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 広島県広島市の軍事遺跡一覧 (作成中ですっ) 収録遺構数:101 


 陸軍第五師団
 師団司令部
 (広島大本営,
  陸軍中国軍管区司令部)


 所在
  中区基町

 収録遺構 (11)
  建物基礎 3,
  地下施設 1,
  軍用地境界標 3,
  その他 4

 実地調査
  2015年 11月
  2015年時点の詳細をご紹介します








第五師団は師団編成の前身である広島鎮台より改編をうけ、1888年(明治21)に発足した最も古い陸軍師団のうちの 1つで広島城に隣接して師団の司令部がおかれました。

戦歴も古く、日清戦争から日露戦争シベリア出兵日中戦争を経て、太平洋戦争では南方の作戦にも参加しており、常に中核を担う部隊として活躍しました。

1894年(明治27)の日清戦争では前線に向かう兵站基地となった広島市での統帥を目的として東京の皇居におかれていた大本営を第五師団の司令部に移したため、広島市は一時的に臨時の首都機能を担っています。

また、太平洋戦争末期の1945年(昭和20)には中国地方の軍政を統括するための中国軍管区が編制され、庁舎に師団司令部が使用されますが8月6日の原爆投下で施設は壊滅しました。

現在、敷地跡は広島城址公園として整備されていますが、司令部建物の基礎部分や渡り廊下・石柱列・軍用地境界標・地下司令部などが多く残されており簡単に見学することが出来ます。



 陸軍第五師団
 歩兵第十一連隊


 所在
  中区上八丁堀 6

 収録遺構 (2)
  門柱 1,
  その他 1

 実地調査
  2015年 11月
  2015年時点の詳細をご紹介します






歩兵第十一連隊は、第五師団に隷属する部隊で1875年(明治8)に師団編成の前身にあたる広島鎮台の隷属部隊として編成されました。

戦歴も古く、西南戦争をはじめ日清戦争日露戦争では主要な作戦に参加し戦果を出しており昭和に入ると満州へ駐屯して日中戦争に参戦し太平洋戦争ではマレー作戦に参加し、その後はマレーシアの警備にあたり、終戦間際になるとインドネシアに転進して終戦となりました。

現在、敷地跡は広島城址公園として整備されていますが門柱や灯篭が移設保存されています。



 陸軍第五師団
 工兵第五大隊


 所在
  中区白島北町

 収録遺構 (3)
  その他 3

 実地調査
  2021年 11月












工兵第五大隊は第五師団に隷属する部隊として編成され白島地区に新設された兵営に1889年(明治22)に移りました。

昭和時代に入ると連隊に昇格し日中戦争で第五師団とともに出征したため、以降は留守部隊を基幹に多くの工兵部隊が終戦までに編成され、その兵営として使用されました。

現在、跡地は安田学園や上野学園ホールなどに変遷しており面影がありませんが、兵営と牛田演習場を結ぶために架けられた工兵橋の一部と付帯する遺構がわずかに残っています。



 広島陸軍地方幼年学校
 (広島陸軍幼年学校)


 所在
  中区基町

 収録遺構 (1)
  門柱 1

 実地調査
  2015年 11月






幼年学校は、幼少時から陸軍の将校候補を養成するための教育機関で1896年(明治29)に中央幼年学校が東京に設置され、主要都市であった広島や仙台熊本などにも地方幼年学校が設置されました。

広島地方幼年学校では13歳から16歳で入校し有料で 3年間の教育を行い、卒業後は中央幼年学校・士官学校への進学ルートがありました。大正に入ると広島幼年学校に改称し、その後の軍縮で廃止されましたが、1936年(昭和11)に復活し太平洋戦争の終戦まで存続しました。

現在、敷地跡地は市立白鳥小学校などに変遷し当時の門柱が移設保存されています。



 広島第二陸軍病院


 所在
  中区基町

 収録遺構 (1)
  門柱 1

 実地調査
  2015年 11月






広島第二陸軍病院は、傷病兵の増加にともなう病床数の確保を目的として太平洋戦争の末期に広島陸軍病院からの分離により開院しました。

1945年(昭和20)8月の時点で職員が330名・入院患者が750名いたようですが、 6日の原爆投下によって施設は壊滅状態となってしまい、多くの死傷者を出し、わずかに残った職員達がムシロやトタンを使い天幕を張り臨時救護所を設置して治療にあたっていたようです。

現在、敷地跡地は市営基町アパートや県営基町住宅などに変遷し面影がありませんが、当時の門柱が太田川沿いに移設保存されています。



 陸軍被服本廠
 広島出張所

 (広島陸軍被服支廠)


 所在
  南区出汐 2 ほか

 収録遺構 (10)
  建物 4,
  軍用地境界塀 6

 実地調査
  2015年 11月
  2015年時点の詳細をご紹介します






被服廠は、軍服や軍靴などの兵隊が身に付ける装備品を製造していた陸軍直轄の工場で東京の本所に本廠がおかれ、広島出張所は大阪に次ぎ3番目に古い組織であり、1905年(明治38)に開設されました。

その後、広島は大陸へ兵士や物資を送る重要な軍事拠点となったため、被服本廠の出張所から支廠へと昇格し、太平洋戦争の終戦まで機能が存続しました。

現在、敷地跡地は県立広島工業高校や合同宿舎などに変遷していますが倉庫や塀の一部などが残存しており見学することが出来ます。



 陸軍兵器本廠
 広島支廠

 (広島陸軍兵器支廠,
  広島陸軍兵器補給廠)


 所在
  南区霞 1

 収録遺構 (3)
  その他 3

 実地調査
  2015年 11月
  (継続調査中)










広島陸軍兵器支廠は、大阪の兵器本廠に隷属し第五師団に関係する兵器弾薬・材料の購買や、これらの貯蔵・修理を行う機関として1905年(明治38)に設置されました。

その後、陸軍兵器廠条例の改正に伴い、兵器の補給業務を統一させる目的で、隷属先の名称が変わったりしましたが最終的に1940年 (昭和15) の改正以降、陸軍兵器行政本部に隷属する広島陸軍兵器補給廠に改称され、兵器の材料や燃料などの保管と補給を行いました。

現在は、広島大学や附属病院などになっておりかつては当時の建物を多く転用したようですが取り壊されており、医学資料館の建物に当時の資材が流用されています。

 陸軍糧秣本廠
 広島支廠

 (広島陸軍糧秣支廠)


 所在
  南区宇品御幸 2 ほか

 収録遺構 (4)
  建物 1,
  建物基礎 2,
  その他 1

 実地調査
  2015年 11月
  2015年時点の詳細をご紹介します






糧秣廠は兵士の食糧・軍馬の飼料と、これらに関わる器具類の購買・製造・貯蔵・補給などを行う機関で、東京に本廠がおかれていました。

広島支廠は東京の本廠に隷属し日清戦争以降は宇品港が前線に向かう兵站基地になったことで1902年(明治35)に設置されました。

ここには建物が約30棟ほど建てられて一部は全国に展開した糧秣廠で唯一となる牛肉缶詰の製造が行われましたが、太平洋戦争末期の原爆投下により施設は壊滅しました。

現在、跡地は広島市郷土資料館や住宅地などになっていますが、わずかに遺構が残ります。



 陸軍第五師団
 江波射撃場


 所在
  中区江波東 1 ほか

 収録遺構 (2)
  軍用地境界標 1,
  その他 1

 実地調査
  2022年 3月







江波射撃場は師団編成の前身である広島鎮台の付属射的場として1877年(明治10)に設置されました。

大正時代に入ると用地の拡張が行われ、射線が2つとなり終戦まで存続しました。

現在、跡地は広島電鉄の江波営業所や市立江波中学校・住宅地などに変遷しており面影がない状況ですが、現在も所有が陸軍のままで空地となっている区画や軍用地境界標が残ります。



 比治山陸軍埋葬地
 (比治山陸軍墓地)


 所在
  南区比治山公園 5

 収録遺構 (8)
  墓標様 1,
  軍用地境界標 2,
  その他 5

 実地調査
  2020年 11月
  2015年時点の詳細をご紹介します









比治山陸軍埋葬地は第五師団の前身である広島鎮台の墓地として1872年(明治 5)に設置され西南戦争から太平洋戦争の終戦にいたるまでの戦没者・戦病没者の方々が埋葬されています。

1944年(昭和19)の敷地整理で、墓標の移設や集約などの工事が開始されましたが原爆投下により大きな被害を出したことで潰され1955年(昭和30)以降に多くの方々の奉仕活動により再建されました。

現在は比治山公園の区画となり、約3,500基の墓標様とともに、全国の戦病没者の方々が合葬されています。



 光海軍工廠
 (部材利用)


 所在
  中区中島町 1

 収録遺構 (1)
  その他 1

 実地調査
  2021年 3月









光工廠は軍備増強のために国内で 7番目となる海軍工廠として爆弾や魚雷などの製造を目的に1940年(昭和15)に山口県の光市内に開設されました。

ここに砲熕・製鋼・水雷・造機・爆弾の各部が設置され最盛期で約30,000名もの人員が従事していましたが、1945年(昭和20) 8月14日の空襲で施設の 7割が破壊され壊滅しました。

跡地は山口県光市になりますが、市内の本川に架かる現在の本川橋は、戦後の物資不足の中で光工廠の建物の部材を活用して再建された橋の1つとして現在にいたっています。



 陸軍高射第三師団
 独立高射砲兵第二十二大隊
 元宇品高射砲台


 所在
  南区元宇品町

 収録遺構 (7)
  砲座 2,
  その他 5

 実地調査
  2020年 7月
  2015年時点の詳細をご紹介します






元宇品高射砲台は広島市内の防衛を目的として太平洋戦争の末期に設置されたようです。

資料に乏しく全容を掴めていない状態ですが、ここには高射第三師団に隷属する独立高射砲兵第二十二大隊の兵員が配置され八八式 7センチ高射砲が 6門据え付けられたようです。

現在、跡地の大半が元宇品公園に変遷しており整地のために破壊されていますが、砲座や砲側弾薬庫と推測するコンクリート製の遺構などがわずかに残っています。



 陸軍運輸部
 宇品本部

 (陸軍船舶司令部)


 所在
  南区宇品海岸 3 ほか

 収録遺構 (14)
  建物 1,
  地下壕 4,
  その他 9

 実地調査
  2015年 11月
  2015年時点の詳細をご紹介します






陸軍運輸部は、日清戦争時におかれていた臨時運輸通信部を前身として兵員や軍事物資などを海上輸送するために使う船舶や、桟橋まで結ぶ鉄道の運行や整備などを行うための部署として1904年(明治37)に開設され宇品に本部が設置されました。

その後、輸送する人馬などの検疫・消毒業務も追加され、昭和時代に入ると戦線の拡大により船舶司令部が臨時に編成されて平時は運輸部・戦時は船舶司令部が業務を掌りました。

現在、跡地は公園や倉庫・工場などに変遷し、ほとんど面影がない状態ですが、当時の遺構がいくつか残っています。



 陸軍高射第三師団
 独立高射砲兵第二十二大隊
 二葉山高射砲台


 所在
  東区光が丘 1

 収録遺構 (9)
  砲座 4,
  建物基礎 2,
  その他 3

 実地調査
  2015年 11月
  2015年時点の詳細をご紹介します






二葉山高射砲台は広島市内の防衛を目的として1944年(昭和19)に設置されたようです。

資料に乏しく全容を掴めていない状態ですが、ここには高射第三師団に隷属する独立高射砲兵第二十二大隊の兵員が配置され 6門の高射砲と高射機関銃が据え付けられて防備についていたようです。

現在、二葉山は登山道が整備されているため、簡単に上ることが可能となっており、砲台群がおかれた山頂付近は、仏舎利塔の建設によって整地されていますが、わずかに関連する遺構が残存しています。



 陸軍高射第三師団
 海老山照空陣地


 所在
  佐伯区海老山町

 収録遺構 (3)
  その他 3

 実地調査
  2020年 7月









海老山照空陣地は広島市内の防衛を目的として太平洋戦争の末期に設置されたようです。

資料に乏しく全容を掴めていない状態ですが、ここに傘下の照空分隊が展開し防空用のサーチライトがおかれていたようです。

現在、跡地の大半が海老山公園に変遷しており整地のために破壊されていますが当時のものと推測するコンクリート製の遺構などがわずかに残っています。



 陸軍輸送港域


 所在
  安芸区
  矢野東 5 ほか

 収録遺構 (3)
  軍用地境界標 3

 実地調査
  2022年 11月
  (継続調査中)










陸軍輸送港域は輸送拠点の 1つである宇品港の軍事機密保持を目的として1940年(昭和15)に公布された輸送港域軍事取締法に基づいて制定されました。

輸送港域は 2種類の区域が設定され、宇品港と三菱重工業の広島造船所に接する陸地と海域を第一区・その外周にあたる陸地を第二区に定めその境界部に輸送港域標が設置されて一般人の行動が厳しく規制されました。

輸送港域標は広島湾の後背地にあたる山林内に多く残り踏査を継続していますが、安佐南区・安芸区・南区に残存を確認しています。



 呉海軍警備隊
 中野村特設見張所


 所在
  安芸区瀬野町

 収録遺構 (12)
  建物 1,
  建物基礎 2,
  その他 9

 実地調査
  2018年 12月
  2018年時点の詳細をご紹介します









中野村特設見張所は広島・呉方面を狙う敵機の早期発見を目的として1941年(昭和16)に建設されたようです。

ここには飛行機のエンジン音をとらえ索敵する空中聴音機をはじめ、探照灯や管制器・兵舎・発電施設などが設置され、終戦まで対空監視にあたりました。

現在、跡地のほとんどが山林となっていますが数多くの遺構が残存しており状態も良好です。



 陸軍運輸部
 馬匹検疫所


 所在
  南区似島町 ほか

 収録遺構 (5)
  軍用地境界標 3,
  地下壕 1,
  その他 1

 実地調査
  2021年 4月












馬匹検疫所は外地から帰還した軍用馬の検疫を目的として1940年(昭和15)に開所しました。

太平洋戦争末期の、1945年(昭和20)8月6日の原爆投下では多くの被爆者が似島にも搬送され治療の甲斐なく亡くなった方の火葬・埋葬にも敷地が使用されていたようです。

現在、跡地は市立似島中学校や市営住宅などに変遷して面影がありませんが、軍用地境界標や防空壕のほか似島臨海少年自然の家の敷地内に移設された焼却炉を見ることが出来ます。



 陸軍船舶練習部
 第十教育隊
 七人窪船艇格納処


 所在
  南区似島町

 収録遺構 (1)
  その他 1

 実地調査
  2022年 3月









七人窪の船艇格納処は、戦争末期に船舶練習部第十教育隊の本部がおかれた江田島市の幸ノ浦基地では船艇を係留出来ず、アメリカ軍からの銃爆撃を回避させるため、船艇を隠せるように設置された施設の 1つです。

施設の詳細は判っていませんが、入江を掘削し船艇格納処として利用した深い掘り込みが残り現在も見学することが出来ます。



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