大阪陸軍兵器本廠 宇治火薬庫 (大阪陸軍兵器補給廠 宇治分廠)
所在 宇治市 五ヶ庄三番割 ほか
収録遺構 (7) トンネル 1, 軍用地境界塀 1, 軍用地境界標 4, 橋梁 1
実地調査 2016年 11月
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宇治火薬庫は、大阪におかれていた兵器本廠の付帯火薬庫として、この前身であった砲兵第二方面砲兵支廠からの改称によって 1897年(明治30)に組織が発足しました。
ここには、大正時代までに約30棟の火薬庫と、爆発時の二次災害を防ぐための土塁や付属する建物などが設置され、隷属先の改編により大阪兵器支廠の火薬庫となりました。
昭和に入るとさらに敷地が拡張され敷地面積は約75,000坪となり1940年(昭和15)の組織改編で大阪兵器補給廠の宇治分廠となり太平洋戦争の終戦まで機能が存続しました。
現在、火薬庫の敷地は黄檗公園や宇治少年院・京都大学のグラウンドなどに変遷していますが当時の遺構が残存しており、一部は保存されています。 |
東京第二陸軍造兵廠 宇治製造所 木幡軍用線
所在 宇治市木幡東中 ↓ 宇治市五ヶ庄居場道
収録遺構 (19) 橋梁 1, 軍用地境界標 14, その他 4
実地調査 2008年 1月
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軍用地境界標を中心に 遺構が残っているので かなりお奨めですよ★ 皆さんも歩いてみては いかがでしょうか?? 正味 1時間半の工程で 巡れます♪ | |
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東京第二陸軍造兵廠宇治製造所の前身である、大阪陸軍砲兵工廠の宇治火薬製造所の時代では火薬の運送に隣接する宇治川の水運を利用していましたが、次第に水運で輸送が間に合わなくなったために、現在のJR奈良線の木幡駅から線路を分岐させて宇治火薬製造所へと引き込む軍用線を建設して、大量の運送に有効な手段といえる、鉄道による輸送に移行されました。
軍用線は、一旦木幡から北上して大きな曲線を描きながら南に進路を変えて宇治火薬製造所に繋がっており、主に生産された湿火薬を大阪の枚方におかれた二造の (東京第二陸軍造兵廠の略称) 香里製造所へ向けて運送するために使用されました。
戦後は廃線となり線路が撤去されていますが、曲線を描いている区間を中心に、当時の遺構が現在も残っています。
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