陸軍近衛師団 歩兵第三連隊
所在 港区赤坂 5 ほか
収録遺構 (3) 軍用地境界標 3
実地調査 2012年 7月
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歩兵第三連隊は、天皇と皇居を防衛するためにこの前身の宮城部隊 (薩摩・長州・土佐の 3藩から構成された御親兵) の再編成と改称により近衛師団に隷属する部隊として 1891年(明治24)に開設されました。戦歴も古く、1895年(明治28)の台湾植民地戦争から参加し、のちの日露戦争でも主要戦闘の列に加わっています。また、1936年(昭和11)の二・二六事件では、青年将校の一部が反乱軍に加担し高橋是清外務大臣などを暗殺しており、その後も支那事変や太平洋戦争に出征し、大きな犠牲を出してスマトラ島で終戦を迎えました。現在、連隊跡地はTBSなどに変遷していますが、敷地北限を示す軍用地境界標が 3つ残っています。
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陸軍近衛師団 歩兵第四連隊
所在 港区北青山 2 ほか
収録遺構 (2) 軍用地境界標 2
実地調査 2007年 1月
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歩兵第四連隊は、天皇と皇居を防衛するためにこの前身の宮城部隊の再編成で 1891年(明治24)に近衛師団隷下となりました。戦歴は近衛歩兵第三連隊と共に台湾植民地戦争が初出征で日露戦争では第一軍の傘下に入って主要戦闘に参加したほか、支那事変や太平洋戦争に出征し多大な戦死傷者を出して設営先のスマトラ島で終戦を迎えています。
現在、連隊跡地は都営桐ヶ丘団地や国学院高校などになっており、面影が全くありませんが、敷地の東限部分に軍用地境界標が 2つ残存しています。
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陸軍大将 乃木希典邸
所在 港区 赤坂 8-11-32
収録遺構 (2) 建物 2
実地調査 2007年 1月
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乃木希典大将は麻布の長州藩上屋敷で1849年(嘉永 2)に生まれました。21歳の時に、藩命で伏見の御親兵営に入り昇進を重ねていき、西南戦争では熊本鎮台の歩兵第十四連隊の連隊長を務めました。その後、静子婦人と結婚し長男が生まれた際、この地に邸宅を設けました。
乃木希典大将と静子夫人との間に第 2子が誕生した後は、軍事教育の一環でドイツに留学し、日清戦争では第一師団の歩兵第一旅団長として大山巌大将が率いる第二軍の傘下に入り、旅順攻略戦・威海衛作戦での勝利に貢献しました。
日清戦争後、中将に昇進して台湾総督府に赴任しますが、手腕を発揮出来ずに休職し予備役に編入されて百姓生活を送りますが、日露戦争に突入すると大本営の山県有朋参謀総長の推挙で再び返り咲いて第三軍の司令官に就き、最大の死傷者を出した旅順攻略戦以降の諸戦闘に参加しました。
日露戦争以降は伯爵となり、明治天皇の思召で学習院の院長を任じられましたが、明治天皇の崩御後の1912年(大正元) 9月13日の御大葬の当日に、静子婦人と共に邸宅で自刃して生涯を閉じました。その時の遺言により邸宅は当時の東京市に寄付されて現在に至っており、港区の文化財に指定されて邸宅と馬小屋が保存されています。
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陸軍第一師団 歩兵第一連隊
所在 港区六本木 4 ほか
収録遺構 (1) 軍用地境界塀 1
実地調査 2012年 7月
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歩兵第一連隊は、師団編成の前身にあたる東京鎮台に隷属した部隊で、その後の改編をうけて1874年(明治 7)に第一師団隷下となります。戦歴も古く、西南戦争や日清戦争・日露戦争に出征し、1936年(昭和11)の二・二六事件では青年将校の一部が反乱軍に加担し高橋是清外務大臣などを暗殺しました。また、太平洋戦争でフィリピンへ出征し、レイテ島の戦いでは壊滅状態に陥ったのちセブ島の防備について終戦を迎えました。
現在、連隊跡地は東京ミッドタウンなどとなり開発によって遺構のほとんどが消失しましたが檜町公園の向かい側にあるブリヂストン三河台アパート内に軍用地境界塀が残存しています。
塀は重厚なレンガ製で、希少なフランス積みが約80メートルにわたり見ることが出来ます。資料によると、檜町公園内にも射撃場の外壁が残存していたようですが、2007年(平成19)の時点で消失してしまったようです。 |
陸軍第一師団 歩兵第三連隊 (陸軍第二十八師団 歩兵第三連隊)
所在 港区六本木 7 ほか
収録遺構 (1) 建物 1
実地調査 2008年 4月
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歩兵第三連隊は、師団編成の前身にあたる東京鎮台に隷属した部隊で、その後の改編をうけて1874年(明治 7)に第一師団隷下となります。戦歴も古く、西南戦争や日清戦争・日露戦争に出征し、1936年(昭和11)の二・二六事件では青年将校の一部が反乱軍に加担し高橋是清外務大臣などを暗殺しました。その後、上位部隊が第二十八師団に変更され、満州の北部に兵営が移されますが、太平洋戦争の戦況が逼迫すると沖縄の宮古島の防備につき終戦を迎えました。
現在、連隊跡地は国立新美術館となっており、兵舎の一部分だけが保存されています。
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大蔵省東京病院 防空壕
所在 港区三田 1
収録遺構 (1) 地下壕 1
実地調査 2007年 5月
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東京病院は、大蔵省管轄の病院として1933年(昭和 8)に開院し、終戦まで存続しました。
戦後、数度の改称を経て、現在は国際医療福祉大学三田病院となっていますが、病院の南側にあたる斜面に戦時中に使われていたと思われる防空壕の封鎖痕が残っています。
防空壕は入口部分が全て封鎖されているため、内部の状況や規模などは判りませんが、病院の南側に位置する小山の下を貫通しているように見えます。
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