陸軍教導団 (陸軍野戦砲兵第二旅団 野戦砲兵第十六連隊, 野戦砲兵第十四連隊, 野戦砲兵第十五連隊), (陸軍野戦重砲兵第三旅団 野戦重砲兵第七連隊, 野戦重砲兵第十八連隊), (陸軍東部防衛軍 高射砲兵第二連隊), (陸軍独立工兵第二十五連隊)
所在 市川市国府台 2 ほか
収録遺構 (15) 門柱 1, 軍用地境界塀 2, 軍用地境界標 4, その他 5, 建物(消失) 1, 軍用地境界標(消失) 1, 地下壕(消失) 1
実地調査 2015年 10月
掲載している各部隊の組織 名称は、資料や書籍を基に 記載しましたが、まだ私に 戦史と地域の複雑な変遷を 理解しきれていない部分が あるため間違っているかも しれません▲ 詳しい方は是非ともご教示 ください★ m(_ _)m この地域を専門に取り扱う 優良サイトもありますので そちらも合わせて参照して いただけたらと思います★
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| | 説明は、私が理解した 範囲で記載したもので 間違っている可能性が あります・・・▲
間違いがあるようなら ご指摘くださいねっ! すぐに直しますから★ |
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教導団は、下士官を養成するための陸軍省直轄の機関で、当時は東京の日比谷周辺に施設が点在しておかれていました。しかし東京は軍人への教育に環境が適していないことや、散在する施設を一つに統合させる必要があるとして、大学校の建設予定地であった国府台地区へ1885年(明治18)に移設しました。ここでは、師団の基幹でもある「騎」「砲」「工」「歩」の各兵科演習が行われ1899年(明治32)の教導団廃止までに 19,959名の下士官が卒業しており、彼らのほとんどが後の陸軍の重要なポストに就き活躍しました。
下士制度改正に伴い教導団が廃止されるとその跡地には野戦砲兵第二旅団に隷属する野戦砲兵第十六連隊が開設されます。この部隊は、後の日露戦争に出征して第三軍の傘下に入り、旅順攻略戦より参戦して活躍しました。日露戦争が終結すると、さらに野戦砲兵第十五連隊が国府台に設置され、大正に入るとそれまで東京におかれていた野戦砲兵第十四連隊もこの地に移ります。そして、これらの部隊の上位にあたる野戦砲兵第二旅団の司令部も移され、国府台は砲兵の街となりました。
第一次世界大戦を経て飛行機が主力兵器に替わると砲の強化が図られることとなり、従来よりも口径が大きく威力がある重砲を備えた野戦重砲兵第三旅団が1922年(大正 11)に設立され、司令部と共に隷下の野戦重砲兵第七連隊がこの地に設置されます。この部隊は、隣接して移転してきた野戦重砲兵第一連隊と共にノモンハン事件へ動員されましたが、ソ連軍の攻撃によって壊滅状態となっています。
昭和に入ると日中関係が泥沼化し、盧溝橋事件を発端に支那事変の火蓋がきられると帝都を防衛する目的で新たに高射砲兵第二連隊がこの地に展開しました。この部隊は後に柏飛行場の防衛を担当することになり柏へ兵営を移しています。そして、太平洋戦争の直前には、野戦重砲兵第十八連隊と独立工兵第二十五連隊が設置されますが、いずれも太平洋戦争で南方作戦と沖縄戦に動員されて壊滅し終戦を迎えています。
現在、これらの部隊の跡地は東京医科歯科大学や和洋女子大学・国府台高校・筑波大付属聾学校などになっていますが、当時の遺構がわずかに残っています。
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