クリックするとTOP画面に戻ります
 東京都立川市の戦争遺跡一覧 (作成中ですっ) 収録遺構数:7 


陸軍航空本部
補給部
立川支部

 (立川陸軍航空支廠,
  立川陸軍航空廠)


 所在
  立川市緑町 ほか

 収録遺構 (1)
  軍用地境界塀 1

 実地調査
  2019 11







陸軍航空本部は、それまで各兵科の混成で編制されていた航空部門を航空力の増強に伴う航空兵科の独立によって、従前の航空部が昇格したことで1925年(大正14)に発足した機関で、その内部部門である補給部所沢支部の移転によって1933年(昭和 8)に立川支部が設置されました。

その後、さらなる陸軍航空兵科の拡充によって補給部に対する権限が段階的に強化され、航空支廠に改編されたのち、1935年(昭和10)の組織改正で航空廠として独立しました。

ここでは、航空に関連する器材類や燃料などの調達・保管・補給と、これに関わる器材の補修などが行われており、約 4,000名の人員が従事していたようです。

戦後、敷地はアメリカ軍により接収され、空軍立川基地として使われましたが、1977年 (昭和52)に全面返還され、現在は大部分が国営昭和記念公園として活用されており、敷地の南側に軍用地境界塀がわずかに残っています。


石川島飛行機製作所
立川工場

 (立川飛行機
  立川工場)


 所在
  立川市泉町 ほか

 収録遺構 (6)
  建物 6

 実地調査
  2007 6
  (継続調査中)
  2007年時点の詳細をご紹介します







石川島飛行機製作所は、航空機の設計や製作を事業目的に設立された民間会社で 1924年(大正13) に石川島造船所を母体として東京の月島に工場が設置されました。

1930年(昭和 5)に入り、陸軍から航空機製造の要請を受け中間練習機の開発を行うようになり九五式一型練習機などの製造に携わりました。また、陸軍航空部隊の中核拠点であった立川へ工場を移転し、陸軍との関わりを深めるようになり、移転地に因んで「立川航空機」に社名を変更しました。

太平洋戦争に突入すると航空機の増産を迫られ中島飛行機で製造された一式戦闘機などの転換生産を行う傍らで高高度戦闘機であるキ94の開発と試作が行われましたが、量産にいたらず終戦となりました。

終戦時、在籍人員は40,000名以上・生産実績は
 5,000機以上を誇る工場の敷地はアメリカ軍に接収され、航空機製造事業から撤退することになりましたが、その後の日本の航空事業再開で立飛工業に社名を変更して軽飛行機の製造や、不動産事業を展開する企業として存続しており敷地内には当時の工場として使用された建物がいくつか残っています。

 Music By ―― Music is VFR

東京都 都市選択画面に戻ります
Create By  YUMMY-LTDGRP.
inserted by FC2 system