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 東京都昭島市の軍事遺跡一覧 収録遺構数:21 


 陸軍航空本部
 補給部
 立川支部

 (立川陸軍航空支廠,
  立川陸軍航空廠)


 所在
  昭島市
  築地町 ほか

 収録遺構 (4)
  軍用地境界塀 2
  門柱(消失) 1,
  軍用地境界塀
  (消失) 1


 実地調査
  2019年 10月











陸軍航空本部は、それまで各兵科の混成で編制されていた航空部門を航空力の増強に伴う航空兵科の独立によって、従前の航空部が昇格したことで1925年(大正14)に発足し、内部部門の補給部所沢支部の移転によって1933年(昭和 8)に立川支部が設置されました。

その後、さらなる陸軍航空兵科の拡充によって補給部に対する権限が段階的に強化され、航空支廠に改編されたのち1935年(昭和10)の組織改正で航空廠として独立しました。

ここでは、航空に関連する器材類や燃料などの調達・保管・補給と、これに関わる器材の補修などが行われており、約4,000名の人員が従事していたようです。

戦後、敷地はアメリカ軍により接収され、空軍立川基地として使われましたが、1977年(昭和52)に全面返還され、現在は大部分が国営昭和記念公園として活用されており、敷地の西側に門柱と軍用地境界塀がわずかに残っています。


せっかく探訪したのに、
写真のほとんどを消失し
今回もたくあん先生より
写真を提供してもらって
おりますっ♪

ありがとうございます★
祐実:ありがとうございますっ♪

 立川陸軍航空工廠


 所在
  昭島市
  築地町 ほか

 収録遺構 (6)
  建物 1,
  建物基礎 1,
  地下施設 1,
  その他 3

 実地調査
  2008年 1月

  2008年時点の詳細をご紹介します








立川陸軍航空工廠は、航空機とこれに関連する部品を製造することを目的として1940年(昭和15) に造兵廠名古屋工廠発動機部門を編入し現在の昭島市に工場をおいて独立しました。

ここでは、機体やエンジン・プロペラの生産が主に行われ最盛期は約10,000名の工員が配属されていました。

戦後、敷地はアメリカ軍により接収され、空軍立川基地として使われましたが1977年 (昭和52)に全面返還され、以降は放置された状態が続いており、現在も当時の遺構がいくつか残存しています。ただし、敷地内部への立ち入りは禁止されており、残念ながら見学は外側からに限定されます。

ちなみに、この場所はアメリカ軍に返還されてから現在に至るまで放置され続けているため、鬱蒼とした森林と化しており、ここに生息する稀少動植物の存在も確認出来ているそうです★

安芸:三等兵っ!テメ〜!
せっかく探訪したのに、
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今回もたくあん先生より
写真を提供してもらって
掲載しておりますっ♪

ありがとうございます★

 立川陸軍航空工廠
 中神軍用線


 所在
  昭島市
  築地町 ほか

 収録遺構 (4)
  その他 4

 実地調査
  2019年 10月










中神軍用線は、立川陸軍航空工廠へ資材を搬入する目的で建設された引込線で、JR青梅線の中神駅から北上して立川陸軍航空工廠の敷地へ至る区間が1943年(昭和18)に完成しました。

軍用線の延長は約1.9kmで、終戦後もアメリカ軍の専用線として、燃料類の運搬用に使用されましたが、日本に返還されたのと同時に廃線となりました。

現在、軍用線は道路として整備されていますがレールの一部や転轍機が保存されており、見学することが可能です。

左上の写真はたくあん先生からの提供ですっ★
いつもありがとうございます m(_ _)m



 昭和飛行機工業
 東京製作所


 所在
  昭島市
  拝島町 ほか

 収録遺構 (7)
  建物 6
  建物(消失) 1

 実地調査
  2022年 8月













昭和飛行機工業は、輸送機を中心とした機材を製造する目的で設立された民間企業で1938年(昭和13)に工場が設置されました。設立当初は輸送機の製作がうまくいかず、量産に漕ぎ着けなかったものの終戦までに零式輸送機430機を生産し、この他にも九九式艦上爆撃機や紫電改などの製作に携わりました。

現在、昭和飛行機工業は航空機事業が主力ではありませんが往時の敷地を縮小しつつも企業は存続しており当時の建屋も少し残ります。



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