海軍技術研究所 太東実験所
所在 いすみ市岬町和泉
収録遺構 (2) その他 2
実地調査 2015年 2月
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海軍技術研究所は、兵器類の研究や開発を行う目的で1923年(大正12)に設置されました。
太平洋戦争が開戦されると、敵航空機を早期に発見し迎撃するための電波探信儀(レーダー)の開発が行われるようになり1943年(昭和18)に実験所がおかれました。ここには、大型 1基・小型 4基の電波探信儀と付属建物が設置され、終戦まで機能が存続しました。
終戦後、施設はアメリカ軍に爆破されましたが当時の遺構がわずかに残っています。 |
横須賀海軍警備隊 太東崎特設見張所
所在 いすみ市岬町和泉
収録遺構 (1) 砲座 1
実地調査 2015年 2月
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太東崎特設見張所は、レーダーを使用して対空監視を行う目的で設置されました。
ここには、電波探信儀が2基と施設防衛用の7.7ミリ機銃が2基配備され、対空監視にあたっていました。
残念ながら、現在は波による侵食を受けており大半の遺構が海中に崩落している状況ですが、機銃を据付けた窪みが1つだけ残っています。 |
太東海軍航空基地
所在 いすみ市 岬町江場土 ほか
収録遺構 (2) 地下壕 2
実地調査 2019年 11月
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太東海軍航空基地は、来たる本土決戦に備えて1943年(昭和18)に建設が始まったようです。
資料に乏しく詳細は判っていませんが、兵舎や滑走路・格納庫などが設置されていたようで、1945年(昭和20)の5月に完成し 3機の飛行機が着陸したそうです。
現在は農地や住宅地などに変遷していますが、地下壕が現存しています。 |
陸軍第一四七師団 抵抗拠点陣地
所在 いすみ市岬町中原
収録遺構 (2) 地下壕 2
実地調査 2015年 2月
陣地の見学は重装備で 臨んでくださいね★ もしかしたら、他にも 陣地が存在してるかも しれませんっ★
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第一四七師団は、1945年(昭和20)2月に旭川で編成されて開設された特設師団で、第一総軍の第十二方面軍に所属していた第五十二軍の隷下部隊となり、師団基幹には歩兵第四二五連隊〜歩兵第四二八連隊の4個部隊がありました。
日本の敗戦を決定づけた1944年(昭和19)6月のマリアナ沖海戦の敗退によって、アメリカ軍は「コロネット作戦」と呼ばれる、日本本土への上陸作戦を計画します。その作戦の内容とは、九十九里浜と神奈川県の相模湾より上陸して、首都圏の拠点を制圧しながら帝都に攻め入るというもので、九十九里浜には約240,000人ものアメリカ軍が上陸を予定していました。一方、日本軍は「本土決戦作戦」を計画し、両海岸の防備にあたりました。この中で第五十二軍は、九十九里浜の防備を担当することになり隷下の第一四七師団は、大網白里市より勝浦市に至る地域の防衛にあたりました。なお、防衛方針は海岸後方の山に抵抗拠点となる陣地を展開させ上陸兵に対して狙撃を行うというものでした。また、師団の司令部は市原市の鶴舞におかれています。
これらは、本土決戦となる前に日本軍の敗北で終戦となったため、実際には使用されず山林に現在も放置されており、一部崩壊があるものの見学は可能です。
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横須賀海軍鎮守府 第七特攻戦隊 小浜基地
所在 いすみ市大原
収録遺構 (5) 地下壕 2, その他 3
実地調査 2007年 3月
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第七特攻戦隊は、太平洋戦争の戦局が圧倒的に劣勢となったことにともない本土決戦に備えて編成された特別攻撃部隊で1945年(昭和20)の初頭に入り、勝浦市に司令部がおかれました。
ここには、第七特攻戦隊の傘下におかれていた第十二回天隊の展開を目的に、地下式の回天の格納庫・調整場・燃料庫や居住施設などが建設されましたが、回天の配備が間に合わないまま終戦を迎えました。
現在、居住施設は住宅地になっており、当時の面影がありませんが地下壕を中心とする遺構は残っており、見学することが可能です。 |
横須賀海軍鎮守府 桜花特別攻撃隊 行川基地
所在 いすみ市行川
収録遺構 (3) 地下壕 1, その他 2
実地調査 2007年 3月
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行川基地は太平洋戦争の戦局が圧倒的に劣勢となったことにともない本土決戦の切り札として開発された桜花によって特攻を行う拠点として1945年(昭和20)6月に建設が開始されました。
ここには 45機の桜花と火薬ロケット・ターボジェットを併用した 6つの推進用カタパルトが配置される予定でしたが、建設の途中で終戦を迎えました。
現在、跡地は山林となっているため埋もれつつありますが、当時の遺構が残っています。 |