大阪陸軍砲兵工廠 禁野火薬庫 (大阪陸軍兵器支廠 禁野倉庫)
所在 枚方市 上野 2 ほか
収録遺構 (8) トンネル 3, 軍用地境界塀 1, その他 4
実地調査 2013年 12月
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| 土塁トンネルの 1つは 中宮団地内を通行する トンネルに活用されて いますよっ★ |
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禁野火薬庫は、1896年(明治29)に開設された、大阪陸軍砲兵工廠の弾薬貯蔵施設です。現在の中宮団地を中心とした禁野(きんや)地区一帯に綿火薬庫や弾薬庫など、20棟あまりが建設され万が一の爆発事故に備えて、爆風による被害を防ぐための高い土塁が建物を囲んでいました。
戦火の拡大とともに、敷地規模を拡大していき1933年(昭和 8)には、面積が43haに及ぶ広大な弾薬庫となりました。
しかし、昭和に入り 2度にわたる大爆発事故を起こし、このうち 2度目の爆発は、近隣住民も巻き込み、死傷者が出る大惨事となりました。このため、1940年(昭和15)に代替として京都の祝園に火薬庫機能の殆どを移転させました。
禁野火薬庫の敷地は、中宮団地などの大規模な住宅地に変遷していますが、当時の遺構が少し残っています。
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大阪陸軍造兵廠 枚方製造所
所在 枚方市 上野 3 ほか
収録遺構 (30) 建物 13, 軍用地境界標 4, その他 13
実地調査 2016年 11月
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枚方製造所は、1937年(昭和12)、禁野火薬庫に隣接して開設された兵器製造工場で、ここでは主に砲弾や爆弾などが製造されました。
終戦後は、小松製作所に払い下げられて現在に至っていますが、朝鮮戦争による特需で戦後になっても一時的に砲弾が製造されていました。
現在、跡地は小松製作所大阪工場や公園・住宅などになっていますが、当時の遺構が多く残り一部を除き簡単に見学することが可能です。 |
大阪陸軍造兵廠 枚方製造所 津田軍用線
所在 枚方市津田西町 2 ↓ 枚方市上野 3
収録遺構 (3) 軍用地境界標 3
実地調査 2007年 7月
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戦時中、片町線(現:学研都市線)の津田駅より 枚方製造所を経由して禁野火薬庫へ至る軍用の引込線が敷設されていました。
引込線は、枚方製造所への材料搬入や生産品の搬出・禁野火薬庫への弾薬輸送に使用されて、終戦と同時に役目を終え、廃線となりました。
現在、引込線の殆どが国道 307号(旧道)となり線路は撤去されていますが、一部の区間だけは「中宮平和ロード」として整備され、線路跡を見ることが出来ます。この通りに沿って、当時引込線と民有地との敷地境界に設置されていた軍用地境界標のうち 3本を移設して、保存展示されています。
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東京第二陸軍造兵廠 香里製造所
所在 枚方市 香里ヶ丘 ほか
収録遺構 (35) 建物 3, 建物基礎 1, 軍用地境界標 25, その他 6
実地調査 2018年 6月
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| 妙見山浄水場の入口 付近に汽罐場煙突の 案内板があります★
中には入れないけど 外から見れますよ★ |
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香里製造所は、東京の板橋におかれていた東京第二陸軍造兵廠板橋製造所の生産拡張と、防空対策として生産拠点を分散させることが目的で1942年(昭和17)に開設された火薬工場です。
ここでは、京都の宇治火薬製造所で生産された湿火薬を乾燥させて、枚方製造所で生産された砲弾や爆弾に乾燥火薬をつめ完成させました。完成品となった砲弾や爆弾は、軍用線を使って京都の祝園火薬貯蔵庫へ運ばれていきました。
現在、跡地には香里団地や浄水場・学校などが建てられていますが、軍用地境界標や建物など当時の遺構がいくつか残存しています。
| 枚方は残存遺構が多く 1日で巡りきることは ほぼ不可能です・・・ (内容にもよりますが) 探訪する方は、緻密な 事前計画が必要です★ | |
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東京第二陸軍造兵廠 香里製造所 星田軍用線
所在 枚方市香里ヶ丘 4 ↓ 交野市星田北 7
収録遺構 (1) 軍用地境界標 1
実地調査 2008年 2月 |
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戦時中、交野市の星田駅より枚方市におかれた香里製造所へ向かう軍用の引込線が敷設されていました。
軍用線は、1941年(昭和16) 9月に開通し、大阪造兵廠枚方製造所と京都におかれた同廠の宇治製造所からの砲弾・爆弾の資材などの搬入や、香里製造所から京都の祝園火薬貯蔵庫へ向けた完成品の搬出に使用され、鉄道によった砲弾の生産工程と搬送するネットワークが確立されていました。
終戦と同時に軍用線は役目を終えて廃線となり線路は撤去され、現在は道路になっていますが軍用地境界標が 1つだけ残存しています。
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