東京陸軍砲兵工廠 十条銃砲製造所 (陸軍造兵廠火工廠 十条兵器製造所, 陸軍造兵廠東京工廠 銃砲・精器製造所, 東京第一陸軍造兵廠 第一〜第三製造所)
所在 北区十条台 1 ほか
収録遺構 (16) 建物 2, 軍用地境界塀 2, 軍用地境界標 2, その他 6, 地下施設(消失) 1, 軍用地境界標 (消失) 3
実地調査 2021年 5月
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当時の建物の一部は、 北区の施設に活用され 簡単に見学できます★
また、交通アクセスも よいのでお奨めです★ 是非、見てください♪ | |
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十条銃砲製造所は、文京区におかれた東京砲兵工廠の規模を拡張させるための一環で1905年(明治38)に銃砲部門を十条へ移転させ、口径の小さい拳銃や小銃・機関銃の弾薬類を製造する工場として機能しました。移転先が十条に決定された背景には、板橋火薬製造所に近いことや水運や鉄道などの交通網の充実がありました。
その後、新条例の施行によって、「陸軍造兵廠火工廠十条兵器製造所」「陸軍造兵廠東京工廠銃砲・精器製造所」と名称を変えながら拡大し最終的な1940年(昭和15)の組織改定で「東京第一陸軍造兵廠」となり、本部と第一・第二・第三製造所がここにおかれ25,256人の職員・工員と 2,953台の機械が配属されました。
敷地跡は、陸上自衛隊十条駐屯地や中央公園・区立十条中学校などに変遷していますが、中央公園の周辺を中心に、当時の遺構が現在も残りその一部は区の施設として活用されています。なお、最近までは十条駐屯地内にも数棟の煉瓦建物が残っていたようですが、現在は壊されているため現存していません▲
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東京陸軍砲兵工廠 滝野川雷汞場 (陸軍造兵廠火工廠 十条兵器製造所 滝野川工場, 東京第一陸軍造兵廠 第三製造所 滝野川工場)
所在 北区滝野川 3 ほか
収録遺構 (8) 建物 1, 軍用地境界標 5
実地調査 2010年 12月
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| 一造本部に近いので セットで探訪すると いいと思いますよ★
また、この南東方に 海軍下瀬火薬製造所 なんかもあります♪
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雷汞場(らいこうば)とは、爆弾の雷管に用いる発光具を製造する工場で、当初は文京区の東京砲兵工廠におかれていました。ところが、この雷汞 (水銀と硝酸とエチルアルコールで化学反応をさせたもの) の取り扱いが難しく、少しの摩擦でも爆発するため、工廠内で死傷者を出す事故を頻繁に起こしました。そのため、危険を回避する手段として、1905年(明治38)に十条銃砲製造所に隣接する滝野川地区に、雷汞場を新設して移転させました。
1924年(大正13)には銃砲製造所の所管となり爆粉や照明弾・発炎筒などもここで製造され、1940年(昭和15)の組織改定で一造 (東京第一陸軍造兵廠の略称です。本や専門書などに記載されることが多いので、頭の片隅にでも入れておくといいと思います★) 第三製造所の傘下に入り、94台の機械と450人の従業員が配属され薬莢爆管や手榴弾用信管の組立や薬嚢類を製造しました。
敷地跡は、都営住宅や王子工業高校などになり軍用地境界標を中心とした遺構が現在も残っています。
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東京陸軍砲兵工廠 板橋火薬製造所 (陸軍造兵廠火工廠 板橋火薬製造所, 東京第二陸軍造兵廠 板橋製造所)
所在 北区上十条 2 ほか
収録遺構 (2) その他 2
実地調査 2011年 1月
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板橋火薬製造所は日本で最初となる黒色火薬の製造工場として、1876年(明治9)にこの前身の砲兵本廠板橋属廠が開設されたことに始まり、1879年(明治12)の改称により発足しました。
1906年(明治39)には黒色火薬の製造を中止し無煙薬と高級爆薬(ダイナマイト)を専門に製造したほか、火薬に関する専門的な研究も行われ陸軍の火薬製造においては最先端の道を歩んでいました。
1940年(昭和15)に組織が改定され「東京第二陸軍造兵廠板橋製造所」と改称され、終戦まで火薬の製造が続きました。なお、終戦時点での敷地面積は247,000坪・従業員数は2,099人・工作機械数は1,037台を数えました。
現在、跡地には東京家政大学や帝京大学などが建てられていますが、建物を中心とした当時の遺構が多く現存し、これらは板橋区に位置しているものですが圧磨機圧輪の一部や工廠神社の手洗水盤が北区内の四本木神社の境内に移され現在も見学することが可能です。
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東京陸軍砲兵工廠 板橋火薬製造所 王子製薬場 (陸軍造兵廠火工廠 王子火薬製造所, 東京第二陸軍造兵廠 板橋製造所 王子工場)
所在 北区王子 6
収録遺構 (5) 門柱 1, 軍用地境界塀 2, 軍用地境界標 1 軍用地境界標 (消失) 1
実地調査 2016年 10月
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愚痴になりますが、 軍事遺跡を紹介する 書籍の著者の皆様! ちゃんと実地調査を 実施していますか? 文献だけの集大成は 軍事遺跡の紹介とは 言わないですよ? | | |
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王子製薬場は、板橋区におかれていた板橋火薬製造所の分工場として1905年(明治38)に設置されました。その後、新条例の施行によって、隣接して設置されていた豊島製薬場と統合して板橋火薬製造所から独立し「陸軍造兵廠火工廠王子火薬製造所」に改称され板橋火薬製造所に並ぶ規模にまで発展しました。ここでは、主に火薬と爆薬の製造を行っており、最終形となる1940年(昭和15)の組織改定により「東京第二陸軍造兵廠板橋製造所王子工場」に改称されて再び板橋製造所の傘下に入り、終戦まで機能が存続しました。
敷地跡は、区立豊島中学校・清至中学校や駿台学園などに変遷し、北区を代表する文教地帯となっていますが当時の遺構が残っていますっ! 書籍や資料などに「これに関係する遺構は全て消失している」と書かれて結ばれていることが多いのですが、しっかり踏査してないんだなとつくづく思いますね。こういったものが遺構と呼ばないのならば話は別ですが、そんなんじゃ本を出版して私達に何を伝えたいのかまったく理解出来ません(怒)
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東京陸軍兵器支廠 (東京陸軍兵器補給廠)
所在 北区西が丘 1 ほか
収録遺構 (3) 軍用地境界標 1, その他 1, 軍用地境界塀 (消失) 1
実地調査 2011年 1月
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| 重厚な境界塀が最近の 名残を代表するもので あっただけに、消失は とても残念です・・▲ |
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東京兵器支廠は東京の兵器本廠に隷属し、第一師団に関係する兵器弾薬・材料の購買や貯蔵・修理を行う機関として1906年(明治39)に設置されました。
その後、陸軍兵器廠条例の改正に伴い、兵器の補給業務を統一させる目的で、隷属先の名称が変わったりしましたが、最終的に1940年(昭和15)の改正で、兵器行政本部に隷属する「東京兵器補給廠」に改称され、兵器の材料や燃料の保管と補給を行いました。
跡地は、西が丘サッカー場やマンションなどが建てられており、当時の面影がありませんが、西が丘2-3付近に、敷地南限におかれた軍用地境界標と思われるものが残っています。
かつて、この付近には煉瓦で造られモルタルが吹き付けられた軍用地境界塀もあったのですが2011年(平成23)に消滅を確認しました▲ |
陸軍造兵廠火工廠 板橋火薬製造所 稲付射場
所在 北区西が丘 2
収録遺構 (5) 軍用地境界塀 3, 軍用地境界標 2
実地調査 2011年 1月
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当時の敷地境界部分の ほとんどが道路に変遷 しているため、敷地が いびつな形に狭窄して していたことが現在の 道路地図などでも把握 出来ますよっ★ | |
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稲付射場は、板橋火薬製造所で製造された火薬火器類の発射試験や、爆破実験を行う目的で、1905年(明治38)に開設された実験場です。
稲付射場がおかれた梅木地区は、土地が狭窄したくさんの住宅が建てられていたこともあり、常に行われていた爆破実験の爆発音に、住民は悩まされていたそうです。
敷地跡は、区立梅木小学校や住宅密集地となりほとんど面影がありませんが、軍用地境界塀を中心とした遺構が現在も残っています。
| | 特に敷地の南限付近は 軍用地境界塀の位置で 考えると有効幅が 2m 程度しかありません▲ 当然、このスペースに 建造物は無かったはず ですが、用地確保した 理由が知りたい・・▲ |
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東京第一陸軍造兵廠 十条王子軍用線
所在 北区堀船 2 ↓ 北区十条台 1
収録遺構 (6) トンネル 1, 橋梁 1, 軍用地境界標 4
実地調査 2011年 1月
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| トンネルの一部が残る ちんちん山公園内に、 北区内に展開していた 各軍需工場を説明する 案内板があり、当時は いかに軍事施設が多く 展開していたかを理解 することが出来ます★ |
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昭和に入り、北区は十条・王子・豊島・尾久に一造と二造の軍事工場が並び、これらの規模は区の面積の10%を占めるまでになります。また各工場間は密接関係にあったため、施設を結ぶ軍用線が敷設されました。
軍用線は物資の運搬と工員の輸送に使用され、トロリーポール終電の小さな機関車が、客車や貨車を牽引して、頻繁に軍事工場間を往来していました。
現在は、軍用線のほとんどの区間が都道や生活道路に変わっていますが、線路の跡がわずかに残っています。
軍用線の跡は、名残が 判る区間もあるものの 全体的には判り辛いと 思います・・・
もっと遺構が残存して いればいいのですが▲ | |
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陸軍被服本廠
所在 北区赤羽台 1 ほか
収録遺構 (1) 軍用地境界標 1
実地調査 2011年 1月
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赤羽周辺は軍事施設が 多いので、セットでの 探訪がお奨めですよ♪
事前にきちんと計画を 立ててから見学すると いいと思います★ | |
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被服本廠は軍服や軍靴などの兵隊が身に付ける装備品を製造した工場で当初は本所におかれていました。
1891年(明治24)2月に本廠で生産した軍装品を保管する被服倉庫群が赤羽に設置されました。被服倉庫は、赤羽の他にも麹町や築地・深川におかれていましたが、本廠とこれらの倉庫群を集約させて一体化させることを目的に1919年(大正8)8月に赤羽へ全機能を移して本廠とし、総面積9,000坪の敷地に943名の職員・工員が配属され、軍人装備品のほとんどはここで生産されました。
敷地跡は、東京23区の中で最大規模を誇る赤羽団地となっており、当時の面影がありませんが赤羽台1-6付近に、敷地の北東限を示している軍用地境界標が残っています。
標柱は花崗岩製で、表面部分には「陸軍用地」(下部が地中に隠れており見えませんが、そう刻まれているはずです★)と明朝体で刻まれており、標柱上部には敷地の境界線を表す矢印が刻まれています。
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陸軍近衛師団 工兵大隊
所在 北区赤羽台 4
収録遺構 (3) 軍用地境界標 1, 地下壕 2
実地調査 2018年 5月
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| | 近衛師団、第一師団の 工兵大隊を合わせて、 「赤羽工兵隊」と呼ぶ ことが多いようです★ |
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近衛工兵大隊は、1874年(明治7)に創設された近衛師団に隷属する支援部隊で、相次ぐ兵営の郊外移転の波を受け、1887年(明治20)8月に赤羽台へ移設されました。
兵営移設後は、日清戦争をはじめ、日露戦争に出征して戦果を出し1923年(大正12)に起きた関東大震災では、赤羽を中心に救助復旧作業や混乱の収拾、周辺の警備に力を発揮しました。太平洋戦争では、シンガポールやスマトラにも出征して激戦を繰り広げています。
敷地跡は、東京北社会保険病院となっており、面影が全くありませんが、赤羽台 4-17付近に軍用地境界標が 1本残っているほか、桐ケ丘の赤羽台さくら並木公園内に関連していたものと推測する防空壕跡が 2箇所残っています。
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陸軍第一師団 工兵第一大隊 (陸軍第一師団 工兵第一連隊)
所在 北区赤羽台 4
収録遺構 (1) 軍用地境界標 1
実地調査 2011年 1月
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この軍用地境界標は 風化が著しいです▲ 標柱上部に光を集め 彫込部分に影を作り 文字を浮かばせれば 見えますよっ★ |
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工兵第一大隊は、1876年(明治9)に創設された第一師団に隷属する支援部隊で、相次ぐ兵営の郊外移転の波を受け、1887年(明治20)に近衛工兵大隊と一緒に赤羽台へ移設されました。
兵営移設後は、近衛工兵大隊と共に日清戦争をはじめ、日露戦争に出征し1923年(大正12)に起きた関東大震災では、赤羽を中心とした救助復旧作業や混乱の収拾や浮間橋の建設にあたり太平洋戦争ではレイテ戦で玉砕攻撃をしかけ、壮絶な最後を遂げています。
敷地跡は、星美学園となっており、面影が全くありませんが、八幡神社の西側隅に敷地東端を示す軍用地境界標が 1本残っています。
標柱は花崗岩製で、風化が著しいものの、表面部分には「陸軍省所轄地」と明朝体で刻まれています。
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陸軍工兵大隊 赤羽演習場
所在 北区赤羽台 4
収録遺構 (1) 軍用地境界標 1
実地調査 2011年 1月
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赤羽演習場は、1887年(明治20)8月に赤羽台へ兵営を移転させた第一師団と近衛師団の各工兵大隊の兵科演習場として2つの兵営に挟まれた場所に設置されました。
現在、跡地のほとんどが住宅地となって、その下をJR埼京線がはしる形となっていますが、「師団坂」がある通りの下に展開する住宅地の中に、敷地東端を示していると思われる軍用地境界標が1つ残っています。 |
陸軍赤羽火薬庫 (東京陸軍兵器支廠 赤羽火薬庫)
所在 北区赤羽北 3
収録遺構 (1) 軍用地境界標 1
実地調査 2011年 1月
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赤羽火薬庫は、1872年(明治5)に陸軍兵器廠の前身である武庫司が創設したもので、北区では最初に設置された軍事施設です。その後、第一師団・近衛師団の工兵大隊がここへ転営すると陸軍が施設を引き継ぎ兵器支廠の火薬庫として機能しました。
現在、敷地跡は都営桐ヶ丘団地となっており、当時の面影は全くありませんが、敷地の北限を示す軍用地境界標が1本だけ残存しています。
ここでも、愚痴を言いたいところなのですが、王子製薬場と同じことを書いても仕方ないので何も申しませんっ▲
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東京陸軍兵器支廠 赤羽火薬庫 軍用線 (東京陸軍兵器支廠 軍用線, 陸軍被服本廠 軍用線)
所在 北区赤羽台 3 ↓ 北区赤羽西 5
収録遺構 (1) その他 1
実地調査 2011年 1月
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| | 北区は軍事施設が多く 1日で巡りきることは ほぼ不可能です・・・ (内容にもよりますが) 探訪する方は、緻密な 事前計画が必要です★ |
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赤羽火薬庫は、1872年(明治5)に陸軍兵器廠の前身である武庫司が創設したもので、北区では最初に設置された軍事施設です。その後、第一師団・近衛師団の工兵大隊がここへ転営すると陸軍が施設を引き継ぎ兵器支廠の火薬庫として機能しました。
赤羽火薬庫の設置を皮切りにして、周辺に被服本廠の赤羽倉庫や兵器支廠(西が丘)などの陸軍施設が続々と展開し、砲弾や軍服・資材などを運搬するための軍用線が敷設されました。
軍用線は、東北本線の線路から分岐し、現在の桐ヶ丘団地の南側付近まで延びており、戦後に線路は撤去されましたが、線路跡のほとんどは赤羽緑道公園として整備され、かつての線路をイメージした意匠が施されています。この他、赤羽台 3丁目をはしる部分に、線路の跡と判る築堤(盛土)が現在も残っています。
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海軍下瀬火薬製造所
所在 北区西が原 4
収録遺構 (6) 軍用地境界標 6
実地調査 2011年 1月 |
遺構は標柱だけですが 北区では唯一おかれた 海軍施設なので、見る 価値は大きいですよ★ また、交通アクセスも よいのでお奨めです★ 是非、見てください♪ | |
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下瀬火薬製造所は1899年(明治32)に開設した海軍の火薬製造施設で、開業時の所長を務めた下瀬雅允(しもせまさちか)技師にちなんだ施設名称となりました。
下瀬雅允技師は、「下瀬火薬」 (砲弾につめる黒色火薬に代わる強力な黄色火薬) を発明した海軍技師で、日露戦争の戦果に大きく貢献して後に賞賛された人物です。
以降、「下瀬火薬」は、海軍で主力爆薬として重用されることとなり、その製造所が西が原におかれました。
1914年(大正 3)に入ると、火薬製造所の規模を拡張するために、神奈川県の平塚市に製造所を移し、下瀬火薬製造所を閉鎖しました。
閉鎖後は、東京外国語大学が建設され (現在は他の場所に移転しています) 整地されており、当時の建物などは現存していませんが、敷地の東端に軍用地境界標が数本残っています。
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