東京第二陸軍造兵廠 深谷製造所
所在 深谷市原郷 ほか
収録遺構 (10) 建物 5, 建物基礎 3, その他 2
実地調査 2012年 6月
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深谷製造所は、東京の板橋におかれていた東京第二陸軍造兵廠板橋製造所の生産拡大を目的として、1943年(昭和18)に開設されました。
太平洋戦争の末期は、空襲による板橋製造所の生産維持をはかるための疎開先にもなり、大小合わせて 350棟に及ぶ建物があったそうです。また、本部がおかれた原郷工場のほか、明戸・櫛引にも各工場が設置され、 2,375名の工員と約 500台の工作機械の稼働によって無煙火薬の月産生産能力は 115トンに及んだようです。
現在、敷地跡地の大半が農地に転用されており大半の建物群は解体されてしまっていますが、当時の遺構がわずかに残っています。 |
日本煉瓦製造 上敷免工場 (東京第二陸軍造兵廠 深谷製造所 明戸工場)
所在 深谷市上敷免
収録遺構 (8) 門柱 3, 建物 3, その他 2
実地調査 2016年 4月
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日本煉瓦製造は明治政府が日本に招いたお雇い外国人の 1人であったドイツ人建築家の進言を受け、都市整備のために必要な煉瓦を製造することを目的として、渋沢栄一氏をはじめとする当時の実業家によって1888年(明治21)に操業を開始した民間の煉瓦製造会社です。
ここでは、ドイツから輸入した当時の最新式のホフマン輪窯や近代的な機械類を使った煉瓦の大量生産が行われ、製造された煉瓦は利根川の舟運や専用鉄道を使用して全国に運ばれていき東京駅や日本銀行などをはじめ、各軍事施設の主な建造物の資材に利用され、日本の近代化に大きな役割を果たしました。
昭和に入って太平洋戦争に突入すると、戦局の悪化と本土空襲の懸念から東京第二陸軍造兵廠板橋製造所の疎開先として目をつけ、日本煉瓦製造の敷地の一部と、隣接する土地を買収して最終的に深谷製造所の明戸工場として稼働し、火薬類の生産が終戦まで行われました。
終戦後も日本煉瓦製造は事業が存続しましたが2006年(平成18)に自主廃業し 約120年の歴史に幕を下ろしました。
現在、当時の遺構としてホフマン輪窯をはじめ事務所・変電所などが残存しており、所有権が深谷市に移されたうえで日本煉瓦史料館として整備・保存されています。 |
日本煉瓦製造 深谷専用線
所在 深谷市上敷免 ほか
収録遺構 (7) 橋梁 5, その他 2
実地調査 2016年 4月
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深谷専用線は日本煉瓦上敷免工場で生産された煉瓦を輸送する目的で、それまで使われていた利根川の舟運に代わる手段として1895年(明治28)に敷設されました。
専用線の総延長は約 4キロあり、JR高崎線の深谷駅から分岐して北上し上敷免工場の構内に引き込まれていました。
太平洋戦争に突入すると、東京第二陸軍造兵廠板橋製造所の疎開先となった深谷製造所の明戸工場での軍用線としても使われたようです。
現在、専用線は廃止されて遊歩道となっており当時の橋梁が残っています。
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