中島飛行機 武蔵野製作所 (中島飛行機 武蔵製作所, 第一軍需工廠 第十一製造廠)
所在 武蔵野市 緑町 2 ほか
収録遺構 (3) 建物 1, 地下施設 1, その他 1
実地調査 2012年 9月 |
もっと早く記録調査を 開始していればなぁ〜
後悔しても遅いですが 残念でなりません・・ | |
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中島飛行機は、1917年(大正 6)に創設された、民間の航空機製作会社です。特筆に値する製作戦闘機に「隼」や「疾風」などがあり、戦前の日本を代表する陸軍・海軍御用達の戦闘機製造会社として、「零戦」などの設計で有名な三菱重工業と双璧をなします。
昭和に入ると、近代戦の主力が航空機となり、戦闘機の需要が急激に伸び、群馬県の太田市にかかえていた工場だけでは生産が間に合わず、1938年(昭和13)に、陸軍専用の戦闘機エンジン工場として武蔵野製作所を開設しました。
1943年(昭和18)に入ると、海軍専用のエンジン工場であった多摩製作所を吸収合併し、名前を武蔵製作所と改め、559,000uもの敷地面積に 4,400台の機械と、27,800人の工員が従事する日本で最大級のマンモス工場になります。一方アメリカ軍は、この製作所を本土空襲の最大のターゲットに定め、翌年の11月24日に本土初の空襲が行われます。 (空襲の成果は、本質的に成功とはいえないものでしたが▼) これを受け 地下工場などに、製作所機能の分散疎開が開始されました。
1945年(昭和20)に入ると、航空機工場が国営化されたため、第一軍需工廠第十一製造廠となり日本の全航空機のエンジン部門の約20%がこの製作所で生産されるまでとなりました。しかしアメリカ軍による執拗な空襲が続き、最終的に設備の約70%を焼失し、事実上壊滅しました。投下された爆弾の延べ重量は、2,602.5tにも及び、関東地区への爆撃では、最大級のものと なりました。
終戦後、武蔵製作所の敷地は、NTTや武蔵野中央公園となり、整地されて現在に至ります。なお、整地する前まで建物や地下通路が残っていたようですが、解体や埋め戻しにより消滅し現在は、工具工場の変電室に使用された建物や地下通路の残骸と思われるコンクリート部分がわずかに残るのみです。
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