海軍東京湾要塞地帯
所在 鎌倉市 材木座 6 ほか
収録遺構 (2) 軍用地境界標 2
実地調査 2006年 3月 |
鎌倉には、海軍によって 指定された要塞地帯標が 残っています★
これらも是非見ていって くださいね★ | |
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東京湾要塞は、日本の本土におかれた12箇所の永久要塞のうちの1つです。1895年(明治28)の要塞司令部条例によって、永久的な防御工事を施している場所は「要塞」とされ、海軍の場合砲台や軍港が「要塞地帯」とされました。またこれに伴う法律も公布されており、軍事機密の保持のため、要塞地帯に指定された区域内での測量や撮影・スケッチ・土木工事などは、要塞司令部の許可がないと出来ませんでした。また要塞の防御営造物より250間(約455メートル)以内を特に「要塞地帯第一区」として一般人の立入りが禁止され、衛兵が守備していました。さらに、その距離に応じ「第二区」・「第三区(区域)」が設定され、これらを明確にするためその境界部に要塞地帯標が設置されました。
要塞地帯を定義する法律は数度にわたって改正されましたが、最終的に防御営造物から 1,000メートル以内を第一区・ 5,000メートル以内を第二区・15,000メートル以内を第三区(区域)と当初よりも大幅に拡大されました。
鎌倉市については、要塞地帯第一区と第二区に定められた箇所があり、その境界に設置された要塞地帯標が現在も残っています。
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第一海軍燃料廠 大船軍用線
所在 鎌倉市大船 1
収録遺構 (1) 橋梁 1
実地調査 2015年 4月 |
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大船軍用線は、横浜市の本郷台におかれていた第一海軍燃料廠への資材の搬入出を目的に敷設されました。
終戦後はアメリカ軍が接収し、物資倉庫の専用線として使用されましたが、現在は返還されて廃線となっており、跡地の大半が道路になっているため面影がなくなっていますが、大船駅の笠間口脇を流れる川の両岸に橋脚の一部が残存しています。 |
横須賀海軍水道路 半原系統
所在 鎌倉市大町 5 ↓ 鎌倉市笛田 1
収録遺構 (28) トンネル 1, 橋梁 1, 軍用地境界標 24, その他 2
実地調査 2007年 5月 |
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横須賀海軍水道路は、横須賀市におかれていた横須賀海軍工廠を中心とした海軍施設に対して水を供給する目的で、1876年(明治9)に専用の水道が走水の水源地より敷かれました。しかし施設の拡大に伴って水の需要が増えてしまい、この専用水道だけでは供給不足となり、新たに相模川の支流となる中津川を水源に、愛川町の半原より横須賀市の逸見浄水場にわたる長大な水道路の敷設が計画され1918年(大正7)に半原系統として通水し鎌倉市内を縦断しています。
戦後、水道路は横須賀市に移管されて、市民が使用する水道として使われていますが、軍用地境界標を中心とした当時の遺構が現在も残っています。
| 鎌倉市内の水道路は、 藤沢以北とは全然違い アップダウンが少なく 歩きやすいですよ★
少々地味ですが探訪を お勧めします♪ |
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陸軍第一四〇師団 抵抗拠点陣地
所在 鎌倉市腰越 ほか
収録遺構 (12) 地下壕 12
実地調査 2022年 10月 (継続調査中)
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第一四〇師団は、1945年(昭和20)2月に東京で編成されて開設された特設師団で、その配下に歩兵第四〇一連隊〜歩兵第四〇四連隊を有していました。アメリカが計画した、日本本土への上陸作戦(コロネット作戦)に対して、本土決戦作戦の一環として相模湾周辺の防衛を担当した第五十三軍に隷属し、藤沢の東側で三浦半島を除いた相模湾沿岸の防衛任務にあたりました。これに伴い、アメリカ軍が日本へ上陸した時の進軍ルートを予測し、これを迎撃出来るような抵抗拠点となる陣地を構築しました。
陣地は、腰越から北上する県道と、大船の鎌倉街道に沿うように複数構築されており、現在も一部の洞窟陣地が残っています。
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横須賀海軍警備隊 第二高角砲大隊 朝比奈山防空砲台
所在 鎌倉市十二所
収録遺構 (1) その他 1
実地調査 2007年 8月 |
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朝比奈山防空砲台は、横浜市金沢区におかれた海軍航空技術廠支廠を中心とした周辺の重要な施設群の防衛を目的として1944年(昭和19)に建設されました。
ここには、12センチ高角砲が4基と25ミリ連装機銃が2基・二式陸用高射器・九七式2メートル高角測距儀・九六式150センチ探照灯をおいて配備につきました。
現在は、砲台がおかれていた場所に鎌倉霊園が建設され、整地によって遺構のほとんどが消滅していますが、背面の山中に、砲台に関連していたと思われるコンクリート製の遺構が現在も残っています。
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横須賀海軍工廠 造兵部 深沢分工場
所在 鎌倉市梶原 ほか
収録遺構 (5) 地下壕 5
実地調査 2007年 10月
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地下壕は、岡本・寺分・ 梶原周辺に残ってます★
しかし、多くは封鎖され 内部を見ることは非常に 難しいです・・・
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深沢分工場は、横須賀市の船越におかれていた横須賀海軍工廠造兵部の拡張に伴い設置された分工場で1943年(昭和18)10月より操業が開始されました。
この地が分工場の建設地に選ばれた理由には、海軍の重要施設がおかれていた横須賀に近くて大船から施設までの軍用線を敷設することで、横須賀線を使用した輸送ネットワークが簡単に確立出来ることなどが挙がりました。
ここでは、魚雷や爆雷などを生産しましたが、人手不足で周辺の中学校などから多数の学徒が動員され生産ラインを保持していたそうです。その後、戦局の悪化に伴って防空対策が必要となったため、工場周辺の山に地下壕が掘削されこのうちの一部は、地下工場として実際に稼動したようです。
終戦後、工場の敷地は国鉄(JR)に引き継がれて整地されてしまい、面影が無くなりましたが、周辺の山に構築された地下壕の一部が現存しています。
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横須賀海軍鎮守府 抵抗拠点陣地
所在 鎌倉市大町 1 ほか
収録遺構 (16) 地下壕 16
実地調査 2008年 1月
横須賀線の北鎌倉駅の 周辺に重点配置されて いるようですね♪
この他、長谷地区にも 配置されていますよ★
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横須賀海軍鎮守府は、海軍条例によって定めた 5つの海軍区のうち、第一海軍区 (東北地方〜近畿地方の一部と小笠原の各沿岸海域)を統括した海軍組織で1884年(明治17)に前身である東海鎮守府を横須賀へ移したことによって開設されました。
アメリカが計画した「コロネット作戦」に対し本土決戦作戦を展開するため、鎌倉に関しては腰越・大船以南を中心に、抵抗拠点となる洞窟陣地が構築されており、横須賀線がアメリカ軍進軍ルートとして予想されたためか、線路脇の山に多く分布しています。しかし、ほとんどは掘削途中で終戦を迎えているようです。
陣地は、山林内に放置されているものが多く、一部は封鎖されていますが、現在も内部見学が可能です。ただし、脆い地質に掘削されており崩落や水没が著しい箇所が多いため、十分注意してくださいねっ★
| 洞窟陣地の他に、陣地を 行き来するための通行用 トンネルも構築している ようですよ★
横須賀線の線路に沿って 歩いてみてくださいね★ |
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横須賀海軍軍需部 大船倉庫 大船軍用線
所在 鎌倉市大船 1 ↓ 鎌倉市大船 4
収録遺構 (1) 橋梁 1
実地調査 2015年 4月 |
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大船軍用線は、現在の市立大船中学校の一帯におかれていた横須賀海軍軍需部の大船倉庫への資材の搬入出を目的に敷設されました。
終戦後、軍用線は廃線となり用地のほとんどが住宅地となっていますが、大船駅周辺に面影があり、わずかに橋脚の一部が残っています。
ちなみに、大船倉庫の敷地周辺も歩きましたが当時の遺構を見つけられませんでした・・・▲ |
海軍横須賀軍港境域
所在 鎌倉市十二所
収録遺構 (2) 軍用地境界標 2
実地調査 2015年 10月 |
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横須賀軍港境域は、横須賀市におかれた横須賀海軍鎮守府が統括した横須賀軍港の土地境界を決定するものとして1896年(明治29)に条項が設けられました。
軍港境域と定めた場所では一般人の立ち入りが厳しく制限され、その範囲を明確にするための軍港境域標が境域の境界線に設置されました。
鎌倉市についても、一部分が横須賀軍港境域に定められていたため、軍港境域標が設置されており 2本の残存を確認しています。 |
横須賀海軍警備隊 第三高角砲大隊 佐介山防空砲台
所在 鎌倉市佐助 2
収録遺構 (2) 砲座 2
実地調査 2017年 2月 |
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佐介山防空砲台は横須賀におかれた軍港周辺の施設群の防衛を目的として1945年(昭和20)に建設が開始されました。
ここには、12.7センチ高角砲を2基据え付けて防備にあたる予定であったそうですが、建設の途中で終戦を迎えたようです。
現在、跡地は鬱蒼とした竹林になっているため遺構の判別が難しいですが佐助稲荷神社の西に位置する山林内に、建設途中の砲座とおぼしき大きな穴が残っています。 |
富士飛行機 大船工場
所在 鎌倉市山崎
収録遺構 (3) 建物 2, その他 1
実地調査 2018年 6月 |
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富士飛行機は、1937年(昭和12)に創設された民間の航空機製作会社で、中間練習機の製造を目的として大船に組立工場が設置されました。
太平洋戦争に突入すると戦局の悪化にともないこれを打破するために開発された「桜花」や、「秋水」の部品の製造にも携わったようです。
現在、工場の跡地は東京スリーブの工場や大型マンションなどに変遷して面影がありませんがわずかに当時の遺構が残っています。 |