横須賀海軍鎮守府 第七特攻戦隊 勝浦基地
所在 勝浦市浜勝浦
収録遺構 (2) 地下壕 2
実地調査 2014年 1月
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第七特攻戦隊は、太平洋戦争の戦局が圧倒的に 劣勢となったことに伴って、本土決戦に備えて編成された特別攻撃部隊で、1945年(昭和20)の 初頭に入り、勝浦市に司令部がおかれました。
ここには、第七特攻戦隊の傘下におかれていた 第一二九震洋隊をはじめとする突撃部隊が戦闘配備につき、浜勝浦地区の先端部分に横穴式の特攻艇格納庫をはじめ、複数の地下施設が設置されていました。
現在、これらの大部分は水産加工場などに転用されており内部見学は難しいですが入口部分を見ることは可能です。 |
横須賀海軍警備隊 勝浦特設見張所
所在 勝浦市川津
収録遺構 (3) 軍用地境界標 2, その他 1
実地調査 2014年 1月
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勝浦特設見張所はレーダーを用いて対空監視を行う目的で1942年(昭和17)に建設が開始されたようです。
資料に乏しく詳細は判っていませんが、ここに電波探信儀と施設防衛のための機銃が配備され終戦まで対空監視にあたっていたようです。
現在、跡地は官軍塚展望台に変遷していますが当時の遺構が残っています。 |
横須賀海軍鎮守府 第七特攻戦隊 尾名基地
所在 勝浦市松部
収録遺構 (1) 地下壕 1
実地調査 2014年 1月
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第七特攻戦隊は、太平洋戦争の戦局が圧倒的に 劣勢となったことに伴って、本土決戦に備えて編成された特別攻撃部隊で、1945年(昭和20)の 初頭に入り、勝浦市に司令部がおかれました。
ここには、第七特攻戦隊の傘下におかれていた 第一二九震洋隊をはじめとする突撃部隊が戦闘配備につき、尾名浦地区の入江部分に横穴式の特攻艇格納庫が設置されていました。
現在、これらは私有地の一部となり内部見学は難しくなっていますが、特攻艇の格納庫として使用された地下壕が残っています。 |
横須賀海軍鎮守府 第七特攻戦隊 砂子浦基地
所在 勝浦市吉尾
収録遺構 (1) 地下壕 1
実地調査 2014年 1月
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第七特攻戦隊は、太平洋戦争の戦局が圧倒的に 劣勢となったことに伴って、本土決戦に備えて編成された特別攻撃部隊で、1945年(昭和20)の 初頭に入り、勝浦市に司令部がおかれました。
ここには、第七特攻戦隊の傘下におかれていた 第一二九震洋隊をはじめとする突撃部隊が戦闘配備につき、砂子浦地区の入江部分に横穴式の特攻艇格納庫が設置されていました。
現在、これらは私有地の一部となり内部見学は難しくなっていますが、特攻艇の格納庫として使用された地下壕が残っています。 |
昭和火薬工業所 興津作業所
所在 勝浦市鵜原
収録遺構 (58) 建物 17, トンネル 8, 地下壕 6, 建物基礎 5, その他 22
実地調査 2015年 1月
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昭和火薬工業所は、軍用火薬を製造する目的で1933年(昭和 8)に創業した民間の火薬製造所で現在の鵜原地区に火薬の精製と保管を行う興津作業所が設置されました。
設立の背景には、海軍の強い要請もあったようですが、太平洋戦争での戦局が悪化する1943年(昭和18)からは、国が指定する軍需工場となり会社名が日本火工に改称されました。
終戦間際は、海上の特攻兵器として生産された震洋に搭載する炸裂火薬を精製し、勝浦地区に展開した横須賀海軍鎮守府の特攻基地と密接に関わるようになりました。
終戦後は、軍需工場の指定から除外され、日本冶金工業に吸収合併し、その後に勃発した朝鮮戦争でアメリカ軍の特需によって砲弾類の填薬組立を行う工場として稼働しました。
現在、工場は閉鎖されており、敷地の南西側が明海大学セミナーハウス勝浦コテージの建設によって消失していますが当時の建物や地下壕をはじめとする遺構が多く残っています。 |
横須賀海軍鎮守府 第七特攻戦隊 鵜原基地
所在 勝浦市鵜原
収録遺構 (5) 地下壕 4, その他 1
実地調査 2014年 1月
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第七特攻戦隊は、太平洋戦争の戦局が圧倒的に 劣勢となったことに伴って、本土決戦に備えて編成された特別攻撃部隊で、1945年(昭和20)の 初頭に入り、勝浦市に司令部がおかれました。
ここには、第七特攻戦隊の傘下におかれていた 第五十五震洋隊をはじめとする突撃部隊が戦闘配備について、鵜原地区の入江部分に横穴式の特攻艇格納庫をはじめ、複数の地下施設が設置されていました。
現在、これらは草木などに埋もれて内部見学は難しくなっていますが見学が可能です。 |
横須賀海軍鎮守府 第七特攻戦隊 守谷基地
所在 勝浦市守谷
収録遺構 (2) 地下壕 2
実地調査 2014年 1月
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第七特攻戦隊は、太平洋戦争の戦局が圧倒的に 劣勢となったことに伴って、本土決戦に備えて編成された特別攻撃部隊で、1945年(昭和20)の 初頭に入り、勝浦市に司令部がおかれました。
ここには、第七特攻戦隊の傘下におかれていた 第五十五震洋隊をはじめとする突撃部隊が戦闘配備について、守谷地区の入江部分に横穴式の特攻艇格納庫をはじめ、複数の地下施設が設置されていました。
現在、これらは私有地の一部となり内部見学は難しくなっていますが、入口部分を見ることは可能です。 |
横須賀海軍鎮守府 第七特攻戦隊 興津基地
所在 勝浦市興津
収録遺構 (1) 地下壕 1
実地調査 2014年 1月
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第七特攻戦隊は、太平洋戦争の戦局が圧倒的に 劣勢となったことに伴って、本土決戦に備えて編成された特別攻撃部隊で、1945年(昭和20)の 初頭に入り、勝浦市に司令部がおかれました。
ここには、第七特攻戦隊の傘下におかれていた 第五十五震洋隊をはじめとする突撃部隊が戦闘配備につき、興津地区の先端部分には横穴式の特攻艇格納庫が設置されていました。
現在、これらは私有地の一部となり内部見学は難しくなっていますが、特攻艇の格納庫として使用された地下壕が残っています。 |
昭和火薬工業所 浜行川火薬庫
所在 勝浦市浜行川
収録遺構 (7) トンネル 5, 地下壕 2
実地調査 2015年 1月
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昭和火薬工業所は、軍用火薬を製造する目的で1933年(昭和 8)に創業した民間の火薬製造所で現在の鵜原地区に火薬の精製と保管を行う興津作業所が設置されました。
設立の背景には、海軍の強い要請もあったようですが、太平洋戦争での戦局が悪化する1943年(昭和18)からは、国が指定する軍需工場となり会社名が日本火工に改称されました。
終戦間際は、海上の特攻兵器として生産された震洋に搭載する炸裂火薬を精製し、勝浦地区に展開した横須賀海軍鎮守府の特攻基地と密接に関わるようになりました。また、資料が揃わず詳細は判りませんが、精製した火薬を保管するための火薬庫が浜行川地区にも設置されていたようです。
終戦後は、軍需工場の指定から除外され、日本冶金工業に吸収合併し、1964年(昭和39)に入り火薬庫跡を活用して行川アイランドを開園させフラミンゴショーなどで有名になりましたが、経営が悪化したことで2001年(平成13)に閉園し施設は解体されました。
現在、当時の建物は解体されているものの火薬貯蔵用に使用されていたと考えられる地下壕がいくつか残っています。 |
陸軍第一四七師団 抵抗拠点陣地
所在 勝浦市関谷 ほか
収録遺構 (5) 地下壕 5
実地調査 2019年 1月 (継続調査中)
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第一四七師団は、1945年(昭和20) 2月に旭川で編成されて開設された特設師団で、第一総軍の第十二方面軍に所属していた第五十二軍の隷下部隊となり、師団基幹には歩兵第四二五連隊〜歩兵第四二八連隊の 4個部隊がありました。
太平洋戦争の末期、アメリカ軍は「コロネット作戦」と呼ぶ日本本土への上陸作戦を計画し、九十九里浜と神奈川県の相模湾より上陸して、首都圏の拠点を制圧しながら帝都に攻め入るという作戦内容で、九十九里浜には約24万人ものアメリカ軍が上陸を予定していました。
これに対し日本軍は「本土決戦作戦」を計画し両海岸の防備にあたり、この中で第五十二軍は九十九里浜沿岸の防備を担当し第一四七師団は大網白里市より勝浦市に至る地域の防衛任務にあたりました。
主な防衛方針は海岸後方の山に抵抗拠点となる陣地を展開させ、上陸兵に対して狙撃を行うというものでしたが、決戦となる前に終戦となり実際に使用されることはありませんでした。
勝浦市については、関谷地区周辺で洞窟陣地の存在を確認しており、崩落が進んでいるものの現在も見学することが可能です。
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