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 神奈川県相模原市の軍事遺跡一覧 (作成中ですっ) 収録遺構数:41 


 陸軍本科士官学校

 (相武台陸軍士官学校)


 所在
  南区新戸 ほか

 収録遺構 (8)
  軍用地境界標 2,
  橋梁 2
  建物(消失) 1,
  トンネル(消失) 1,
  軍用地境界標(消失) 1,
  橋梁(消失) 1

 実地調査
  2016年 7月

  2016年時点の詳細をご紹介します








陸軍本科士官学校は、少尉以上の階級を対象に
養成を行う教育機関で、当初は東京の市ヶ谷に
おかれていた士官学校が、生徒の増加に伴って
敷地が手狭になってしまい1936年(昭和11)に
このうちの本科を座間へ移設拡張させることで
問題を解決させました。

本科士官学校施設のほとんどは、座間市に設置
(米軍座間キャンプ)されていましたが、一部が
相模原市にも跨っており軍用地境界標を中心に遺構が少し残っています。



 陸軍本科士官学校
 演習場

 (相武台陸軍士官学校
  演習場)


 所在
  南区磯部 ほか

 収録遺構 (9)
  軍用地境界標 9

 実地調査
  2012年 7月

  2012年時点の詳細をご紹介します





陸軍本科士官学校演習場は1936年(昭和11)に
市ヶ谷から本科士官学校の移転に伴って校舎に
隣接する形で設置され、その敷地規模は現在の
麻溝台・相模台・磯野・新磯野の全域にわたる
広大なものでした。

ここでは「砲」「工」「歩」「騎」「戦車」の
兵科 (ちなみに、これら各兵科の総称は「地上
兵科」といいます★) 演習が行われました。

現在、跡地は米軍座間キャンプや相模原公園・
女子美術大学などとなっていますが、麻溝台の
南側を中心に軍用地境界標が残存しています。

 陸軍工科学校

 (陸軍兵器学校)


 所在
  中央区淵野辺 1

 収録遺構 (4)
  建物 1,
  軍用地境界標 2
  建物(消失) 1

 実地調査
  2016年 7月











陸軍工科学校は、主に技術系に従事する将校や
下士官などに対して、陸軍兵器の修理や弾薬の
調製を中心とした教育を施す機関として開設し
当初は東京の文京区に施設をおいていましたが
用地が手狭となったため、1938年(昭和13)に
移転拡張の形をとり相模原へ移ってきました。
移転当初は、兵器に関係する調査や研究などが
行われていましたが1940年(昭和15)に「陸軍
兵器学校」と改称されてからは、戦局上の重要
課題でもあった食糧増産に関係する研究なども
行われていたそうです。

現在、跡地は市立大野北小・中学校や防衛省の
技術研究所・麻布大学などに変遷していますがわずかに遺構が残っています。



畝傍:残念です・・・
写真の木造建物は2009年
時点までは公民館として
使用していた当時の建物
ですが、現在は消失して
マンションが建っており
跡形もありません・・▲

 陸軍通信学校


 所在
  南区文京 1 ほか

 収録遺構 (17)
  建物 5,
  門柱 1,
  建物基礎 1,
  地下施設 1,
  その他 9

  実地調査
  2015年 10月
  2015年時点の詳細をご紹介します


直美:多分、土壇場でもOKよっ★
遺構は、相模女子大学の
キャンパス内にあるので
見学は事前申請が必要と
なりますが、守衛さんに
主旨を話せば土壇場でも
OKかもっ♪                








陸軍通信学校は、無線通信に関係する機器類の
取り扱いや通信技術の教育を行うことを目的に
開設された教育機関で、設立時は東京の中野に
施設がおかれていましたが、生徒の増加に伴い
演習場が手狭となったため、この時に新設した
相武台の本科士官学校演習場に目をつけて、
1939年(昭和14)に相模原へ移りました。

ここでは、通信に関わる学理・技術の修得や、
軍用鳩の育成などが行われ、終戦の閉鎖までに
3,000名近い生徒が教育を受けました。

現在、跡地は相模女子大学や市営団地・大野南
中学校などに変遷していますが、このうち相模
女子大学内に当時の遺構が残っています。

この他、相模大野周辺に
原町田陸軍病院や、電信
第一連隊がありましたが
遺構は消失しています▲

調査が遅かったか・・・
祐実:調査が遅かったかっ・・・
安芸:私の家はこの駅なのよっ♪

ちなみに 1日16万人が
利用する相模大野駅は
通信学校の移転により
開業した駅で、当時の
駅名は通信学校です★

 臨時東京第三陸軍病院


 所在
  南区桜台 ほか

 収録遺構 (1)
  軍用地境界標 1

 実地調査
  2008年 6月




臨時東京第三陸軍病院は、増大する戦地からの傷病兵に対して、臨時で収容する目的で1938年(昭和13)に開院しました。

ここは臨時に開設された病院という位置づけで規格が戦地の野戦病院と同等であったものの、54の病棟を新設して2,767床が確保されており最大収容患者数が5,000名を超え、東日本では最大級の病院をほこり、太平洋戦争の終戦まで機能が存続しました。

終戦後、敷地は現在の厚生労働省に移管され、独立行政法人国立病院機構相模原病院に変遷し当時の建物などは消失していますが敷地外周に軍用地境界標が 1つだけ残っています。

 厚木防空監視隊
 川和防空監視哨


 所在
  緑区根小屋

 収録遺構 (1)
  建物 1

 実地調査
  2018年 2月




川和防空監視哨は、厚木防空監視隊が統轄した防空監視哨の 1つで、太平洋戦争の開戦直後に設置されたようです。

ここでは青根防空監視哨とともに、上空に接近する敵の飛行機の種類を音で聞き分け報告する任務につきました。

現在、跡地は山林になっていますが山頂付近に関連する建物が 1つだけ残っており、案内板が設けられて保存されています。

 厚木防空監視隊
 青根防空監視哨


 所在
  緑区青根

 収録遺構 (1)
  その他 1

 実地調査
  2018年 2月




青根防空監視哨は、厚木防空監視隊が統轄した防空監視哨の 1つであり1941年(昭和16)頃に設置されたようです。

ここでは、上空に接近する敵の飛行機の種類を音で聞き分けて報告する任務につきました。

現在は道志や津久井の集落が見渡せる展望台になっていますが、聴音壕と呼ばれる探知施設の丸穴が残っており保存されています。

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