東京陸軍砲兵工廠 板橋火薬製造所 (陸軍造兵廠火工廠 板橋火薬製造所, 東京第二陸軍造兵廠 板橋製造所)
所在 板橋区加賀 1 ほか
収録遺構 (29) 建物 15, 軍用地境界塀 3, 軍用地境界標 4, その他 5 門柱(消失) 1, 軍用地境界標(消失) 1
実地調査 2018年 5月
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当時の建物が、たくさん 現在も残っているので、 探訪をお奨めしますよ★
家政大学内に残る建物の 見学には、事前の申請が 必要ですよ★
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板橋火薬製造所は、日本では最初となる、黒色火薬を製造する工場として、1876年(明治 9)にこの前身である、陸軍砲兵本廠板橋属廠が開設されたことに始まり、1879年(明治12)の改称で「板橋火薬製造所」となりました。
1906年(明治39)には、黒色火薬の製造を中止し無煙薬と高級爆薬(ダイナマイト)を専門に製造したほか、火薬に関する専門的な研究も行われ陸軍の火薬製造においては最先端の道を歩んでいました。
1940年(昭和15)に組織改定が行われ「東京第二陸軍造兵廠板橋製造所」と改称され、終戦まで火薬の製造が続きました。なお、終戦時点での敷地面積は 247,000坪、従業員数は 2,099人、工作機械数は 1,037台を数えました。
現在、跡地には東京家政大学や帝京大学などが建てられていますが、建物を中心とした当時の遺構が多く現存しています。
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陸軍工科学校 板橋分校
所在 板橋区板橋 4
収録遺構 (1) 軍用地境界標 1
実地調査 2011年 1月
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陸軍工科学校は、技術系に従事していた将校や下士官に対し兵器業務の教育を施す機関として設立され、分校が二造 (東京第二陸軍造兵廠の略称です。本や専門書などに記載されることが多い固有名詞ですので、頭の片隅にでも入れておくといいですよ★) 板橋製造所南東の一角におかれていました。ここで兵器の調査や分析を行い、兵器の修理や調製をしていました。
跡地は区立板橋第五中学校となっているため、面影がありませんが、板橋 4-50付近に軍用地境界標が 1つ残っています。標柱は花崗岩製で下部分が埋もれていますが「陸軍省所轄地」と刻まれているものと思われます。
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陸軍造兵廠火工廠 板橋火薬製造所 加賀軍用線
所在 板橋区加賀 2 ↓ 板橋区稲荷台
収録遺構 (2) 橋梁 1, 軍用地境界標 1
実地調査 2018年 5月
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加賀軍用線は板橋火薬製造所で生産した火薬や物資の運搬を目的として昭和初期に敷設されたようです。
資料が揃わず詳細は判っていませんが、1929年(昭和 4)の古地図を見る限りでは、線路が板橋火薬製造所から北へ約 500メートル進んだ東京兵器支廠まで延びていることが判ります。
現在は、線路跡の大半が道路になっていますが軍用地境界標や橋梁の跡が残っており、簡単に見学することが出来ます。
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陸軍東京憲兵隊 板橋憲兵分隊
所在 板橋区仲宿
収録遺構 (4) 門柱 1, 軍用地境界標 3
実地調査 2019年 12月
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板橋憲兵分隊は板橋火薬製造所をはじめとする陸軍施設が現在の板橋区におかれたことにより設置され、東京憲兵隊に隷属しました。
憲兵とは軍事警察官のことで、軍の内部情報や情勢などが外部に漏洩しないように取り締まる役割を持ち、著作物の検閲や国民の言動・思想などに目を光らせていました。
現在、跡地は住宅地に変遷していますが門柱や軍用地境界標がわずかに残っています。
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陸軍第十七飛行師団 成増飛行場
所在 板橋区 赤塚新町 3 ほか
収録遺構 (1) 飛行機掩体 1
実地調査 2007年 7月
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| 掩体は住居の一部として 使用されていますので、 詳細な所在位置の公表は 控えさせてくださいね。
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陸軍成増飛行場は、首都の防衛を目的に1943年(昭和18)10月に開設されました。飛行場建設の背景には、首都の防衛が無防備であったことが露呈した、同年 4月のアメリカ軍による空襲がありました。この事態に慌てた陸軍は、当時はまだ農地だった光が丘周辺を半強制的に接収しわずか数ヶ月で飛行場を完成させました。
戦後、飛行場はアメリカ軍に接収され、住宅が建てられましたが、のちに日本へ返還されて、現在の光ヶ丘団地が建てられ、飛行場の面影がなくなりました。
飛行場敷地のほとんどが練馬区にあたりますが飛行場の北側となる赤塚新町 3丁目の住宅地に飛行機を格納したコンクリート製の有蓋掩体が 1つだけ残っています。
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