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 福岡県北九州市の軍事遺跡一覧 (作成中ですっ★) 収録遺構数:165 


 陸軍下関要塞
 手向山砲台


 所在
  小倉北区赤坂 4

 収録遺構 (18)
  砲座 6,
  観測所 2,
  地下施設 7,
  その他 3

 実地調査
  2017年 2月

  2017年時点の詳細をご紹介します







下関要塞は関門海峡・周防灘一帯の沿岸防備を目的として構築された強力な火砲群と、これに付帯する施設群の集合体です。これらは、下関地区と北九州地区にそれぞれ配備され連携して敵艦船を撃滅させるための強力な火力網を形成していました。また、後には日本と朝鮮半島や満州との間を守るため玄界灘の島々にも砲台が設置され、壱岐要塞や対馬要塞と協力して朝鮮海峡全体を防衛するように拡大されています。

手向山砲台は、下関要塞の中でも 2番目に早く建設工事が開始され1888年(明治21)に竣工し24センチ臼砲が12門据え付けられました。

現在、砲台の跡地は手向山公園として整備され地下施設は立ち入り出来なくなっているものの多くの遺構が残っており簡単に見学することが可能です。


現在、手向山砲台跡は
手向山公園として整備
されているため簡単に
見学出来ますっ★

アプローチも簡単だし
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 那瑠絵:みんなもどうやろうかっ★

 陸軍下関要塞
 手向山電灯所


 所在
  小倉北区赤坂 4

 収録遺構 (4)
  建物 1,
  建物基礎 1,
  その他 2

 実地調査
  2017年 2月

  2017年時点の詳細をご紹介します





手向山砲台の北西には、夜間の敵艦船の侵入を把握するため、下関要塞に付帯する施設として電灯所が設置されていました。

電灯所とは、探照灯(サーチライト)を運用する施設のことで、夜間の砲撃に必要不可欠となるものでした。

ここには90センチ探照灯が設置されて夜間に関門海峡を通過する艦船を照射し手向山砲台の観測所から確認出来るようにしていました。

現在、電灯所の跡地は手向山公園となっており探照灯座や電灯機関舎などの遺構を簡単に見学することが出来ます。

 陸軍下関要塞
 古城山砲台


 所在
  門司区門司

 収録遺構 (3)
  観測所 1,
  軍用地境界標 1,
  その他 1

 実地調査
  2017年 2月









古城山砲台は下関要塞の 1つで、周防灘方面の防備のため1890年(明治23)に竣工しました。

ここには、24センチ臼砲が10門据え付けられて首線は北東50度を向いていました。

現在、砲台跡はめかり公園の展望台と駐車場に変遷しており、当時の遺構の大半は整地されて消失していますが左翼観測所と付帯する遺構がわずかに残っています。

 陸軍下関要塞
 古城山堡塁


 所在
  門司区門司

 収録遺構 (3)
  地下施設 1,
  その他 2

 実地調査
  2017年 2月









古城山堡塁は下関要塞の 1つで、陸地の防備を目的に古城山砲台の北方150メートルの山頂に構築されました。

ここは、戦時に限り小口径の火砲を据え付けて守備を予定していた小規模な堡塁であったため特に備砲されることはなかったようです。

現在、堡塁跡はめかり公園に変遷していますがわずかに当時の遺構が残っています。

 陸軍下関要塞
 笹尾山砲台


 所在
  門司区大里

 収録遺構 (10)
  砲座 1,
  観測所 1,
  建物 1,
  建物基礎 1,
  地下施設 4,
  軍用地境界標 2

 実地調査
  2020年 12月

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笹尾山砲台は下関要塞の 1つで、本州と九州を隔てる水路である大瀬戸の防備のため1889年(明治22)に竣工しました。

ここには28センチ榴弾砲が10門据え付けられましたが1904年(明治37)の日露戦争において2門(6門ともいわれています)を対馬要塞へ移し明治末期に廃止されました。

現在、砲台跡は山林や耕作放棄地などに変遷し当時の遺構の大半は消失しているようですが、掩蔽部や観測所・付属遺構などがわずかに残り見学が可能です。

 陸軍下関要塞
 富野堡塁


 所在
  小倉北区
  小文字 1 ほか

 収録遺構 (9)
  地下施設 8,
  軍用地境界標 1

 実地調査
  2017年 2月

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富野堡塁は下関要塞の 1つであり手向山砲台の南西に位置する標高90メートルの稜線突角に設けられた側防用の堡塁で、高蔵山堡塁に続き中条・黒原・足原・小倉方面を射撃し、手向山砲台と笹尾山砲台の側防を目的として1889年(明治22)に完成しました。

ここには、12センチカノン砲を8門据え付けて2門ずつを1砲座とし、首線は第一砲座が南西80度に対し第四砲座が南西50度で各砲座間に10度ずつ変化を出すように構築されました。

現在、堡塁の跡地には軽費老人ホーム望玄荘や展望台などが建てられて整地されているものの地下施設を中心とした遺構が残っています。

 陸軍下関要塞
 高蔵山堡塁


 所在
  小倉南区沼 ほか

 収録遺構 (30)
  門柱 1,
  砲座 6,
  地下施設 14,
  建物基礎 3,
  軍用地境界標 2,
  その他 4

 実地調査
  2020年 12月

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高蔵山堡塁は下関要塞の 1つで周防灘方面から上陸する敵に対して射撃し、手向山笹尾山の背面を防御することを目的として1900年(明治33)に竣工しました。

ここには、12センチカノン砲が6門と15センチ臼砲が6門据え付けられていたほか、機関砲が4門配備されました。

現在、跡地は山林に変遷していますが、当時の遺構が多く残っています。

 陸軍下関要塞
 矢筈山堡塁


 所在
  門司区大里

 収録遺構 (23)
  砲座 5,
  地下施設 10,
  トンネル 1,
  軍用地境界標 4,
  その他 3

 実地調査
  2017年 2月

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矢筈山堡塁は下関要塞の 1つであり関門海峡に面する大里方面からの背面防御を目的として、1895年(明治28)に建設が開始されました。

ここには 9センチ臼砲が 4門のほか、15センチ榴弾砲が 6門据え付けられ防備につきましたが1925年(大正14)に廃止となりました。

現在は矢筈山の青少年キャンプ場となっており砲座や弾薬庫などの多くの遺構群が保存されて有効に活用されています。

 門司出征軍馬水飲場


 所在
  若松区響町 1

 収録遺構 (1)
  その他 1

 実地調査
  2017年 2月






門司港は、明治時代から九州の玄関口としての役割をもち、戦前より交通の要所でした。

特に戦時中は多くの兵士や軍用馬などが戦地へ渡るための重要な前線港として機能しました。

そのため、現在の門司港レトロ地区には倉庫や商用施設などが建設されたほかに、出征軍馬の水飲み場が周辺におかれていました。

現在は観光地として整備されているため多くの歴史的建造物が保存されてますが、その中には出征軍馬の水飲み場も 1箇所だけ含まれており見学が可能です。

 陸軍第十二師団
 師団司令部


 所在
  小倉北区城内

 収録遺構 (3)
  門柱 1,
  その他 2

 実地調査
  2017年 2月

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第十二師団は日清戦争の後に日本の軍備増強の必要性から新設された 6師団のうちの 1つで、1898年(明治31)に現在の北九州市で編制され小倉城跡に司令部が設置されました。

戦歴も古く、日露戦争では第一軍の隷下部隊に編入され遼陽会戦沙河会戦奉天会戦などの大会戦に参戦し、大正中期のシベリア出兵でも浦塩派遣軍の隷下部隊として参戦していますが1925年(大正14)の軍縮により配置転換となり久留米に移駐となりました。

現在、跡地は小倉城跡を擁する勝山公園となり整地されていますが、当時の正門が残っており簡単に見学することが出来ます。

 陸軍第十二師団
 歩兵第十二旅団
 旅団司令部


 所在
  小倉北区城内

 収録遺構 (1)
  門柱 1

 実地調査
  2017年 2月






歩兵第十二旅団は陸軍の師団編成の前身である熊本鎮台に隷属した部隊で、歩兵第十四連隊と歩兵第二十四連隊を傘下として、1885年(明治18)に司令部が福岡におかれました。

1898年(明治31)に入り軍備増強の必要性から新設された第十二師団が現在の北九州市に設置されると傘下となって小倉城跡に旅団司令部が移されますが1925年(大正14)の軍縮で第十二師団が久留米に移駐すると再び福岡に司令部が移されました。

現在、跡地は小倉城跡を擁する勝山公園となり整地されていますが、当時の門柱が残っており簡単に見学することが出来ます。

 陸軍第十二師団
 歩兵第四十七連隊

 (陸軍第十二師団
  歩兵第十四連隊 ほか)


 所在
  小倉南区北方 5

 収録遺構 (3)
  建物 3

 実地調査
  2017年 2月

  2017年時点の詳細をご紹介します





歩兵第四十七連隊は第十二師団に隷属する基幹部隊として1898年(明治31)に編成され北方に新設された兵営に入りました。

その後は、第十二師団の隷下として日露戦争シベリア出兵にも従事しましたが、大正末期の軍縮によって所属が第六師団に変更され大分に移駐となりました。

昭和時代に入り歩兵第十四連隊をはじめとする部隊が移り引き続き兵営が使われますが満州へ移駐となり、その後は留守部隊が兵営を使用し補充や特設連隊の創設などが行われました。

現在、跡地は陸上自衛隊小倉駐屯地に変遷し、将校集会所をはじめとする建物が残ります。



 陸軍第十二師団
 騎兵第十二連隊


 所在
  小倉南区北方 5

 収録遺構 (2)
  建物 2

 実地調査
  2017年 2月

  2017年時点の詳細をご紹介します





騎兵第十二連隊は第十二師団に隷属する部隊で1898年(明治31)に編成されました。

戦歴も古く、日露戦争青島攻略戦シベリア出兵に従事しますが1925年(大正14)の軍縮で久留米へ移駐となりました。

現在、跡地は陸上自衛隊小倉駐屯地に変遷していますが敷地内に当時のものとおぼしき建物が残存しています。

 陸軍第十二師団
 工兵第十二大隊


 所在
  小倉南区
  南若園町 1 ほか

 収録遺構 (2)
  トンネル 1,
  軍用地境界塀 1

 実地調査
  2017年 2月

  2017年時点の詳細をご紹介します





工兵第十二大隊は第十二師団に隷属した部隊で1897年(明治30)に編成地の熊本市内から小倉市内に新設された兵営へ移駐しました。

戦歴も古く、日露戦争青島攻略戦シベリア出兵に従事しますが1925年(大正14)の軍縮で第十二師団が久留米へ移駐となった際に廃止となりました。

現在、兵営跡には市立企救中学校や北九州医療刑務所などが建ち面影がありませんが、当時の遺構がわずかに残ります。

 陸軍第十二師団
 輜重兵第十二大隊


 所在
  小倉南区若園 5

 収録遺構 (1)
  軍用地境界塀 1

 実地調査
  2022年 12月







輜重兵第十二大隊は第十二師団の隷属部隊で、1898年(明治31)に編成されました。

戦歴も古く、日露戦争青島攻略戦シベリア出兵に従事しますが1925年(大正14)の軍縮で第十二師団が久留米へ移駐となった際に廃止となりました。

現在、跡地は県立北九州高等学校や住宅などが建ち面影が全くありませんが遺構と考えられる煉瓦で造られた塀の一部が残ります。

 小倉陸軍衛戍病院
 (小倉陸軍病院)


 所在
  小倉南区春ケ丘

 収録遺構 (2)
  軍用地境界標 1,
  その他 1

 実地調査
  2022年 12月







小倉衛戍病院は、第十二師団の付属病院としてこの前身である営所病院からの改称で設置され現在の春ケ丘地区に移ってきました。

昭和時代に入り小倉陸軍病院に改称されますが病院の機能は変わらず終戦まで存続しました。

現在、跡地は国立病院機構小倉医療センターに変遷して面影がなくなっていますが、西端部に軍用地境界標や区画のための石垣が残ります。

 小倉陸軍墓地


 所在
  小倉北区
  黒原 1 ほか

 収録遺構 (5)
  軍用地境界標 3,
  その他 2

 実地調査
  2017年 2月

  2017年時点の詳細をご紹介します





小倉陸軍墓地は、北九州市に展開していた陸軍部隊の戦没者や戦病没者の方が埋葬されている陸軍墓地で、それまで小倉地区におかれていた2箇所の墓地が手狭となったことにより1942年(昭和17)に黒原地区へ集約移転の形をとり設置されました。

ここには、半地下式の納骨堂を有する忠霊塔が建立されて約 4,500の御霊様が祀られ、現在も忠霊塔の周辺は公園として整備されているため春には桜が咲き誇る花見の名所となっており、多くの市民に親しまれているそうです。

 小倉衛戍監獄

 所在
  小倉南区
  城野 1 ほか

 収録遺構 (1)
  軍用地境界標 1

 実地調査
  2021年 7月





衛戍監獄は戦争犯罪などをおこした軍人を収容するための軍事刑務所で、現在の北九州市内に第十二師団が展開したことで設置されました。

戦後は城野医療刑務所を経て現在は商業施設に変遷しており面影が全くありませんが、敷地の南西端にあたる住宅地内に軍用地境界標が1本残存しています。

 陸軍造兵廠
 小倉工廠

 (小倉陸軍造兵廠)


 所在
  小倉北区
  金田 1 ほか

 収録遺構 (20)
  門柱 2,
  建物 2,
  軍用地境界塀 4,
  軍用地境界標 5,
  地下施設 1,
  地下壕 3,
  その他 3

 実地調査
  2021年 7月

  2021年時点の詳細をご紹介します








小倉工廠は、1923年(大正12)に発生した関東大震災により倒壊した東京砲兵工廠の復旧と、当時の地政学的意義などにより設置された兵器工場で、この前身である小倉兵器製造所からの改編により開設されました。

ここでは、小銃や機関銃・砲弾類などを製造し1940年(昭和15)の組織の改正で小倉造兵廠に改称され、約176,000坪の敷地内に約300棟の工場が並び最盛期で約40,000名の工員が従事していたようです。

現在、跡地には北九州市役所などの行政機関や病院・マンションなどが建ち並んでいますが、わずかに当時の遺構が残存しています。

 陸軍高射第四師団
 高射砲兵第一三一連隊
 牧山高射砲台


 所在
  戸畑区牧山 3

 収録遺構 (3)
  砲座 2,
  その他 1

 実地調査
  2022年 1月









牧山高射砲台は、八幡製鉄所と周辺におかれた軍需工場群を防衛するため1941年(昭和16)に建設が開始されました。

ここには、高射第四師団の隷属部隊である高射砲兵第一三一連隊の 1中隊が展開し、7センチ高射砲が 6門設置されていたほか、広い範囲に陣地が築かれていたようです。

現在、砲座周辺は牧山展望公園として整備され面影がありませんが、公園内に遺構が少しだけ残っています。

 陸軍高射第四師団
 高射砲兵第一三一連隊
 皇后崎高射砲台


 所在
  八幡西区青山 2

 収録遺構 (4)
  その他 4

 実地調査
  2017年 2月

  2017年時点の詳細をご紹介します





皇后崎高射砲台は八幡製鉄所と周辺におかれた軍需工場群を防衛するため1941年(昭和16)に建設が開始されました。

ここには、西部高射砲集団からの改編によって編制された高射第四師団に隷属する部隊である高射砲兵第一三一連隊が防備を担当し 8センチ高射砲が 6門設置されていました。

現在、砲座周辺は住宅地に変遷しており当時の面影がありませんが、皇后崎公園の敷地内には関連していたものと推測する遺構が残っており見学することが出来ます。

 陸軍高射第四師団
 高射砲兵第一三二連隊
 大蔵高射砲台


 所在
  八幡東区羽衣町

 収録遺構 (3)
  その他 3

 実地調査
  2022年 1月









大蔵高射砲台は、八幡製鉄所と周辺におかれた軍需工場群を防衛するため1944年(昭和19)に建設が開始されました。

ここには、高射第四師団の隷属部隊である高射砲兵第一三二連隊の 1中隊が展開し、8センチ高射砲が 6門設置されていました。

現在、砲座周辺は勝田公園や住宅地に変遷して整地されているため面影が全くありませんが、当時のものと推測する遺構が残ります。

 陸軍高射第四師団
 高射砲兵第一三一連隊
 石峯山電測陣地


 所在
  若松区二島 ほか

 収録遺構 (9)
  地下壕 1,
  軍用地境界標 4,
  その他 4

 実地調査
  2022年 1月

  2021年時点の詳細をご紹介します








石峯山電測陣地は石峯山高射砲台の付属施設で対空レーダーを運用する目的で 1944年(昭和19)に建設されました。

ここには、高射砲兵第一三一連隊の電測小隊が展開し「タチ」と呼ばれた電波標定機がおかれ配備についていたようです。

現在、跡地は山林になっていますが遺構が残り見学が可能です。

 海軍二等駆逐艦
 「柳」


 所在
  若松区響町 1

 収録遺構 (3)
  その他 3

 実地調査
  2022年 12月















駆逐艦「柳」は、佐世保海軍工廠で建造された桃型駆逐艦の 4番艦として、1917年(大正6)に竣工した中型駆逐艦です。

竣工後は、第一次世界大戦の終戦まで地中海の海上護衛に従事し1932年(昭和7)の第一次上海事変では揚子江水域の作戦にも参加しましたが1940年(昭和15)に除籍され、その後は佐世保海兵団の練習船として使用されました。

太平洋戦争の終戦後は解体されますが、現在の北九州港の防波堤に船体が活用されているほか高塔山公園に双繋柱と慰霊碑が建立されておりいずれも見学が可能です。

 かねやす百貨店
 防空監視哨


 所在
  小倉北区魚町 3

 収録遺構 (1)
  その他 1

 実地調査
  2022年 12月









かねやす百貨店は呉服店を母体として1920年(大正 9)に創業し、1936年(昭和11)に当時の小倉市で一番の高さをもつ鉄筋コンクリート製 7階建ての新館が完成しました。

戦時中は屋上に防空監視哨が設置され。敵機の襲来をいちはやく察知するための施設としても使われました。

戦後、百貨店は閉業していますが建物とともに防空監視哨も残り、現在も雑居ビルとして使用されています。

 八幡市役所
 防空壕


 所在
  八幡東区中央 1

 収録遺構 (1)
  地下壕 1

 実地調査
  2022年 12月









八幡市は、北九州市に合併する前まで存在した市の 1つで、八幡製鉄所をはじめ鉄鋼業を軸に重工業の中心地として栄えました。

戦時中は軍需工場を狙った空襲に対応するため避難用の防空壕が多く構築されました。

現在の八幡東区役所の裏手に位置する防空壕もその 1つで入口が 4つ・全長が150メートルの大きな造りだったようですが全て塞がれておりわずかに入口跡が残るのみとなっています。

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