日本爆発物製造 平塚製造所 (平塚海軍火薬廠, 平塚海軍火薬本廠, 平塚第二海軍火薬廠)
所在 平塚市追分 ほか
収録遺構 (19) 門柱 1, 建物 13, 軍用地境界塀 3, その他 2
実地調査 2012年 8月 |
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日本爆発物製造は、イギリスのノーベル・チルウォーズ・アームストロングの 3会社と、日本政府により設立された合弁会社で、無煙火薬の製造を行うことを目的として1905年(明治38)に操業を開始しました。
大正時代に入ると、会社設立時の契約に則って日本政府が施設を買収し、海軍省に移管されて火薬廠となり、引き続き火薬製造を行う工場として機能しました。
開廠当初は、製造部・研究部・会計部がおかれその後に総務部と医務部が加わって約 600名の従業員が従事し年産 1,200tの火薬製造能力を持っていましたが、昭和時代に入り軍備拡大に伴って拡大され、平塚を火薬本廠として現在の京都府舞鶴市と宮城県柴田町に爆薬部と支廠が設置されるまでに規模が膨れ上がりました。
1941年(昭和16)の最終的な組織改定によって、平塚火薬本廠は第二火薬廠に改称して終戦まで存続し、最盛時には約10,000名の工員が作業に従事しました。
現在、跡地の大半が民間企業に払い下げられて横浜ゴムやパイロットなどの工場や行政機関・公園などになっており、当時の遺構がいくつか残存しています。 |
横須賀水交社 平塚集会所
所在 平塚市追分
収録遺構 (2) 建物 1, 建物基礎 1
実地調査 2012年 8月
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水交社は、海軍の少尉候補生以上の武官と高等文官で組織された懇親団体で、東京と鎮守府の要港部に設置され、海軍関係の学術研究などを目的とし、1919年(大正 8)の平塚海軍火薬廠の開設に合わせ、平塚集会所が設置されました。
現在、跡地は横浜ゴムの工場となっていますが当時の建物と一部が八幡山公園内に移設され、横浜ゴム記念館として展示保存されています。 |
平塚海軍共済病院
所在 平塚市追分
収録遺構 (5) 建物 1, 門柱 1, その他 3
実地調査 2012年 8月
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平塚海軍共済病院は、平塚海軍火薬廠をはじめ平塚市内に展開した海軍施設に従事する職工とその家族を診療するための病院として、1919年(大正 8)に、前身の海軍共済組合平塚診療所が設置されたことに始まります。
その後も母体の変遷により名称が変わりますが1943年(昭和18)の最終的な改定で平塚海軍共済病院となり、終戦まで機能が存続しました。
現在、敷地は平塚共済病院となっており当時の遺構がわずかに残っています。 |
海軍技術研究所 平塚出張所 (海軍技術研究所 化学研究部, 相模海軍工廠 化学実験部)
所在 平塚市 西八幡 1 ほか
収録遺構 (2) 門柱 1, 軍用地境界塀 1
実地調査 2014年 5月
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海軍技術研究所は、兵器類の研究や開発を行う目的で開設され、東京の築地に施設がおかれていましたが、関東大震災の被災によって目黒に移されました。
研究所内は、工務・作業・砲熕・水雷・造船・造機・電気・科学・光学・航空の研究部で構成されていましたが、1930年(昭和 5)に科学部の化学兵器科が火薬廠に隣接した土地に移転し、平塚出張所が開設されました。
1933年(昭和 8)に入ると、特薬兵器と呼ばれた毒ガスの製造と実験を行う施設の建設を開始し1934年(昭和 9)に海軍技術研究所化学研究部に昇格します。その後、太平洋戦争に突入すると特薬類の生産拡充を迫られ、1942年(昭和17)に寒川町に製造工場が新設されると、化学兵器の製造を行う相模海軍工廠となり、化学研究部は化学実験部として工廠に引き継がれ、終戦まで機能が存続しました。
終戦時の化学実験部は、大小60棟以上の建物があったそうですが、不二家平塚工場や高砂香料工業などの進出によって、現在は取り壊されており、門柱や軍用地境界塀の一部が残るのみとなってしまっています▲ |
木更津第二海軍航空廠 平塚補給工場
所在 平塚市黒部丘 1
収録遺構 (1) 軍用地境界塀 1
実地調査 2012年 8月
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木更津第二海軍航空廠は、海軍航空機の造修と補給を行うことを目的として木更津におかれた横須賀海軍航空技術廠の出張所を母体に1941年(昭和16)に開設され、航空機のエンジンや航空機銃などの造修を行う補給工場が平塚をはじめ横須賀・館山などに設置されました。
太平洋戦争末期の、1945年(昭和20) 7月16日の平塚大空襲により平塚補給工場の建物は壊滅し現在は、日本たばこや湘南倉庫運輸などに変遷しており面影がありませんが、軍用地境界塀の一部が湘南倉庫運輸の倉庫に転用されており、唯一の遺構として現存しています。 |
横須賀海軍警備隊 千畳敷山防空砲台
所在 平塚市万田 ほか
収録遺構 (7) 砲座 1, その他 6
実地調査 2012年 8月
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千畳敷山防空砲台は、横須賀の軍港を統括した横須賀海軍鎮守府の隷下におかれ、軍港周辺の防衛任務についた横須賀海軍警備隊が守備する防空砲台として平塚市内に展開した海軍施設を防衛することを目的として、1942年(昭和17)に建設されました。
設置当初は 8センチ高角砲が 4門据付けられていましたが、1944年(昭和19)に12.7センチ連装高角砲を 4門と25ミリ連装機銃を 2基・25ミリ単装機銃を 1基に増強配備されました。
現在は、湘南平の高麗山公園となっていますが砲座をはじめとする遺構が少し残っています。 |
平塚自動車部品製作所 (平塚傷兵工場)
所在 平塚市達上ヶ丘
収録遺構 (5) 建物 3, その他 2
実地調査 2014年 5月
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平塚自動車部品製作所は、戦争などにより負傷した傷痍軍人に対して再起奉公の場所を提供しその厚生に貢献するために設立された会社で、1940年(昭和15)に操業が開始されました。
ここでは自動車部品のピストンを鋳物より一貫作業で製作して自動車会社のトヨタに納品し、従業員は殆ど傷痍軍人で構成されていました。
現在、跡地は平塚金属が引き継いでおり当時の建物などが残っています。 |
平塚海軍火薬廠 平塚軍用線
所在 平塚市錦町 ↓ 平塚市堤町
収録遺構 (1) その他(消失) 1
実地調査 2012年 8月
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平塚軍用線は、火薬廠で生産した火薬類の積み出しを東海道線を経由して行う目的で敷設されました。
軍用線の線路は、終戦後もしばらくは残存していたようですが、現在は住宅や学校などに変遷しており面影がなくなっています。遺構として浅間町の日産車体本社入口付近にかかる歩道橋付近に線路跡と判る部分が残っていましたが、道路舗装により現存しません。
線路跡は、2007年(平成19)の初訪で残存を確認しましたが、2012年(平成24)の再訪にて消失を確認しました・・・ |