陸軍東京湾要塞地帯
所在 館山市見物
収録遺構 (1) 軍用地境界標 1
実地調査 2007年 5月 (継続調査中) |
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東京湾要塞は日本の本土におかれた永久要塞の1つで1895年(明治28)の要塞司令部条例により永久的な防御工事を施した場所を要塞地帯とし軍事機密の保持のため、要塞地帯に指定された区域内での測量や撮影・写生・土木工事などは要塞司令部の許可がないと出来ませんでした。また、防御営造物より 250間(約455メートル)以内を特に「要塞地帯第一区」として一般人の立入りが禁止され、衛兵が守備していました。さらに、その距離に応じ「第二区」・「第三区(区域)」が設定され、これらを明確にするためその境界部に要塞地帯標が設置されました。
要塞地帯を定義する法律は数度にわたって改正されましたが、最終的に防御営造物から 1,000メートル以内を第一区・ 5,000メートル以内を第二区・15,000メートル以内を第三区(区域)と当初よりも大幅に拡大されました。
このうち、館山市内については洲崎第一砲台・洲崎第二砲台の周辺が第一区に定められており踏査を継続していますが、見物地区の神社内に要塞地帯標の残存を確認しています。
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陸軍東京湾要塞 洲崎第一砲台 (陸軍東京湾要塞 見物砲塔砲台)
所在 館山市見物 ほか
収録遺構 (11) 砲座 1, 地下施設 1, 観測所 1, 軍用地境界標 6, その他 2
実地調査 2006年 12月
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洲崎第一砲台は東京湾要塞の 1つで、1932年(昭和 7)に竣工しました。
ここにはワシントン軍縮条約で除籍された戦艦「生駒」の主砲であった45口径40センチ2門入砲塔を、横須賀海軍工廠で陸上用に改修されたものが 1基据えつけられ戦闘配備につき、砲の最大射程は26キロもありました。
また、砲塔砲台の西方に位置している坊の山に観測所を設けて八八式電気式海岸射撃具が設置され、砲塔砲台と共に終戦まで存続しました。
終戦後、砲塔部は破壊された状態で放置されていましたが、砲台の跡地をポピーランドという分譲地に転用する整地工事が始まり、探訪時はギリギリのタイミングで地下施設の内部を見ることが出来ましたが、現在は入口が封鎖されているようです。
また、この他に現存する遺構として門柱や地下施設の一部分と通風口・観測所の一部分があり見学が可能です。さらに、観測所が設置された坊の山への登山道沿いにも防御営造物境界標がいくつか見ることが出来ます。
後日談となりますが、現地をよく知る関係者の方から、砲座部分も土地を所有する方が整備をして保存されているとの話を聞きましたっ★ |
陸軍東京湾要塞 洲崎第二砲台 (陸軍東京湾要塞 坂田砲台)
所在 館山市坂田
収録遺構 (18) 門柱 1, 砲座 1, 地下施設 6, 観測所 1, トンネル 1, 建物基礎 2, 橋梁 3, その他 3
実地調査 2019年 1月
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洲崎第二砲台は東京湾要塞の 1つで、1927年(昭和 2)に竣工しました。
ここには、地質不良のために廃止となった西浦砲台に備砲予定だった30センチ長榴弾砲が南北方向へ直線状に 4門据え付けられて配備につきましたが1938年(昭和13)に砲を撤去し 3門が関東軍へ引き渡され、残る 1門を重砲兵学校へ移したのち1943年(昭和18)に廃止されますがその後、砲台前面にあたる海岸付近に12センチ速射カノン砲を 2門と10センチカノン砲を 4門据え付けた砲台が新設されたため、付属施設は廃止されずに転用されています。
終戦後、ほとんどの砲座が破壊されてしまい、現在は第四砲座のみが残存している状況ですが砲側弾薬庫や炸薬填実場などは現存しており、見学することが可能です。
2006年(平成18)の調査で砲座や砲側弾薬庫・炸薬填実場・建物基礎・軍道の遺構などを記録出来ましたが、ここ数年間で残土処分場の建設工事が進められているため、一部の遺構が消失する可能性が出ています。 |
陸軍東京湾要塞 洲崎弾薬支庫
所在 館山市坂田
収録遺構 (1) 地下施設 1
実地調査 2006年 12月
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洲崎弾薬支庫は、東京湾要塞の施設群の 1つで館山地区におかれた砲台群で使用する砲弾類を一元管理する目的で1927年(昭和 2)に設置されました。
ここには、防水・防湿対策として外庫と内庫が区画された洞窟式弾薬庫が 1つ設置されておりこれを接続する前室と主室が区画された坑道が 2つ設けられていました。
終戦後、弾薬類を撤去したうえで山林内に放置された状態が続き、内部の見学が可能でしたが現在は残土処分場の建設が進んでおり消失する可能性があるようです。 |
洲ノ崎海軍航空隊
所在 館山市笠名 ほか
収録遺構 (11) 建物基礎 1, 地下施設 2, 地下壕 5, その他 3
実地調査 2022年 12月 (継続調査中)
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洲ノ崎海軍航空隊は、射爆兵器整備教育を行う練習航空隊として1943年(昭和18)に開設され館山海軍航空隊の南隣に施設がおかれました。
ここでは主に航空兵器を整備する兵士の養成と訓練などが行われましたが戦争末期は防空壕や飛行機掩体の建設作業に追われたそうです。
現在、跡地は国立館山海上技術学校や住宅地・農地などに変遷していますが、地下壕をはじめ当時の遺構が数多く残っています。 |
館山海軍砲術学校 犬石射撃場
所在 館山市犬石
収録遺構 (1) その他 1
実地調査 2022年 12月
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犬石射撃場は館山砲術学校の射撃演習場として学校の南東側に設置されました。
戦後、跡地は開墾されて大半が畑地に変遷し、面影がまったくありませんがコンクリート製の監的壕が残存しています。 |
館山海軍砲術学校 平砂浦演習場
所在 館山市藤原 ほか
収録遺構 (1) 地下施設 1
実地調査 2006年 6月
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平砂浦演習場は、館山砲術学校での教育内容の 1つである陸戦・化学兵器戦術の演習場として学校の南西側に設置されていました。
戦後、跡地は開墾されて大半が畑地に変遷し、面影がまったくありませんが、化学兵器戦術の訓練設備といわれる鉄筋コンクリート製の耐弾施設が残存しています。 |
横須賀海軍警備隊 城山防空砲台
所在 館山市館山 ほか
収録遺構 (17) 砲座 2, 地下施設 2, 地下壕 2, 軍用地境界標 5, その他 4 軍用地境界標(消失) 2
実地調査 2022年 6月
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城山防空砲台は、横須賀海軍警備隊が守備した防空砲台の 1つで、館山一帯に設置されていた軍事施設を防衛することを目的に太平洋戦争の開戦前までに設置されていたようです。
ここには 8センチ高角砲が 4門据え付けられていたほか 測距儀・探照灯や 7.7ミリ機銃などが設置されて約 100名の兵士が配備についていたそうです。
現在、跡地は城山公園として整備されており、山頂には復元された館山城がおかれていますが弾薬庫や地下施設などの遺構が少し残っており見学することが可能です。 |
横須賀海軍警備隊 大網防空砲台
所在 館山市大網
収録遺構 (3) 地下施設 3
実地調査 2006年 1月 (継続調査中)
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大網防空砲台は、横須賀軍港を統括した横須賀海軍鎮守府の隷下におかれ、軍港周辺に対する防衛任務についた横須賀海軍警備隊が守備する防空砲台として館山一帯におかれた軍事施設の防衛のため太平洋戦争中に建設されました。
資料に乏しく、詳細は判っていない状況ですが高角砲が 4門据え付けられたほか、付属施設や弾薬庫などがおかれていたようです。
現在、跡地は鬱蒼とした山林になっているため砲座や施設跡などの痕跡は探せませんでしたが全面がコンクリート製の弾薬庫と思われる地下施設が 3つ残っています。 |
横須賀海軍警備隊 二子山防空砲台
所在 館山市笠名
収録遺構 (6) 砲座 3, その他 3
実地調査 2019年 1月
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二子山防空砲台は横須賀海軍警備隊が守備した防空砲台の 1つで、館山一帯に設置されていた軍事施設を防衛する目的で設置されました。
資料に乏しく兵装は判っていませんが、洲ノ崎海軍航空隊の庁舎の南に位置している二子山に高角砲や建物などがおかれたようです。
現在、二子山周辺は住宅地に変遷していますが山頂付近に機銃座や建物跡と考えられる遺構がわずかに残っています。 |
横須賀海軍鎮守府 第一特攻戦隊 波左間基地
所在 館山市波左間
収録遺構 (2) 地下壕 1, その他 1
実地調査 2007年 6月
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第一特攻戦隊は、太平洋戦争の戦局が圧倒的に劣勢となったことにともない、本土決戦に備え編成された特別攻撃部隊で1945年(昭和20)に三浦市の油壷に司令部がおかれました。
波左間基地は、傘下の第五十九震洋隊が配備につきましたが、震洋の格納や爆装などの整備に追われたことで海上での訓練は行われず終戦となりました。
跡地は、波左間海岸から背面部分の山にかけた場所で現在は大半が放置されている状態ですがわずかに格納壕などが残っています。 |
横須賀海軍鎮守府 香寺山洞窟砲台
所在 館山市香
収録遺構 (1) 地下壕 1
実地調査 2017年 9月
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香寺山洞窟砲台は、館山におかれた海軍施設の防衛を目的に太平洋戦争中に建設されました。
資料に乏しく、詳細は判っていない状況ですが構築途中で終戦を迎えたようです。
現在、跡地は鬱蒼とした山林になっていますが全面がコンクリート製の砲室を有する地下壕が残っています。 |
横須賀海軍鎮守府 第一特攻戦隊 洲ノ崎基地
所在 館山市波左間
収録遺構 (2) 地下壕 1, その他 1
実地調査 2007年 6月
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第一特攻戦隊は、太平洋戦争の戦局が圧倒的に劣勢となったことにともない、本土決戦に備え編成された特別攻撃部隊で1945年(昭和20)に三浦市の油壷に司令部がおかれました。
洲ノ崎基地は傘下の第五十九震洋隊が配備され震洋の格納壕をはじめ、燃料庫・兵器庫などがおかれていたようです。
現在、跡地は洲崎栄ノ浦港に変遷していますが震洋の格納壕と推測する壕が残っています。 |
陸軍東京湾兵団 竹原洞窟砲台
所在 館山市竹原
収録遺構 (3) トンネル 1, 地下壕 2
実地調査 2017年 1月
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東京湾兵団は太平洋戦争の末期にアメリカ軍が計画していた本土上陸作戦(コロネット作戦)に対抗するため1945年(昭和20)に編制され本土決戦に備えて第一総軍の第十二方面軍の傘下に入り、房総半島の君津・天津小湊以南に対する沿岸部の防備にあたりました。
この一環で竹原洞窟砲台は千倉方面の沿岸部の防衛を目的として傘下の九重地区隊が守備した砲台の 1つとして1944年(昭和19)に設置され15センチ榴弾砲が 2門据え付けられました。
現在、跡地は山林となっており草木に埋もれているものの坑道などが良好な状態で残ります。 |
西岬村役場 防空壕
所在 館山市見物
収録遺構 (1) 地下壕 1
実地調査 2006年 1月
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西岬村は、千葉県安房郡におかれた村の 1つで1889年(明治22)の町村制の施行により香村・見物村・波左間村などの12村が合併したことで発足し、見物地区に村役場が建設され終戦まで機能しました。
戦後、西岬村は館山市に編入して廃止となり、村役場も解体されているために現存しませんが太平洋戦争中に防空対策として重要書類などを保管する目的で庁舎背面に掘削された防空壕は残っており、見学することが可能です。
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