陸軍第十五師団 野戦重砲兵第二連隊 (陸軍第三師団 野戦重砲兵第二連隊)
所在 三島市文教町 2
収録遺構 (4) 建物 1, 門柱 1, 歩哨 1, 軍用地境界塀 1
実地調査 2013年 3月
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野戦重砲兵第二連隊は、第十五師団に隷属する部隊で、横須賀におかれた要塞砲兵第一連隊の改編によって誕生し、1918年(大正7)に三島へ移転して兵営が設置されました。
のち、1925年(大正14)の軍縮で第十五師団の廃止にともなって第三師団の隷属に変更され、1932年(昭和7)に発生した上海事変を皮切りに出征し、中国戦線の主要作戦に参加して戦果を挙げた後は満州の防衛にあたっていましたが、1945年(昭和20)に入ると戦況悪化と防衛線の後退が続き、日本本土での決戦を想定せざるを得ない状況に陥ったため、日本に帰還したのち本土防衛軍として編成された第五十三軍の傘下部隊として相模湾と駿河湾の防備につきますが本土決戦となる前に終戦となりました。
現在、連隊跡地は市立北中学校や日本大学など教育機関に変遷していますが、煉瓦製の門柱やコンクリート製の歩哨などが残っており、見学することが可能です。 |
陸軍第十五師団 野戦重砲兵第三連隊 (陸軍第三師団 野戦重砲兵第三連隊)
所在 三島市文教町 1 ほか
収録遺構 (4) 門柱 2, 歩哨 2
実地調査 2013年 3月
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野戦重砲兵第三連隊は、第十五師団に隷属する部隊で、和歌山におかれた要塞砲兵第二連隊の改編によって誕生し、1920年(大正9)に三島へ移転して兵営が設置されました。
のち、1925年(大正14)の軍縮で第十五師団の廃止にともなって第三師団の隷属に変更され、1932年(昭和7)に発生した上海事変を皮切りに出征し、中国戦線の主要作戦に参加して戦果を挙げ、1941年(昭和16)以降の太平洋戦争ではマレー半島制圧をはじめとする諸作戦に参加し最後は東南アジアのティモール島の防備につき終戦となりました。
現在、連隊跡地は県立三島北高校や市立三島北小学校などになっていますが、煉瓦製の門柱やコンクリート製の歩哨などが残っており、見学することが可能です。
| ちなみに、第三連隊の敷地 西側は広大な演習場が展開 していましたが、関連する 遺構は残っていないようで 敗走しましたっ▲
何か情報をお持ちでしたら 是非教えてくださいねっ★ |
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三島陸軍埋葬地 (三島陸軍墓地)
所在 三島市加茂川町
収録遺構 (6) 門柱 1, 軍用地境界標 4, その他 1
実地調査 2013年 3月
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三島陸軍埋葬地は、三島に展開した陸軍部隊の戦没者や戦病没者の方々が埋葬されている陸軍墓地です。
現在は、残念ながら墓標様はない状態ですが、三島市遺族会によって忠魂碑が設置されており整備されています。
また、当時の遺構として門柱や軍用地境界標・石柱列が残っており見学することが可能です。
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陸軍名古屋憲兵隊 三島憲兵分隊 (陸軍東海憲兵隊司令部 静岡憲兵隊 三島憲兵分隊)
所在 三島市一番町
収録遺構 (1) 軍用地境界標 1
実地調査 2013年 3月
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三島憲兵分隊は、三島に野戦重砲兵第二連隊と野戦重砲兵第三連隊が展開したことで設置され名古屋憲兵隊に隷属しました。
憲兵とは軍事警察官のことで、軍の内部情報や情勢などが外部に漏洩しないように取り締まる役割を持ち、著作物の検閲や国民の言動・思想などに目を光らせていました。
現在、跡地は商工会議所や住宅地などになっていますが、敷地の南東端付近に軍用地境界標が 1つだけ残存しています。
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独立混成第一一七旅団 抵抗拠点陣地
所在 三島市三ツ谷新田
収録遺構 (1) 砲座 1
実地調査 2020年 12月 (継続調査中)
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独立混成第一一七旅団は、1945年(昭和20)に編成され、独立歩兵第七〇七大隊から独立歩兵第七一二大隊の6個部隊を基幹としました。
その後は司令部を現在の沼津市に移して、第一総軍第十二方面軍に所属した第五十三軍の傘下部隊として、来たる本土決戦に備えて駿河湾の防衛任務につきましたが、富士・沼津・三島の山中で抵抗拠点となる陣地を構築途中に終戦となりました。
現在のところ、三島市については三ツ谷新田に15センチカノン砲を 2門配備するための陣地の残存を確認しています。
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