陸軍第四師団 工兵第四連隊
所在 高槻市城内町 1
収録遺構 (5) 門柱 2, 歩哨 1, 軍用地境界標 1, その他 1
実地調査 2019年 12月
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工兵第四連隊は、大阪市の第四師団に隷属する部隊として1909年(明治42)に編成され 平時は連隊の南側を流れる淀川を利用して架橋訓練を行ったり、連隊北側の山間部で射撃訓練などを行っていました。また、地元の土木工事や災害救助などにも活躍したそうですが、支那事変に伴って満州へ出征し、その後もフィリピン戦やガダルカナル戦などの厳しい戦闘に動員され、多数の死傷者を出しました。
現在は、連隊の跡地に城跡公園や第一中学校が建設されて整地されていますが、公園北西側の入口付近に当時の遺構が残存しています。 |
高槻陸軍埋葬地 (高槻陸軍墓地)
所在 高槻市天神町 2
収録遺構 (4) 軍用地境界標 2, その他 1, 墓標様
実地調査 2019年 12月
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高槻陸軍墓地は、現在の高槻市に展開した陸軍部隊の戦没者や戦病没者の墓地で1909年(明治42)に設置されました。
戦後、敷地は高槻市に払い下げられているため規模が縮小されているようですが、墓地は存続しており、現在も墓標様や軍用地境界標などを見ることが出来ます。 |
陸軍大阪憲兵隊 大手前憲兵分隊 高槻憲兵分遣隊
所在 高槻市大手町
収録遺構 (3) 門柱 1, 建物 1, 軍用地境界標 1
実地調査 2019年 12月
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高槻憲兵分遣隊は、高槻に陸軍部隊が展開したことで設置され、大阪憲兵隊に隷属しました。
憲兵とは軍事警察官のことで、軍の内部情報や情勢などが外部に漏洩しないように取り締まる役割を持ち、著作物の検閲や国民の言動・思想などに目を光らせていました。
現在、敷地のほとんどが住宅地となっており、ほとんど面影がありませんが、軍用地境界標や当時のものと考えられる遺構が残ります。 |