は航空機の生産を維持するために航空機の生産減少防止対策をうち出し、工場機能の分散疎開が開始されました。航空工廠もこれに倣い周辺に掘削された地下壕へ疎開を順次開始し、これに伴って資材倉庫の物資は横沢の地下壕に移されました。
現在、資材倉庫跡は富士通の工場などとなり、遺構は残っていないと思われますが、疎開先の横沢地区には地下壕と橋梁に使用した牽引車の一部が残っています。
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