東京海軍通信隊 蟹ヶ谷分遣隊
所在 高津区蟹ヶ谷 ほか
収録遺構(2) 鉄塔 1, 地下施設 1
実地調査 2005年 5月
中原平和公園内にある、 川崎市平和館に地下壕の 模型が展示されており、 戦時の川崎市をテーマに 様々な分野の資料なども おかれています。時間が ある方は是非どうぞ★
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蟹ヶ谷分遣隊は、無線の受信を専門に取り扱う通信隊の 1つで、1930年(昭和 5)に開設され、22棟の通信用建物と通信に使用する鉄塔が 6本蟹ヶ谷に建設されました。
ここでは、海軍の作戦遂行状況の電文受信や、敵国の情報の傍受が行われ、1941年(昭和16)に開戦したアジア太平洋戦争における、日本軍の真珠湾への攻撃命令となる、暗号化した電文も受信しています。(ニイタカヤマノボレ1208)
戦局が劣勢に傾きはじめた1943年(昭和18)には通信機能を維持させるための地下耐強受信所を構築して、横浜の日吉に移ってきた連合艦隊の司令部まで通信ケーブルを繋いで、サイパンや 沖縄の部隊からの受信内容を報告しました。
現在、蟹ヶ谷分遣隊の跡地は市営住宅となっていますが、6本おかれていた通信用鉄塔のうち 1本が東京航空局無線通信室で活用されており現存しています。また、地下耐強受信所も市の史跡として保存されていますが、形が変わってしまっており、あくまで個人的な観点ですが、「保存」には程遠いものがあります。消滅するよりは遥かにいいのですが、遺構の存在意義を見出せなくなってしまうような保存は、色々な事情や理由があることは十分理解出来ますが、やっぱりダメだと思いますね・・・
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東京航空計器 川崎工場 井田地下軍需工場
所在 中原区井田 3
収録遺構 (1) 地下壕 1
実地調査 2005年 5月
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この地下壕の掘削経緯に 横浜の日吉におかれた、 海軍連合艦隊に関連する 施設をここに移す目的も 一方であったようです★ よくある「構築の途中で 民間企業に転用された」 パターンでしょうか・・ | |
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東京航空計器は、旋回計や磁気コンパスなど、航空機用の計器類を製造することを目的として1937年(昭和12)に創業した民間会社で、現在の中原平和公園とその周辺に、これらを製造する工場がおかれていました。
戦争末期は、軍用機の航空計器の製造が中心となっていたため、国が指定する軍需工場となり日本を代表する航空計器メーカーとなります。そのため、アメリカ軍による空襲の目標とされ防空対策の一環で、生産ラインの維持を目的に隣接する井田山に地下壕が構築されました。
資料によると、地下壕は約 1km程の坑道延長で碁盤の目のような形状を呈していたそうですが実際には稼動せず、工員用の防空壕として使用されたようです。
実地調査では、 4箇所の入口の残存を確認し、内部のほとんどは水没していましたが、坑道の補強用として使われた木片や排水用の溝などが残っており、アミダくじのような配列を呈する坑道群で形成されていることがわかりました。
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陸軍第一〇一師団 歩兵第一〇一連隊 (陸軍第六十一師団 歩兵第一〇一連隊)
所在 宮前区宮崎 ほか
収録遺構 (6) 建物 2, 地下壕 2, その他 2
実地調査 2006年 2月
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| 遺構は、他にありそうな 雰囲気があるのですが、 周辺の聞き込みによると 東急田園都市線の建設で 消失したとのことです★ |
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歩兵第一〇一連隊は、1937年(昭和12)に起きた支那事変で特設した陸軍第一〇一師団に隷属し部隊の開設と同時に泥沼の中国戦線へ投入され多数の死傷者を出して帰還しました。その後、1940年(昭和15)に、第一師団の歩兵第一連隊の留守部隊を基幹にして再編成されて、第六十一師団隷下に編入し、東京の赤坂におかれていた近衛師団歩兵第三連隊の兵営に駐屯しますが、1942年(昭和17)11月に溝の口へ兵営を移転させ現在の宮崎中学校に連隊本部がおかれました。この翌年に上海へ出征して、周辺の治安警備と連合軍の上陸に備えた準備が進められましたが終戦となりました。
現在、兵営跡は宮崎中学校の他、虎ノ門病院の分院や青少年の家などになり、面影がほとんどありませんが、当時の遺構が住宅の一部として残っているなど、ほんの少しですが見ることが出来ます。
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陸軍第一〇一師団 歩兵第一〇一連隊 溝口演習場 (陸軍第六十一師団 歩兵第一〇一連隊 溝口演習場)
所在 宮前区馬絹 ほか
収録遺構 (8) 軍用地境界標 8
実地調査 2006年 2月
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演習場の敷地に沿うように かなり歩いてみたのですが 現在のところ 8本の軍用地 境界標しか見れてません▲
掲載以外にも標柱の所在を 知る方はおられませんか? | |
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溝口演習場は、歩兵第一〇一連隊の兵科演習を行うことを目的に設置され、その敷地規模は、高津区・宮前区・横浜市青葉区の 3区域に跨る広大なものでした。
ここでは、宮崎地区に連隊兵営がおかれてから1943年(昭和18)の 4月に上海へ出征するまでの短い期間に様々な演習が行われました。
現在、跡地のほとんどが住宅となっていますが広大な敷地を有していたこともあり、未開発の箇所を中心に軍用地境界標が残存しています。過去に実施された地元中学校の調査によると、演習場の敷地に沿って、50本以上に及ぶ軍用地境界標の残存を確認しているそうですが、力が及ばず発見することが出来ませんでした・・・
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陸軍技術本部 科学研究所 登戸出張所 (陸軍兵器行政本部 第九技術研究所, 陸軍登戸研究所)
所在 多摩区 東三田 1 ほか
収録遺構 (9) 建物 3, 地下施設 2, 軍用地境界標 1, その他 3
実地調査 2007年 11月 「秘密戦」「謀略戦」は 武器を使った武力衝突と 違い、謀略活動によって 敵国の政治や経済などに 打撃を与えて混乱させる 作戦で、程度によっては 国が滅亡ってことも十分 ありえる話ですよっ▼
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| 遺構の大半は明治大学の キャンパス内にあるので 見学は事前申請が必要と なりますよ★
守衛さんに主旨を話せば 土壇場でOKかも・・・ |
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登戸出張所は、電波の研究を行う目的で1937年(昭和12)に設置されました。設置以前は東京の陸軍科学研究所内におかれていましたが、施設拡充のために手狭となってしまい、分離移転の形が取られました。
1941年(昭和16)になると、陸軍技術本部の形態改正に伴って「第九技術研究所」に改められ、秘密戦や謀略戦を行うための兵器の開発を行う施設となりました。
第九技術研究所は、第一科〜第四科の部門から構成されており、第一科は物理的な研究を扱い「怪力光線」や「風船爆弾」などを中心にした研究が行われました。第二科は生物・化学兵器の研究を扱い、殺傷用の毒物やウイルスなどを中心にした研究が行われました。第三科は経済謀略に使用する偽造外国紙幣の製造が中心で、機密保持が厳重であったために施設が高い塀で囲まれ、本物の紙幣印刷機を使い、中国紙幣やインド紙幣の偽造が行われ、45億円もの紙幣を製造して実際に流通させ、外国の経済に打撃を与えようとしました。第四科は実験を通じ研究成果が出た兵器を製造する工場として機能していました。これらの敷地を合わせると、面積は約110,000坪にも及び、1,000人の作業員が従事する大きな施設となりましたが、1945年(昭和20)に入り本土空襲が本格化すると、長野県や兵庫県・福井県に疎開移転し、終戦まで研究が継続されました。
現在、敷地跡は明治大学生田キャンパスや生田中学校などに変遷しており、このうち明治大学生田キャンパスに当時の遺構が残っています。
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東京芝浦電気 川崎工場 枡形地下軍需工場
所在 多摩区 枡形 6 ほか
収録遺構 (1) 地下壕 1
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東京芝浦電気は、重電機・軽電機の生産を行う民間企業として、1939年(昭和14)に東京電気と芝浦製作所の経営統合によって発足しました。
太平洋戦争に突入すると、国家の要請に応えて無線機や高射砲などの生産にも携わりますが、戦況が逼迫して本土空襲が激化したことにより市内におかれていた工場の一部が、枡形周辺に掘削された総延長 268メートルの地下壕へ移る予定でしたが、稼働せずに終戦となりました。
現在、全ての入口が塞がれていますが、痕跡を見ることが出来ます。
探訪および写真記録は当サイトを語るうえでは欠かせない、いっちゃん先生によるものです★
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