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 千葉県船橋市の軍事遺跡一覧 収録遺構数:87 


 陸軍鉄道第二連隊
 演習線


 所在
  船橋市二和西 5
      ↓
  船橋市前原東 1

 収録遺構 (54)
  軍用地境界標 54

 実地調査
  2009年 4月

  2009年時点の詳細をご紹介します







鉄道第二連隊の演習線は、兵科演習の一環で、工事速度や敷設技術などを高めることが目的で建設され、1932年(昭和7)に津田沼の兵営より松戸の矢切 (軍用地境界標の残存から推定しています) へ至る区間が開通しました。

現在、演習線跡の多くは新京成線の路線として活用されていますが、活用されていない区間もあって、これらは住宅や道路などになっておりどちらも軍用地境界標が少し残っています。



ちなみに、松戸〜津田沼は
25キロほどあり、これを
徒歩で走破した方も多いと
思いますが、当方は初回で
 2日を費やしましたよっ★
日平均で約12.5キロか〜
とても遅い速度ですね・・

智子:標柱漬けでちょっと飽きた・・・
富貴:見落としもあるはずだけどねっ★

 軍用地境界標は、習志野〜
 前原間と三咲〜滝不動間に
 多く残存していますよっ★
 その他の区間も若干ですが
 見ることが出来ます★

 陸軍鉄道連隊
 演習線

 (陸軍鉄道第一連隊
  演習線)


 所在
  船橋市三山 8
    ↓
  船橋市三山 9

 収録遺構 (4)
  軍用地境界標 4

 実地調査
  2009年 3月

  
2009年時点の詳細をご紹介します







鉄道連隊の演習線は、兵科演習の一環として、工事速度や敷設技術などを高めることが目的で
建設され1911年(明治44)に千葉の演習場より津田沼の第三大隊へ至る区間が開通しました。この他、千葉の作草部町から分岐して四街道の下志津演習場へ至る区間も同じ時期に開通しているようです。

現在、演習線跡の多くは生活道路となっており痕跡が判りづらくなっていますが、道路両脇に軍用地境界標が残っている区間があります。


この演習線は、船橋市を
かすめる程度なのですが
その距離の割には多くの
軍用地境界標が残存して
いますねっ★
 和泉:文字まで全部確認出来たら最高なのに!
優子:十字路手前の空地は名残だねっ★
 三山十字路の少し南側は
 敷地が広くなっていたと
 思われ、現在もその跡を
 見ることが出来ますよ★

 何があったのか、とても
 気になる場所ですっ★

 陸軍騎兵実施学校

 (陸軍騎兵学校)


 所在
  船橋市薬円台 3 ほか

 収録遺構 (8)
  門柱 2,
  建物 3,
  軍用地境界標 3

 実地調査
  2022年 7月

  2022年時点の詳細をご紹介します


調査が日没近かったので
ホワイトバランスを上げ
撮影したものを縮小編集
したら、変なヨコシマが
入ってしまいました・・
普通に撮れているのに、
どうしてなんだろう・・
和泉:ありゃ?ダメ?

騎兵実施学校は、馬術や射撃などの教育を行い1888年(明治21)にこの前身である乗馬学校が東京の麹町に設置されたことが始まりで、教育科目が増えたことにより騎兵実施学校に改称し目黒の新校舎に移転しましたが、演習や訓練を行う用地が手狭であったため、広大な習志野原演習場に着目し、これに隣接する形で1916年(大正 5)に再度移転しました。翌年に入ると、最終的な名称となる騎兵学校に改称され馬術・馬事・射撃・実兵の指揮とその教育手法を学ぶ教育機関として機能しました。

現在、跡地は陸上自衛隊習志野駐屯地となっていますが、当時の建物と思われる遺構が駐屯地敷地内に残っています。

ちなみに、以前の陸軍学校は学校の種類が 2つ存在し、養成にあたる「補充学校」と学識技能練磨にあたる「実施学校」がありました。この学校は後者に該当しますが、後の改正によってこれらの区別は最終的になくなりました★



 陸軍習志野原演習場

 所在
  船橋市習志野 4 ほか

 収録遺構 (3)
  軍用地境界標 3

 実地調査
  2009年 3月

  
2009年時点の詳細をご紹介します



優子:解りづらいねっ・・・ 
習志野という地名は、
船橋市の中にある方が
由来だそうですよっ★
隣には習志野市もあり
ややこしいですね・・

習志野原演習場は、東京に展開する陸軍部隊の兵科演習場として、1873年(明治6)に設置されました。「習志野」という地名は、同年の 4月29日に明治天皇の観閲下で宮城部隊の大演習がこの地で行われた際に見事な指揮を執った篠原国幹少将を明治天皇が誉め「篠原の志をみんな見習うように」と言ったことに由来する伝えもあるそうです。

演習場は、船橋市・習志野市・八千代市に跨る広大なもので、東京方面から習志野原へ演習に来る兵のための廠舎が敷地の南側に設置されて演習期間中の仮兵舎に使われました。その後、隣接して騎兵旅団騎兵実施学校がおかれるとこれらの兵科演習場としても使用されました。

現在、敷地は陸上自衛隊習志野演習場や住宅・日立製作所などの大規模工場地帯になっており当時の面影は全くありませんが、敷地の西端にあたる部分に軍用地境界標が残っています。



 陸軍習志野学校

 所在
  船橋市三山 8 ほか

 収録遺構 (1)
  その他 1

 実地調査
  2007年 5月



一応、コンクリートの
質感や残存位置などを
考察して当時のものと
判断しましたが、違う
場合も十分あります▲
 和泉:違ってたらゴメンね・・・

習志野学校は、毒ガスを使用した兵器の開発や研究と、これを用いた戦闘の研究や訓練などを行う目的で1933年(昭和8)に騎兵第十六連隊の跡地を利用して開設されました。当時、日本は毒ガス類や細菌を戦争に使用しないという国際協定(ジュネーブ議定書)に調印していたため、ここでの活動は秘密とされました。そのために現在に至っても完全に解明出来ていませんが、戦後のアメリカ軍の立ち入り調査や周辺住民の証言などにより、毒ガス類を扱う機関であったことが確実視されています。

学校の建物は、ほとんどが習志野市におかれていましたが、訓練を行うための演習場の一部が船橋市にも跨っており、現在は県営住宅などとなって面影が全くありませんが、演習場の北限部分に当時のものと思われるコンクリート製の遺構が残っています。



 習志野陸軍糧秣廠
 軍用線


 所在
  船橋市三山 8
     ↓
  船橋市三山 9

 収録遺構 (1)
  軍用地境界標 1

 実地調査
  2011年 2月





以前から、この付近には
同方向に並行して軍用地
境界標が設置されている
ことにどうしても納得が
いかなかったのですが、
習志野市史を見たら一発
でしたっ!もっと早くに
気がついていれば・・・
富貴:これじゃ参謀長失格だわ・・・

習志野陸軍糧秣廠は、習志野原演習場へ演習に来る諸部隊や、騎兵実施学校・習志野市に設置された騎兵旅団に対して、兵や馬の食糧を供給することを目的として1896年(明治29)に設置されました。ここには、糧秣を保管するための倉庫が数棟おかれ、これらの施設へスムーズに供給を行うために、糧秣廠から騎兵旅団へ至る
軍用線が敷設されました。その後、鉄道連隊の演習線へ延伸させ、糧秣類の倉庫への搬入は、便利な鉄道が使用されるようになりました。

現在、糧秣倉庫の跡地は習志野高校や住宅地となっており、当時の面影が全くありませんが、軍用線跡の一部区間に軍用地境界標が現存しています。


この軍用地境界標は、
鉄道連隊演習線として
遺構の掲載をしていた
ものですが、糧秣廠の
軍用線のものと判り、
ここへ移設しました★
 和泉:移設してごめんねっ★

 習志野陸軍埋葬地
 (習志野陸軍墓地)


 所在
  船橋市習志野 2

 収録遺構 (1)
  墓標様

 実地調査
  2018年 9月






習志野埋葬地は、現在の船橋市・習志野市内に展開した陸軍部隊の戦没者や戦病没者の方々を埋葬するために明治時代に設置され、終戦まで存続しました。

戦後は、習志野開拓入植者のための墓地となりその後は船橋市に移管され現在は習志野霊園となっていますが、霊園の一角に墓標群がおかれ定期的に清掃や剪定が行われています。



 陸軍東部軍管区
 教育隊


 所在
  船橋市薬園台 4

 収録遺構 (1)
  門柱 1

 実地調査
  2011年 3月








東部軍管区教育隊は、東部軍管区に配属された下士官に対し教育を行うことを目的に1943年(昭和18)に開設されました。

教育隊が設置された背景に、太平洋戦争の戦局悪化に伴って学徒が兵として動員されるなかでこれらの指導者となるべき下士官が極端に不足してしまったことが挙がります。

これに伴って多くの下士官を養成させることが急務とされ、ここで終戦までの間に約 2,000名ほどが教育を受けました。

現在、跡地は薬園台高校や薬円台小学校などに変遷しており、当時の面影が全くありませんが新京成線の習志野駅の東に位置する狭い路地に当時の裏門が 1つだけ残存しています。



 海軍東京無線電信所
 船橋送信所

 (東京海軍通信隊
  船橋分遣隊)


 所在
  船橋市行田 2 ほか

 収録遺構 (14)
  建物 2,
  軍用地境界標 4,
  その他 2
  軍用地境界標(消失) 4,
  その他 2


 実地調査
  2011年 2月

  2011年時点の詳細+αをご紹介します


智子:ここは勉強になるねっ★
敷地は複数回にわたって
拡張されており、軍用地
境界標のパターンで区別
することが出来ますよ★



船橋送信所は、日露戦争後における海軍兵力の増強に伴って建設された無線通信所の 1つで、1913年(大正 2)に建設工事が始まりました。当初、使用する無線電信機はドイツ製のものが採用されることとなったため、工事はドイツ人技師も参加して進められましたが、後の第一次世界大戦で日本はドイツに宣戦布告したため、工事に携わったドイツ人技師は設計図や書類を焼いて帰国したそうです。このため、日本人の技術者だけで建設作業を継続させ、この翌年に高さ200メートルの主塔と、これを囲むように高さ60メートルの副塔18本が完成し、主塔と副塔の間に鋼鉄の空中線が張り巡らされ、無線通信が開始されました。当初は軍用通信のみに使われましたが、後に国際無線通信も行われるようになり、関東大震災で東京の状況を各地へ伝える役割も果たしました。

1937年(昭和12)に入ると無線塔は全て新しいものに替わり、高さ150メートルの鉄塔 6本と短波送信用の高さ100メートルの鉄塔 2本と、高さ73メートルの鉄塔 3本が設置され、同時に東京海軍通信隊船橋分遣隊と改称し、1941年(昭和16)には日米交渉が決裂したことで太平洋戦争の開戦を全艦隊に伝える暗号電文を長波・短波で一斉送信しました(ニイタカヤマノボレ1208)。

終戦後、施設はアメリカ軍に接収され極東空軍専用送信所に使われましたが、のちに返還され現在は行田団地や行田公園などとなっており、建物などは消失していますが、軍用地境界標を中心とした遺構が残存しています。また、行田団地の外側をはしる円周道路は、初期の敷地の外側をはしっていた道路の名残です。



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