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 群馬県太田市の戦争遺跡一覧 収録遺構数:5 


陸軍高射第一師団
独立高射砲兵第四大隊
下小林高射砲台


 所在
  太田市石原町

 収録遺構 (1)
  砲座 1

 実地調査
  2013 5





高射第一師団は、本土決戦の準備の一環でそれまでおかれた東部高射砲部隊の改変で編成されたうちの 1つで、主に関東周辺の戦略拠点の防備を目的として 1944年(昭和19) に開設され、隷下の独立高射砲兵第四大隊が中島飛行機を中心とした太田市内の軍需工場の防衛にあたり、周辺に高射砲が
 3箇所設置されました。

このうち下小林高射砲台は九九式 8センチ高射砲が 6門据え付けられ、現在はイオンモールの開業によって整地されていますが
 1つの砲座が破壊を免れ、移設したうえで保存されています。

中島飛行機
太田製作所


 所在
  太田市石原町

 収録遺構 (3)
  門柱 1,
  建物 1,
  地下壕 1

 実地調査
  2013 5









中島飛行機は、元海軍の中島知久平大尉によって設立された民間の航空機メーカーの
 1つで、前身の飛行機研究所・日本飛行機製作所を経て、1917年(大正 6)に設立され現在の太田市に製作工場がおかれました。

昭和に入ると近代戦の主力が航空機となり陸軍・海軍からの戦闘機需要が急激に伸び生産能率が悪くなったため武蔵野製作所の新設を皮切りに、全国各地に工場がおかれ制式採用された疾風の製作や、三菱で設計された零戦の量産なども携わり、東洋最大の工場規模にまで上りつめました。

太平洋戦争の末期は航空機工場の国営化で中島飛行機は第一軍需工廠となりますが、アメリカ軍による戦略爆撃の目標とされて空襲を受けるようになり工場機能の疎開や周辺の山下に地下工場も建設されました。太田製作所については、工場の北東に位置する山林内に、計画面積が 214,000uにも及ぶ地下工場の建設が開始されましたが、計画の半分ほど掘り進めたところで終戦となりました。なお、掘削に従事した方々の中には、朝鮮人や中国人が含まれており、突貫工事で進められたようです。

終戦時点で太田製作所は数度の空襲により工場の80%以上が消失し、地下工場も掘削途中で事実上は壊滅となり、中島飛行機は進駐軍により航空機の生産を禁止され財閥会社としても解体させられて多くの工場が自動車産業へ転身し、現在は富士重工業となっており、太田製作所は富士重工業群馬製作所に転用されています。

現在も工場内に残存する当時の遺構として本館に使用された建物や門柱などがあり、計画総延長が 5km以上に及んだ地下工場も八王子山公園内に補強された坑口が 1箇所残り、わずかに痕跡を確認することが可能ですが、全ての坑道が完全に水没している状態です。

熊谷陸軍飛行学校
新田分教所


 所在
  太田市
  新田市野倉町

 収録遺構 (1)
  建物基礎 1

 実地調査
  2013 5





熊谷陸軍飛行学校は下士官や少年飛行兵に対し、飛行機の操縦方法や技術などを教育するために開設された教育機関で、戦局に沿って飛行兵を拡充させる目的で、1938年(昭和13)に新田分教所が設置されました。

太平洋戦争末期は中島飛行機太田製作所を狙った空襲に併せて爆撃されたことで学校機能を喪失し終戦を迎えました。

現在、跡地の大半が農地となっているため当時の面影が全くない状況ですが、敷地の北側にあたる畑の一角に建物跡と思われるコンクリート製の基礎が残存しています。

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